89 障壁 7
半刻ほど前。
「ウルフィオーレ市内は既に静まり返っております。広場に居残って最後まで浮かれ騒いでいた連中も、強制的に家に帰しました」
「左様か。いやご苦労」
ドルリーは上機嫌で、その日最後の報告を持って現れたファイザルに頷きかえした。
片手には赤い酒がなみなみと注がれた杯を持っている。
横にはやはり酒の杯を手にしたフローレスが椅子にもたれていた。
「すまぬな、ヨシュア。お前達が休みも取らずに働いておるのに、形だけとはいえ、責任者たる我らがこのように……」
生真面目なフローレスが杯を卓に置こうとしたが、ファイザルは緩やかに首を振った。
「お気になさいますな。閣下のお気持ちはよくわかります。市民とて同じこと。辛苦の果ての講和は、何よりも嬉しいものでございましょう」
「全てお前のおかげだ、ヨシュア・セス」
フローレスは心からそう言った。
「その通りだ。どうだ、そなたも一杯ぐらい飲まぬか? イケル口だろ?」
ドルリーも禿げ頭を赤く光らせて新たな杯を取る。
「いえ、お気持ちだけ頂いておきます。まだ、気を抜くわけにはゆきませぬ」
「お堅いのう……だが、お前からしてみればそうだろうて……すまぬ、今宵だけは浮かれ爺ぃ共を許してくれい」
将軍達は息子を見るような眼でファイザルを見て笑った。ファイザルも老将軍達の気持ちはよくわかる。
「心ゆくまで浮かれてください」
ファイザルは理解を込めて頷いた。
二十年続いた戦争に、人生の多くの部分を費やしてきた彼らなのだし、敬愛する人の血を受けた姫の存在を知り、彼らは心から嬉しいのであろう。
「一つだけ伺いたい事が」
「ん?」
「晩餐の後、ジキスムント卿とアラメイン殿下には、宿舎にお戻りになっておられないとか」
「ああ……その事か。確かに」
「お二人はまだ帰られておられぬ」
将軍達はそろって頷いた。どうやら事情を知っている様子である。ファイザルは怪訝そうに眼を細めた。
午後の市民を前にした講和宣言に続き、急遽取り行われた市庁舎での晩餐会は、使節団の荷に積まれていた多くの食材や酒のおかげで、エルファランの体面を保てる豪華なものとなった。
ファイザルも末席で晩餐のみ参加したが、早々に切り上げ、和平に浮きたつ市中の警備体制を指示したり、庁舎内を見回りをしたりで忙しくしていた。
大使たちも緊張の連続で、ファイザルは晩餐の終わる頃のレーニエの横顔に疲労の色が濃い事を見てとっていた。食事も殆ど摂っていなかった事も。
そのすべてが滞りなく終わった今、あの娘はゆっくり休んでいるのだろうか?
「この上まだ政治向きの事があるのでしょうか? お二人はドルトン殿とお話でも?」
「いや、ドルトン殿とは直接話はされない……と思う」
「……どういうことでしょうか?」
ファイザルの眼が険しくなった。
「ジキスムント卿とアラメイン殿下は、レーニエ殿下のお部屋に行かれた」
「聞いておりませぬ! 警備の者は!?」
ファイザルは顔色を変えて扉の方へ身を翻したが、フローレスはその背中に声をかけた。
「待て、ヨシュア・セス。今ここでレーニエ殿下に何かあれば、今度こそ国を滅ぼされるだろうことは、ジキスムントはよく承知しておる」
「しかし!」
「そして、ドルトン殿は今シザーラ殿といる。つまり万が一の時の人質だな。それほどの覚悟があると言う事だ。我々も黙っていた訳ではない。反対はしたし、付き添うとも言った。だが、最後はレーニエ様が会うと申されたのだ。我々もひかざるを得なかった。身体検査は厳密に行った。口の中までな。だが、今晩の用向きを考えれば、そんなに警戒することもなかったかもしれん」
「用向き? それは?」
「わからぬかな?」
「……」
わかりたくもない。
協定の場にザカリエ王弟が突然現れてから、ファイザルの心中は混乱を極めていた。この状況についても、そして自分自身についても。
「俺は政治家ではありませんから」
ファイザルは扉に手を掛けたまま言った。非常に気分が悪かった。
「であるか。ふむ……おそらくアラメイン殿は、レーニエ姫殿下に求婚しに行かれたのであろうよ。だから野暮は止す事だ」
フローレスの言葉にファイザルは愕然と向き直った。
「……求婚?」
「そうだよ。だがまぁ、わしはよい話だと思う。お二人は御身分も年の頃も釣り合う。ついでにご容姿もな。しかも、お二人とも王位継承権や利権、富にさっぱり拘泥されていない。両国をとり持つ関係として、これほど理想的な縁組みはそうはない」
「……理想的」
「早計は禁物だがな。陛下も元老院もこの事を見越して、あの姫殿下を使者としてお寄こしになったのだと、納得できるわい。ん? どうしたヨシュア・セス。恐ろしい顔をしておるぞ、やはり疲れているのではないか?」
ドルリーは強張ったファイザルを見て杯を置いた。
「お前……」
「いえ、なんでもございませぬ」
彼の言葉は明瞭だが、声が限りなく低い。
「なんでもないとは思えぬが?」
「確かに伺っていない段取りなので、かなり驚いております。できれば一言伝えてほしかった……俺は王女殿下の安全に責任があります」
「それは我らもだが……しかし」
「失礼。俺はこれからレーニエ殿下のお部屋に向かいます。ご会見の内容がどのようなものであるにせよ、万一と言う事がございますれば、お部屋の前で待機する所存でございます。それに、もしザカリエのお二人が、こちらにお泊りにならぬのであれば、宿舎までお送りする者が必要でしょう」
「そうか……お前に頼んでよいかの」
「は」
「お前も苦労だのう……」
ドルリーが大げさな溜息をついた。
「王都に戻ったら、必ず良き処遇を進言するでな」
「ありがたきお言葉……では」
ファイザルは一礼すると大股で部屋を出て行った。
「レーニエ様。お言葉、真でございますか?」
レーニエが、自分の思いの丈を述べて口をつぐんだ時、ジキスムントがゆっくりと顔を上げて言った。
「真だ。私などがあなたのような経験豊富な施政者に、こんな事を申すのは笑止千万だろう。けれども今の言葉に偽りはないと約束しよう。私とて和平のためとあれば、いつまでも領地に籠っている訳にもいかぬ。我が身でよければお役に立てて頂きたい」
「お言葉しかと承りました。この爺ぃめの、乾ききった心の内に沁みとおりましてございます」
ザカリエ宰相、ヴァン・ジキスムントは恭しく頭を下げた。
灰色の頭部を見つめ、レーニエは慎重に言葉を選ぶ。
実のところこれが正しい判断なのか、彼女には自信がなかった。自分としてはかなり無理をした言葉なのだが、老宰相に言質を取られてはまずいのかもしれない。
「お顔を上げられよ。ジキスムント殿。私は自分の意志を伝えたまでで、何かを決められる権限はない。既に王位継承権もなく、政治的には全くの無能力者だ。全てはファラミアに帰って母上にご報告申し上げてからのこと」
「しかし、あなたの今のお言葉は」
「私は……いや、私もそれが良いと思いまする」
意を決したように王弟アラメインも言葉を挟んだ。その白い頬は、先ほどよりも幾分赤みを帯びている。
「けれども、うまくいくかどうか」
「もしジキスムント殿が、この意見をご採用になられたなら、この後は卿をはじめ、ドルトン殿や文官達で宜しく取り計らい、条件などを纏められたらいいと思う。目指す方向さえ決まれば、推進するのも可能であろう」
「御意。レーニエ殿下には幾重にも感謝申し上げます。あなた様の言葉は重みがございました。私などには及ばぬ発想で、正直驚きを隠せませぬが」
「……」
レーニエはいよいよ当惑した。
この事をファイザルが知ったら何と思うだろうか?
何の経験もないくせに、勝手にこのような重大な事を進めた愚か者だと、今度こそ本当に嫌われてしまうかもしれない。
そんな事になればどうすればよいのだろうか?
「大げさにされると、困ってしまう……そんな大それたことを言ったつもりはない。ただ、私でも何か役に立てるのならと、以前から考えていた事を言葉にしたまでだ」
「それでも、ありがたき幸せにございます。これで両国の平和はなると、爺ぃは確信いたしました。これを聞けば、ギベリン陛下もさぞやお喜びになると」
「……そうかな」
赤い唇が噛みしめられる。
「不安に思われますな。僅かな時間ではございましたが、レーニエ殿下のご誠実さとご献身はよく分かりましたぞ。この爺ぃ、老いぼれてはおりますが、人を見る目は確かなつもりでございます」
「自分でもそう思えたらいいのだが」
ついさっき大胆な着想を示した人物とは思えないほど、不安げに瞳を揺らす姫君。この娘は、自分の孫娘よりずっと年下だったのだと、老宰相は思い当った。
「そのようなご発想は、誰にでもできる訳ではありませぬ。故に案じられるのも無理はありませぬが……失礼ながらレーニエ様、もう一つお願いの儀が」
「なんだろうか?」
「レーニエ殿下、あなた様の証を何かいただけませんでしょうか」
「私の証?」
「はい、言葉は形を成さぬもの。例え書面にしても確かではありませぬ。
殿下のお心の証になるような品を頂ければ、私どもが国に帰り、この会見の事を伝える折に、レーニエ様のお心の内を皆に知らしめることができると言うもの」
「しかし、私の持ち物と言っても……」
物欲のない彼女は宝石も、貴金属もほとんど持っていない。
周りは至るところ戦争の傷跡だらけだ。民の心を思い、身の周りのものはできるだけ少なくしてここに来た。
「ええっと」
レーニエはさて、何があるかと思い出そうと首をひねった。
「何か、あなた様を象徴されるような物がございませぬか」
「象徴……身の回り物……ああ、もしかしてこれなら」
レーニエは背後の机の引き出しから小箱を取り出した。
「これ!」
レーニエが差し出したものは、母から送られた貴石、ソリル二世を象徴する貴石、ティユールカイトの指輪である。
濃紺の布が敷かれた小箱の中で、石は秘かな輝きを放っている。
「これはまた!」
ジキスムントは声を上げた。
「なんとお気前のよい。一国の君主の身代金と言ってもいいような貴重な宝石を」
「構わぬ。これは母から賜った品だが、私のものだから問題ない。さ、受け取られよ」
「……やめておきましょう」
「なぜ? これ以上値打ちのあるものを私は持たない」
「確かにこれは素晴らしい至宝でございます。しかし、いかに貴重なものとはいえ、ただの石でもあります。富裕な物ならば、所有致している場合もございますし、何よりこれは、あなた様のお母上を表すもの」
「母上を表すものは、すなわち私を表す者ではないのか」
ゆったりと微笑しながらジキスムントは首を振った。
「では何を……」
レーニエは途方にくれて、悪戯っぽい光りを含んだその瞳を見つめた。
「私は初めからこれを頂こうと決めておりましたよ」
「ええ? それは何?」
「その美しい御髪をいただけませぬか?」
「爺、それは!」
アラメインは驚いたように腰を浮かす。
「髪? 私の?」
思いもつかぬ事を聞いて、レーニエも目を見張った。
「左様で。このように珍しいお髪を持つ者はおりませぬ。これぞまさしくレーニエ殿下の証」
「髪……髪って、こんな物でよいのか? 本当に?」
「はい、頂けましょうか?」
「それは無論……でも髪?」
まだ納得がいかぬ気に首を捻りながら、レーニエは机に取って返し、封書用の短刀を取り上げた。小さいながら鋭利な刃が付いている。
レーニエはおもむろに首を傾げると、もう一方の手で無造作に項から白銀の髪を引っ掴んだ。
「やめてぇ――!」
老政治家は、狼狽のあまり素っ頓狂な声を上げた。
彼がそんな声を出したのは何十年ぶりだろう。アラメインはご意見番が卒中でも起こしたかと、思わずその身を支える。
「爺!」
「ちょっと、これ! あなた、何をなさいます!」
自国の王子の手を振りほどいて、老宰相はレーニエに駆け寄る。
「え? だから髪を」
「誰が、根元からバッサリと申しましたか! ああ、恐ろしい。そんな事をされては再び戦争再開だわい!」
「は?」
まさに髪に刃を入れる寸前で、レーニエはぴたりと止まっている。
「少しでいいんですよ、ほんの少しで! まったく、何と言うお方だ、あなたは。ご自分の髪が惜しくはないのか!」
「特に」
不思議そうにレーニエは老宰相を見た。手にはまだ短刀を持っている。
「いったいこれは……何と言う姫だ。髪は女の命と言うではありませんか!」
「知らない。では、どのくらいならいいのだ?」
「このくらい」
ジキスムントは指先を丸め、自分の灰色の髪を少しばかり摘まんで見せた。
「なぁんだ、雑作もない」
なんで、自分が髪を切ったら戦争再開につながるのかよくわからないまま、レーニエは絹糸のような髪を一筋掬い上げた。
ファイザルがヘタレだと、アクセス数がどっと減ります。
見たくないのはわかるんだけど、完璧なヒーローよりも、人間味があると思うんですよ。
長い物語なので、谷は当然あります。
ずっといちゃ甘ならこの物語は成立しないんで。
もう少しご辛抱を。