88 障壁 6
華々しく執り行われた儀式の後、急遽晩餐会が設けられ、使節団の主だったものが出席した。
それも果てた夜更け。
「レーニエ様、皆様方が参られました」
サリアが告げた。
この内々の会談は、ザカリエ側よりドルトンを通じて求められ、レーニエが応じたものだ。
ドルトンは厳正な身体検査を行う事を条件に、二人を迎え入れることを承知した。
彼はレーニエに対し、自分はこの件に関して一切口を挟まないことを伝えた。
「私に下された命令の主旨から本件に介入いたしません。レーニエ様の安全は保障いたします」
レーニエは彼の判断を信じた。とにかく、会わねば何も始まらないと思ったからだ。
「お通しして」
レーニエは、サリアに指示する。
ザカリエ王弟アラメインと宰相ジキスムント卿、そして最後に影のようにドルトンが入ってきた。
ジキスムントは丁寧に頭を下げた。ザカリエの二人も同じく深礼をとる。
「今日は大変な一日でありました……さぞやお疲れと存じておりますのに、申し訳ございませぬ」
「構わない。大切なご要件とか。サリア、外せ」
「はい。では、ご用があれば、隣で控えておりますので」
扉を閉める前に心配そうな一瞥を主に投げかけ、サリアが下がる。
ジキスムントに目配せをすると、ドルトンも部屋を出た。
「おや、レーニエ姫には男物の服をお召しに?」
アラメインはシャツに下衣という、レーニエのいつもの服装を見て驚いたようだった。公式の場では王女として振る舞ってきたが、窮屈な服装が元々苦手なレーニエは、私室に戻るとすぐに着替えてしまう。
髪も解いて後ろで緩く結わえるだけにしてしまうので、彼は初めて見る長い銀髪を珍しそうに眺めた。
「私はゆったりした服装が好きなもので……お見苦しい点はお許し願いたい」
自分が姫と言われたことを面映ゆく感じながら、レーニエは二人に椅子をすすめた。
「いえ、よくお似合いです。私もこのような略装で失礼いたしておりますれば」
「殿下、時が惜しゅうございます。レーニエ殿下、失礼ですが、早速本題に入ってよろしゅうございますか?」
ジキスムントが自国の王子を遮る。レーニエは無言で頷いた。
「この爺めは失礼ながら、今日一日のご様子を見て、レーニエ様を大陸で一番古い王家のご直系に相応しい、度量の広い方とお見受けいたしました。そのご気性をお見込みいたしまして、単刀直入に申し上げまする。ドルトン殿もこの事はご承知済みで」
「そうか。申せ」
「では申し上げます。エルファラン王室には、ザカリエ王家と姻戚関係を望まれまするか?」
「……」
レーニエは静かに赤い瞳を見開いた。
思わず宰相の横に立つアラメインを見たが、彼は何も言わずうつむき加減に座っている。男にしては長い睫毛が物憂そうに伏せられていた。
「いかがでございましょうや?」
「……なるほどな」
レーニエは柔らかく視線を解いて苦笑を一つ落とした。
「母上の申されたとおりに事が進む」
「ほう……と申しますと?」
「大使の役目を申し出てから、私の知らないところでは、いろいろな準備が整えられていたという事だ」
「おお! それでは。ソリル二世陛下には、この婚姻を既に姫にご相談に?」
「そうではない。貴国から私に個人的な話が持ち出される事もあるだろう、と母上はおっしゃっておられた」
「なるほど。さすがにエルファラン国王陛下は慧眼であらせられる。左様。年齢の釣り合う王子、王女殿下が隣同士の国にいらっしゃるのですから。戦がなければ、いや、ドーミエがいなければ、もっと早くこの話が持ち上がったかも知れませぬな」
いや、自分はずっと日陰の身だったからそれはないはず……とは言えず、レーニエは黙ったが、ジキスムントは真面目な顔で続けた。
「ですが、これは個人的な話ではありませぬ。我が国は敗戦国。賠償問題は概ね決着がつきそうだが、それだけでは疲弊しきった民は心から安心しませぬ。そこで両王家の結びつきと言う、目に見える形での関係強化を、と考えるのは、人情でございましょう」
「……意味はわかる」
「幸いにも、アラメイン殿下は王弟。レーニエ様はこう申しては失礼ながら、お生まれのご事情の複雑さ故か、王位継承権は既に放棄しておられるとか。もしこの婚姻が実現したとして、両王家にはさしたる波風も立ちますまい。この場合、敗戦国たる国の王族アラメイン殿下の入り婿となりましょうが、レーニエ様には承服頂けましょうや?」
「そんな事を申してよいのか?」
「どういう意味でござりましょう」
「アラメイン殿にはいかが思われる」
レーニエは老宰相には応えず、なぜか苦しげに自国の宰相の話を聞いている、自分の婚約者になるかもしれない青年の方を向いた。
「私は……はい。国の安寧の為ならば、どんなことでも致す所存で……それが王家に生まれた者の崇高なる義務かと」
彼は美しい翡翠の目に、哀しみの色を湛えて言った。
「そうか」
「アラメイン殿下、その言い方ではいかにも気が進まぬご様子です。レーニエ姫に失礼ではありませんかな?」
「え? いえっ! 私はそう言うつもりではっ!」
アラメインは酷く狼狽えて立ち上がり、レーニエに頭を下げた。
「構わない。アラメイン殿には、正直におっしゃっていただく方が良い」
「しかし、ソリル陛下がそうおっしゃられたという事は、エルファラン王家には異存がないと言う事でありますな」
「さぁ、それは知らぬが、そう言う話が出ることを予見できなかったのは、私だけであろうな」
苦々しげにレーニエは言った。
「私は事情があって今まで、ずっと隠棲してきたのだから。貴国の事情もよくは知らぬ」
「御意」
満足そうにジキスムントは頷く。彼の思い通りに話が運んでいるのだろう。
「シザーラ殿はこの事は御存じか?」
レーニエはアラメインに向かって尋ねた。
「え? は……はい。きちんと話はしてはおりませぬが、彼女は聡明ですから、おそらく全て察しているでしょう。ですが、なぜ今シザーラのことを?」
「知りたいと思って」
「レーニエ殿下。何をおっしゃりたいのか分かりかねますが、これは国同士の決めごとでございますれば、個人の私情など挟む余地はありませぬ。よって、形式的にお伺いするのでありますが」
ジキスムントは断固とした調子できり出した。
「聞こう」
「レーニエ殿下には、このお話をご承服していただけるのでしょうか?」
極めて穏やかに且つ紳士的に、ジキスムントは尋ねた。
レーニエは静かに彼を見つめる。ジキムスントも彼女を見つめ返す。しばらく沈黙が部屋を覆った。
「ジキスムント殿はシザーラ殿のおじい様であらせられるのだろう? 我々の婚姻が成立すれば、シザーラ殿は悲しまれるのではないのか?」
やがてレーニエが静かに問うた。
「なんと!?」
外交的演技ではない、本物の驚きの表情が老宰相の灰色の瞳に浮かんだ。
アラメインも同様である。彼は美しい瞳を見開いて、レーニエを食い入るように見つめている。
「単刀直入に申し上げるが、アラメイン殿とシザーラ殿。お二人は愛し合っておられるのだろう? 以前は婚約もされておられたはず。違うかな」
極めて平坦にレーニエは続ける。ジキスムントは暫し、紡ぐべき言葉を失った。
ある意味、正念場とも言うべきこの場で、この姫は一体何を言いだされるのか? 作為があるのか、それとも。
百戦錬磨の老政治家も、ガラス玉のような赤い瞳に潜む意図を測りかね、深窓の(としか見えない)姫君を見つめる。
彼に見つめられて震え上がる人間は何人も見たが、レーニエは特に怖気づく様子も見せず、ごく自然に彼の視線を受け止めていた。
「なるほど。先程も感じましたが、貴国はかなり優れた諜報網をお持ちのようですな」
それはドルトンを通じて齎された、フェルディナンドが苦労して得た情報である。それは昨晩ドルトンに齎されたばかりのものだった。
レーニエはフェルディナンドが敵国の王宮に潜入し、危険を冒して手に入れた情報を無駄にしたくはなかった。
今が、今こそが母の示唆した「その時」なのだ。
「事実であろ?」
「エヘン……先程の広間での醜態はともかくとして」
ジキスムントは軽く咳払いをした。
「アラメイン殿下と我が孫娘の婚約の事も、それが解消されたことも、我が国でも殆どの者が知らないことでしたが、私の不在の間に随分ザカリエ宮廷も墜ちたものだ。そんな情報を容易く入手できるとは」
「容易い訳がない。私の愛する者が命がけで得た貴重な情報だ。無駄になぞできぬ。使うべき時に使うのがよい」
未だ、王宮内に潜入したままのフェルディナンドの事を想い、レーニエは苦しそうな顔になった。
「それに先ほどのやり取りで、お二方の仲はあの場にいた者達に知れ渡ったも同じだろう。鈍感な私でさえ気がついたのだ。婚約がなぜ解消されたかは知らぬが、お二人はまだ愛し合っておられる、そうだな、アラメイン殿」
「……は」
「誤解の無いように言っておくが、私とて戦が止まり、人々のためになるのであれば、この役立たずの身一つ、国の為に投げ出すに吝かではない。
それがどんなに不本意であっても。しかし、母上は、私に自分の意思で行動するようにおっしゃられた」
今ならわかる。フェルの事も。
こう言う時の為に、さまざまな準備をしておく必要があったのだ。何が切り札になるかわからぬものだから。
だとすれば。
既に心は決まっている。
「私は想い合う二人を押しのけてまで、この婚姻を進めようとは思わぬ」
レーニエはアラメインに向かって言った。
「確かに、私とシザーラは愛しあっております」
苦しげに金髪が揺れる。
「幼いころから一緒に育ち……でも、凡庸な私と違って彼女は聡明で、勉強家で、度胸もあり、私は彼女にずっと憧れておりました。情けない私の相談にのってくれ、その身を危険に晒して。ですから、今回のことで私でも国の役に立てることを示したくて……」
アラメインは己が両手に顔をうずめてしまう。金の髪が乱れてその額に懸った。
「それでよいと申されるのか?」
レーニエは項垂れるアラメインに問いかける。見かねてジキスムントが口を挟んだ。
「レーニエ様、しばらく。私はシザーラに諦めよと申しました。彼女も我が孫。女ながらによく政治を学び、国家間の駆け引きの事は弁えております。先ほどもあの娘の方から、この話を進めるように申して来よりましたわ」
「お辛かったであろうな……」
レーニエはシザーラに、己が心の内を重ねた。
シザーラ殿の決意の片鱗も私にはない。今この瞬間も、会いたくてたまらないのだから。
「何を仰せられますか。レーニエ様もおっしゃられたではありませぬか。戦は人の心の欲がもたらすもの。ならば施政者同士の絆が深まれば、人々の我欲故の闘争心の抑止力になるはずです。レーニエ殿下、あなたも国王の娘ならば、よく考えてごらんなされよ」
老宰相の声は厳しかった。
ドンドンドン
乱暴なノックの音に、隣室で控えていたサリアは、はっと顔を上げた。
音はレーニエたちがいる奥の間ではなく、廊下から響いてくる。
レーニエの居室にザカリエ王弟と宰相が来ている事は、誰にも知られていないはずだった。
「どなたでしょう」
サリアは用心深く扉に口を寄せ、低く問うた。
「俺です。どうか、開けて下さい」
扉の向こうから低く錆びた声がした。
わー!
ちゃんと、ちゃんとしますので、見捨てないで!
ご新規様!