79 王都 5−1
「王家の方とおっしゃいましたか……?」
錆びた声は静かだったが、驚きの色を隠せていなかった。
この人が動揺している……何故だろう?
ファイザルが言われたことを聞き直すなど、ほとんど記憶にない事だ。
後ろに控えていたジャヌーは、上官の背中を見つめた。
「そうだ。我々も驚いている。お使者は既に王都を発たれたそうだ。ほどなく州境いに入られる」
ウルフィオーレの街は埃っぽい風を受けて、街そのものが霞んで見える。
市街地の主だった建物は殆どが破壊され、あるいは焼けて、無残な姿を春の陽射しに晒していた。
しかし、そのどれもが破壊されてから長い時間が経っていて、瓦礫に灌木まで生えている。そしてその間の隙間を縫うように、小規模な建物や小屋がひしめき合っていた。
戦のただ中にあっても人々は逞しく、住み慣れた地で生き抜いているのである。
広場は昔のまま巨大な空間を保っていて、昔は美しかっただろう赤い敷石が、過ぎ去った日々の名残を留めている。そこにはいくつかの天幕が張られていた。
それらは仮の司令部で、かつての市庁舎を修復するために設けられていた。都からはるばるやってくる使節団は、ここに宿泊することになっている。
司令部の担う役割はそれに止まらない。物資の運搬や街道の整備、街周辺の被害状況を調査して街の警備体制を整えたり、住民の訴えを聞いたりもする。
何より激戦地だったウルフェイン平原の後始末も、まだ全部済んでおらず、暖かくならないうちに全ての死骸や遺骸の処理もせねばならならない。
戦と言うものが、膨大な破壊と消費だと改めて感じさせられた。
風を孕んで、天幕の布が大きくはためく。
一昨日降った雨は瞬く間に乾き、そのせいで一斉に萌えだした若い芽が、剥き出しの大地に緑の膜を張っているが、それらが生え揃い、土ぼこりを抑える役目を果たすまでにはあと数日かかるだろう。
空気は霞み、低いなだらかな山並みを見せるウルフェイン山脈もけぶって見えた。
これが、この地方の春独特の風景であった。
「一体どなたです? まさかルザラン摂政殿下ではございませんでしょうね?」
エルファラン王家の直系の血を引く人々は今では少なく、いても国外に嫁いだりしている。
このような任を得られるような成人男子は、国王の実弟であるルザラン以外に思いつかなかったファイザルは、思い切り眉を寄せた。
以前の休戦協定の使節は、皆殺しの憂き目に遭っている。
今回はそんな事にはならないが、ドーミエ将軍の心酔者や、身内をエルファランに殺されて恨みを燃やす輩がいないとは言い切れない。
戦争が終わったら安全だと思うのは早計だ。
てっきり勇気と功名心のある、元老院の若手貴族あたりが来るのではないかと思っていたいた人々は、王族が来ると聞き、驚きと戸惑いを禁じ得なかった。
王弟ルザラン摂政は懸命な政治家だが、そんな大物が来た日には警備の手配に一苦労である。
戦死者の確認、負傷者の帰還手続き等、戦後処理もまだまだ残っているのに、これ以上の面倒を抱えるのは、正直お手上げだとファイザルは思った。
「いやまさか。それほど大物はさすがに来んだろ。先触れの話では、先王陛下に縁の方だとか、なんとか」
ドルリー将軍は、埃っぽい中でも目立つ禿げ頭を輝かせて請け合う。
「先王陛下の? 左様でございますか。俺はそう言う事情に疎いので、そんな方がいらっしゃるとは存じませんでした」
逞しい肩がなんとなくほっとした様に見えるのは、ジャヌーの気のせいだろうか?
「わしらだってそうさ。まぁ、どっからか探して来たんだろうよ。古い王家なんだし、探せば遠縁とかがいるのかもしれない。ザカリエだって一応王政なんだから、相手の王族がわざわざ出向いてきたと知ったら、少しは自尊心をくすぐられるだろう。わしはうまい判断だと思うね」
「……」
「ザカリエ側の折衝人は誰だ? 使者は来ておるのか」
ドルリー将軍は、傍らのフローレス将軍を振り返った。
「来ておらぬ」
「ふむ。あちらでも人事に難航しておるとみえる。まぁ、もともとドーミエ一人に抑え込まれていた情けない連中だからな。人材もさほど揃うておらんのだろう」
「ドーミエに失脚させられた宰相ヴァン・ジキスムントはどうなのだ? 彼はまだ健在のはずだが、動く気配はあるのかな?」
ドルリーの独白を受けてフローレスも首を捻った。
「あります」
応えたのはファイザルだった。二人の将軍達が揃って彼を見た。
「なんと?」
「そなたのところに知らせが?」
「正確には私にではなく、私に預けられたハルベリ少佐の部下にですが。王宮に間諜を送り込んであるらしく、今朝がた通信が」
ファイザルは懐から小さな円筒を取り出し、中から丸められた紙を出した。
「ほう。ずいぶん小さな通信筒だな。敵の王宮深くに間諜がいるとは知らなかったわ。さすがだのハルベリ殿は。通信手段は? 鳩か隼か?」
感心したようにドルリーが目を丸くした。
「雀でも燕でも何でもいい。手段より中身だろう。申せ、ヨシュア・セス」
フローレスが同輩の驚きに関知せず報告を促す。
「はい。ドルリー閣下の言われるとおり、ザカリエ王宮内には、隠遁しておられたヴァン・ジキスムント宰相を担ぎ出す動きがあるようです。しかもその先頭を切っておられるのが……」
「ふむ」
「国王ギベリン陛下の弟君、アラメイン・ジィド・サマンダール殿下だという事です」
「ほぅ。こちらも王弟が噂に上るか。ザカリエ王宮に、まだそんな気概がある者がいるか? 齢は?」
「二十六。以前から病を得られ、ずっと静養されておられたとか」
「なんだ、やっぱり軟弱ものか」
「さぁ、そこまでは。でも人望はあるようですよ。年の離れた兄王とは仲が良いそうです」
「ふぅ~ん、で?」
「その方の強いご要望で、すでにヴァン・ジキスムントは、隠棲していた首都ザール郊外の僧院を出発しているようです。
よって、彼が休戦協定に乗り出すことが決定すれば、すぐにでも使者は来るはずです。首都ザールから馬を飛ばせば、ここまでは約三日」
「ようやく古狸が動くか。よく今まで大人しくしていたものだの」
ドルリーは考え深げに唸った。
「ドーミエと言う邪魔者がいなくなったこそ、の動きではないのか? もともとヴァン・ジキスムントは先王と共に、新興国ザカリエの礎を築いた人物なのだからな。ここ十年余りは、無理くり隠遁生活を余儀なくされておったが。ドーミエがくたばって暗殺の危険も薄れたのだろ」
「では、ほぼ間違いないか。あちらは奴が出てくると言う事で」
「しかし、それならそれで厄介ではないか? 奴は老獪な政治家だ。こう言う事の経験も豊富で度胸もある。敗戦国とは言っても、奴だけは侮れん。一方、我々は派遣される使者の名前も知らないんだぞ。ちゃんとした補佐役をつけてくれないと、王族と言うだけでは奴に言いくるめられて、休戦条件の詰めが甘くなるかもしれん」
「うむ。今ではすっかり不戦論者だとはいえ、二十数年前、我が国の国境を侵犯してきたのは、奴と先代のザカリエ王だったのだからな」
「かの英雄、ブレスラウ公に叩き潰されるまではな」
「ブレスラウ公……」
今まで黙って将軍達の話を聞いていたファイザルが、ふと反応を見せる。
「おお、お前も存じているだろう。あの方はまさに神将と呼ぶにふさわしいお方だった……」
フローレスは夢見るように呟く。
「はい。確か不慮の事故で命を落とされたとか」
「ああそうだ。もっとも、それについては未だに謎が残されておるがな。まぁ、あの方は、そのご誕生からして謎だらけのお人だったが」
「どういう事なのでしょうか?」
ファイザルはドルリー将軍に尋ねた。
「そうさな。まず、公はブレスラウ公爵家の養子だった。何でも先代の大ライナス殿が遠縁から公爵家に迎えられたのだが、一時期、先王アルバイン三世の実子ではないかと噂が立ってな」
「……」
「顔立ちが似てるという事で。ちょうど先王陛下のご側室が、産褥でお子共々お亡くなりになった頃と、公のご誕生がほとんど同じで、もしかしたら臣下に下げられたのかと」
「それで……真実はどうだったのでしょう?」
僅かに興味の色を見せてファイザルは尋ねた。
それまで天幕の柱にもたれ、眠そうに彼らの話を聞いていたセルバローが薄く眼を開ける。
「さぁねぇ。今となってはなぁ。その当時でさえ誰も証人はいなかった様だし。ただの噂だよ。ただ、わしは違うと思う」
きっぱりとドルリーが断言する。
「なぜでしょうか?」
「ブレスラウ公は直情的な性格で、奔放で純粋なお方だった。それに引き替え、こう申しては不敬ながら、先王アルバイン陛下は老獪とか、陰険という言葉がぴったりのお方だったからな」
「しかしお顔が似ていると……」
「王家と公爵家は、歴史の中で何回も姻戚関係を結んでいる。つまり親戚だよ。少しぐらい似ていても不思議では無かろう。公の方がよっぽど美男だったがな。骨太で」
「なるほど……そう言う事だったのですか」
「なんだ、珍しいな。お前がこういう事に興味を持つなんて」
不思議そうにドルリーはファイザルを見つめた。
「いえ、公は若い頃、私にとっても英雄であられましたので……」
ファイザルは曖昧に言葉を濁した。
「そう言えば、お前知っているか?」
「は?」
「年かさの兵士たちの間で噂になっているようだぞ。『掃討のセス』はブレスラウ公の再来だとな」
いかがでしょうか?
描写が長くてすみません。映像が見えると良いのですが。