74 王都 1
ウルフェイン平原の決戦より遡ること一月。
ノヴァゼムーリャ、冬の終わりの頃。
ノヴァの地は、例年並みに伐採の季節を無事に終え、人々は近づく春の気配に表情を明るくしていた。
領主もいつものように、村にできるだけの協力を惜しまず、すっかり大きくなったミリアやマリが、自分より年下の子ども達を世話するのを微笑ましく見つめている。
ファイザルが去って二度目の春を迎えようとするレーニエは、この冬で二十歳になった。
いつしか彼と過ごした季節よりも、離れてしまった年月の方が長くなってしまったことに、胸の痛みを逃すようなため息をつく自分がいる。
しかし彼女は、なるべくその事を考えないようにしていた。
「レーニエ様、オーフェンガルド様が参られました」
サリアが主の後ろ姿に言葉を掛けた。
「お通しして」
大きな窓辺から前庭を見下ろたまま、領主は応える。
「畏まりました。あ、それとあまり窓辺に寄らないでくださいませ。水気を含んだ雪が陽を弾いてお目に悪うございます」
明るいサリアの声に、ようやくレーニエは振り返った。
少し嵩が減ったとはいえ、まだ地面は顔を出さない白い大地。ただ、陽光は黄色みを増し、日が長くなってきた。
「ん」
外を見ていたので部屋の中が暗く見える。彼女は瞳を伏せながら椅子に腰かけた。
「今日も戦地の話をお聞きになりますの?」
「それもある」
戦場の噂にはすっかり過敏になってしまっていた。
彼女の情報源は主としてオーフェンガルドだったが、この辺境、ノヴァの地にも退役した兵士がいない訳ではない。
僅かだが、この村出身の志願兵もいるのだ。彼らからも情報を集め、レーニエは南方の戦況が著しく回復し、危機的状況にあった鉱山を獲得できたと知っている。
その功績がヨシュア・セス・ファイザルのものであることも。
そして彼が半年前、平民出身の士官として異例かつ、異常な速さで少将に昇進したことも。
しかし、それらはレーニエを慰めるものではなかった。
そうやってファイザルの責任はどんどん重くなり、彼の手足には益々重い枷が捲きつくことだろう。そして、彼が面する危険も、その度合いを増してゆくに違いない。
最前線で戦う彼の戦死報告がいつ届いてこないか、不安にならない夜はなかった。昼の間だけはなんとか気丈に振る舞っているが、それももう限界に近づいている。
何かしなければという気ばかり逸る。
しかし、現実には、自領地に住まう民に心を砕く以外することはない。それこそが領主の仕事だとわかっていても、それだけでは彼女はもう、満たされなかった。
伐採期が終わり、春の農作業が始まる僅かの間、人々は一時の休息を得る。その間オーフェンガルドは、レーニエのたっての勧めで領主館で休暇を過ごしていた。
去年身ごもったオーフェンガルドの妻ナディアが、一月前に初めての男の子を出産していたのだった。
ちょうど伐採期直前の寒冷期の訓練の最中で、オーフェンガルドはたった一日親子水入らずで過ごした後、ほとんど休みなしに砦に詰めていた。
南の戦況が回復したとはいえ、戦力の補充になる若い兵士の育成は、セヴェレ砦の最重要任務だったのだ。
そんな任務が一段落ついた後のレーニエの勧めを、オーフェンガルドは断る事ができなかった。兵士たちの訓練も一段落し、相次ぐ大勝利で南方戦線に対する危惧が薄れつつあったころでもあった。
そうして今日、レーニエはオーフェンガルドを自室に呼んだ。
「レーニエ様、おはようございます」
サリアの案内でオーフェンガルドが入ってくる。
「ああ、おはよう。ディーン坊やは元気?」
「ええ。今朝も機嫌がよさそうで」
「そうか、後でお顔を見に行こう」
「レーニエ様には、一日一度は息子の顔を見に来て下さるとか。恐れ入ります」
領主は赤ん坊が好きらしく、ナディアの部屋に来ると、飽きもぜ寝台に屈みこんでうっとり眺めている。
まだ首も座っていない赤ん坊を抱くのは怖いらしく、おずおずと触れるだけだが、その様子はとても嬉しそうだと妻から聞いていた。
ナディアの出産の折は村から老医者もやって来たが、ほとんどオリイが采配をふるい、サリアや他の召使達もその手伝いをした。
レーニエはおろおろしながら次の間でオーフェンガルドと待機し、元気な鳴き声が聞こえた時は喜びよりも、ほっと胸を撫で下ろした。以来赤ん坊の成長を、館の人々達と共に楽しみにしている。
「うん。その内、勇気を出して抱かせていただこうかな」
レーニエは少し照れたように笑った。
「大丈夫でございますよ」
「あなたは春になれば、館を出ていかれるのか?」
「左様でございます。今までご領主様の暖かいお心に甘えて、こちらで過ごさせていただきましたが、村に借りた家の方も放ってはおけませんので」
「よければ、敷地内に新たに別棟を建ててもいいと思っているのだが。幸い空地はいくらでもあるし」
「滅相もない」
オーフェンガルドは、少々当惑気味であった。
「そこまでしていただく訳にはいきませぬ。私どものことなら、もう大丈夫でございます。ナディアも、もう元通り元気に過ごしておりますし、赤ん坊が落ち着いたら一家でそちらへ移ろうかと考えております。気候もこれからよくなる頃ですし」
「それが望みなら、敢えてとは勧めぬが……私は寂しくなるな。この屋敷の中に子供の声がするのは良いことだと思っていたから」
「声と申しましても、ぎゃあぎゃあうるさい泣き声でございます」
「それが良いのではないか。ああ、今日も元気だと嬉しくなる。赤ん坊は泣いて心肺を鍛えているのだそうな」
「そんな事をどこでお知りに?」
「ああ、奥方の読んでいる本をお借りしたのだ。ディーン坊やを見て、私も少し赤ん坊のことを知っておこうと……無駄な知識かもしれないけれど……」
少し寂しそうにレーニエは呟いた。
この人もいつかは、愛する人の子を授かりたいと思っているのだろうか?
オーフェンガルドは痛ましそうに領主を見つめた。
動きやすいからと男の成りはしていても、彼女はどこまでも美しい乙女であった。
「そうそう、つい昨日、良い知らせを受けました」
少しでもレーニエを慰めたくて、オーフェンガルドは思い出したように言い出す。
はっとレーニエの顔が上がった。
「都よりの早馬の知らせで、先月の大戦で、ファイザルがドーミエ将軍を追い詰めたとか。残念ながら、あと一歩のところで豪雨に阻まれ、討ち取るところまでは行かなかったのですが、かなりの打撃を敵軍に与えたことは確かなようで」
「それで、怪我などはなさらなかったのか?」
「ご安心を。知らせにそのような事は書かれてはいませんでした」
オーフェンガルドの言葉に、レーニエは肩をほっと下ろした。
「それどころか書簡に依ると、次はいよいよ決戦で、もしかしたら、この長い戦争も終わるのでは、と言う所見まで示してありました」
「決戦……」
「はい。前線ではただ今、その準備に追われていることでありましょう」
「それは……やはり激しい戦闘になるのだろうか?」
「おそらく。しかし、ファイザルは決して無謀な事をする男ではありません。奴は幾通りも戦術を練り、謀を巡らし、一番確実な方法で敵を討とうとしているのに違いありません」
「それで……もし戦に勝ったとして、それからどうなる? ファイザル殿はこの地に帰ってこられるのだろうか?」
「さぁ、それは今のところはなんとも。奴も今では将になりましたし、戦闘に勝利したら、戦争を終わらせた功労者として、ますます出世するかも知れない。彼のことに関しては、元老院や、将軍達がお決めになるでしょう。残念ですが、私などでは何とも」
「……」
優美な曲線を描く眉が、がっかりしたように下がる。その下の大きな赤い瞳は哀しみを湛えて伏せられた。
「し、しかし、その前に」
慌ててオーフェンガルドは話題を変えた。
「もう一つしなければいけないことがあります。戦に勝利し、敵が降伏したとして、何よりも先ず休戦協定を結ばなくてはなりません。おそらく王都よりしかるべき使者……使節ですかね? が派遣される事でしょう」
「使者……?」
「はい。元老院が指名し、国王陛下が承認した公式の使者が」
「その者が休戦の取り決めをすると?」
「いえ、一人の大使が全て取り決める訳ではないでしょうね。大まかなところは今頃はおえら方によって指標が話し合われているはずです。大使は、先ずはそれを携て戦地に赴き、後日行われるであろう正式な両国間の平和条約の土台を作る役割です。しかし……」
オーフェンガルドはふと言い澱んだ。
「何?」
「その役割を進んで引き受ける人物が、今の元老院に果たしているかな?」
「危険な任務なのか?」
「危険と言うか……」
「なんなのだ?」
レーニエは非常に気になった。
「この長い戦いの間には何度か、同じように休戦協定が結ばれようとしたこともあったのですよ。成功したり失敗したりしていますが」
「うん」
「一番新しいものは六年ほど前。しかし、休戦は成りませんでした。協定をぶち壊したのは例のドーミエ将軍だったのです。彼はなんと両軍の大使を殺して戦を続行し、拡大してきたのです」
「そんな事が……」
「そこからザカリエでは、彼の台頭が始まったのですな。ですから今回もその可能性が全くないわけではない。例えファイザルがドーミエを討ち取ったとしても、彼を支持する心酔者もまだいるでしょうし……使者の役割に、危険がないとは言い切れません」
「つまり、誰もなり手がないというのか」
「いえ、そのような事は。やっぱり名誉な役目ですし、元老院で比較的お若いどなたかが指名されるのではないでしょうか? 副議長閣下あたりかな? 王族方のどなたかが行くとハクがつくんですが、まぁ無理でしょう。王家の直系は、今では非常に少なくなっていますし」
「……」
レーニエはいまや、一言も漏らさぬように彼の言葉を聞いていた。
「王弟ルザラン摂政殿下は立派な方ですが、国王陛下が指名した唯一の後継者であるアーベル王子の父上に、まさかそのような事は頼めませんでしょうし……ですが、例えどんな身分の方が赴かれたとしても、ファイザルが万全の警備体制を敷くはずです」
自身も下級貴族のオーフェンガルドは、なかなか政治向きの事に詳しいと見える。領主はじっと黙考していた。
「これは失礼。私のような者がそんな事を力説する必要なありませんな。ははは」
「オーフェンガルド殿」
不意にレーニエは凛とした声で彼を呼んだ。
打ち沈んだ先程の様子とは違う領主に、目の前の士官がはっとする。
「は」
「突然このような事を言いだしてすまないが、近いうちに私はファラミアに行こうと思う」
「なんですって!?」
ものすごく唐突な申し出に、オーフェンガルドは目を剥いた。
「王都に行くと言ったのだ。すまないが道中の手配を頼めないか? 厳重な警備は要らぬ。なるべく目立たぬように都に入りたい」
「それは構いませんが、なんでまた突然都に……? 伺ってもよろしいですか?」
「あなたの話を聞いて決めたことがある。今まで気持ちばかりが急いて、何をすればいいのかわからなかったが、今やっとするべきことが見つかった。私はそれを実現させるために都にゆく」
涼やかな声が淡々と語る。
「王都に? 一体どうなさるおつもりですか?
この人は何をしようとしているのか。オーフェンガルドは驚きながらもどうしても尋ねずにはいられなかった。
レーニエはきりりと眉を上げ、その瞳に確たる意志を浮かべて彼を見据えた。
「私が使者となって戦地に赴くのだ。陛下にお会いしなければ」
レーニエはさっと立ち上がった。
さぁレーニエちゃん、動きます!