73 戦場 6−2
「失礼いたします」
ファイザルは、天幕に入るなり深々と腰を折った。縫ったばかりの傷がずきりと痛む。
「この度はわざわざのお運び、感謝いたしまする」
「おお! セス! ヨシュア・セス!」
「この度の大戦、まことに大儀であった。誉に思うぞ! 早速陛下に早馬を走らせた!」
「お久しぶりです。ドルリー閣下、ありがたきお言葉にございます」
ファイザルは腰を折ったまま答えた。
「『掃討のセス』か。久しぶりだの。おお、『雷神』のジャックジーンもいるわ。この度の我が軍の大勝利、すべてお前達の働きであった。礼を言う」
もう一つの声がかかった。こちらは美声で、老いても美しい面差しは、些か心配そうだ。
「聞けば、ヨシュア・セス。二日前に『熊』との一騎打ちで負傷したと言うではないか、もう動いて大丈夫なのか?」
「はい……フローレス閣下。恐れ入ります」
ファイザルは顔を上げた。目の前に、初老の二人の男が立っている。
一人は禿げ頭も美々しいドルリー将軍。もう一人は灰色の髪を後ろで束ねた、若いころはさぞや美男だったと思われる、フローレス将軍だった。
「まぁ、座れ。ヨシュア・セス」
ドルリー将軍が鷹揚に声をかけたが、ファイザルは畏まったきり動かない。
「相変わらず謹厳な男だ。もっとも昔はそうでもなかったがな……まあよいわ。なら我々も、腰を下ろす。な? それならいいだろう? ジャックジーンもな」
将軍達は、慌ただしく天幕に運び込まれた椅子に掛けた。同時に大きな卓も持ち込まれ、ジャヌーの手によって飲み物が準備される。
「痛み入ります」
将軍達にここまで言われ、ファイザルもようやく椅子に腰を下ろした。
セルバローも遠慮なく、どっかりと大きな椅子を占領する。お茶を配り終えたジャヌーは一礼をして天幕から出て行った。
「ほうほうそうか、やはり傷が痛むか? なんでも二十針も縫ったそうだからなぁ」
「はぁ」
ファイザルも仕方なく苦笑を洩らした。
傷口は晒しをきつく巻いてあるので破れる心配はなかったが、長時間立っているのは流石に厳しいのだった。
「薬はきちんと飲んでいるのか。この時期すぐに化膿するぞ」
「は」
「そらぁ、よかった。上に立つ者は部下の身同様、己も大事にせねばならん。だが、生意気な小僧だったお前も今や、五万の軍を指揮する司令官か」
「……」
「この一年ろくに休む間がなかったことだろうて。ご苦労だった、まったくご苦労だった。おかげで我が陛下に、ようやく戦争終結のご報告ができそうだ。長らくお心を痛めておられたからな」
ドルリー将軍はようやく笑いを収め、真面目な顔をして嘗ての己の部下を見る。
「この二十年、戦争の影はずっとこの地を覆っていた。この国だけでなく、ザカリエの民草も、戦にはとうの昔に倦んでおったのだ。ドーミエの野望がなければ、もっと早くに終わっていたはずだった」
「そうできなかったのは我々、貴族出身の司令官どもが不甲斐ないせいだ」
フローレス将軍も重々しく頷く。
「……」
「お前のおかげで、いろいろ変わることが出てくるだろう。元老院は相変わらず石頭が多いが、それでもまったくの能無しではない。議長のオリビエ・ドゥー・カーン殿は、なかなか練られた人物だ。そして、我が陛下は聡明であらせられる」
「女王陛下……ですか」
ファイザルの瞳が僅かに見開かれた。セルバローは黙ってその様子を見ている。
「ああ、そうだ。この度の大勝利については、既に早馬でファラミアに報告が行っている。直に和平の使者が選出され、この地に派遣されるだろう。おそらくウルフィオーレの町あたりで、ザカリエの代表者と共に降伏の条件や、事後処理が決められる。半年以内には、正式に平和条約締結の運びになると思う」
自身も侯爵であり、元老院議員の政治家でもあるフローレスが応えた。
「お前の身の振り方も、わし等がきちんと考える。何と言っても、この勝利の最大の功労者なのだから。しかし」
「はい」
「お前自身はどうしたいのだ? ヨシュア・セス」
フローレスがファイザルを注視した。ドルリーも興味深げに答えを待っている。
「お前は今まで、命令されたことを忠実に実行してきた。期待をはるかに超える成果も上げた。だが、お前からは昇進や地位の無心を聞いたことがない。
お前が願いを口にしたのはただ一度……三年前、戦場からしばらく離して欲しいと言ってきた事。それだけだ」
「……」
「あの時も激しい戦いの後だった。かろうじて勝つには勝ったが、敵味方とも犠牲者は夥しく、お前も戦友や部下を幾人もなくして疲れきっていた。我々は尽くしてくれたお前の希望を叶えてやりたいと、その願いを聞き届けた」
フローレスは、冷めかけた茶を啜りながら振り返った。
「……そうでしたな」
「そして要請に応じ、お前は再び戦場に戻ってきてくれた。以前にも増して強くなって。そして、我々に戦の最高責任を預けようとはせず、全て自分で引き受けるという……変わったな」
フローレスの言葉を聞いて、セルバローは金色の瞳をニヤリと眇めた。自分と同意見だったからだ。
「聞こう。そなた何か望みがあるのではないか?」
フローレスは促す。
ファイザルは、腕組みをした片手を自分の顎に当てた。彼の考える時の癖であった。爪で唇を擦る様子は妙に色っぽいと、セルバローはますますニヤニヤが止まらない。
一体この寡黙な男は何を言い出すのであろうか。
「はい。では……申し上げます。私の働きに対する評価は、閣下方、及び元老院の判断に従いましょう。もしも昇進の誉れを頂けるなら万謝を持ってお受けいたします……しかし、それとは別に、願いの儀が一つございます」
「言うがよい」
ドルリーが頷く。
「和平の使者が到着し仮りの休戦協定が結ばれ、戦場における後始末が一旦終わったら、おそらく我が軍は、順次ファラミアに帰還することでありましょう」
「うむ。それはそうだ。おそらく一月と掛からないだろう。戦で疲れたお前の軍と入れ替わりに、代わりの師団がやってくるはずだ」
「はい。で、私がファラミアに戻ったら……まことに恐れ多いのですが、陛下……女王陛下に、お目通りできる機会を設けて頂きたいと思うのです」
「なに!?」
ファイザルの要望は、予想の範囲を超えていたので、その場にいた三人がそろって目を見張った。
「陛下に?」
「はい」
「な……内密でか?」
「左様でございます」
「お前、何を言い出すかと思ったら……魂消たわ」と、セルバロー。
「いったい……お前は陛下の前で何をするというのだ。公式の場では言えないという事か」
ドルリーが焦った様子で身を乗り出す。
おそらくファラミアに凱旋したら、式典などで君主から言葉を賜ることは可能だろうが、ファイザルの言うのは、そういう事ではない。
「はい。私事で陛下にお話があるのです」
ファイザルは、平然と思いもよらぬことを言ってのけた。
いくら大きな手柄を立てたとはいえとはいえ、平民出身の将校が、どのような私事を、国王に対して持ち出そうというのであろうか。
最初の驚きが覚めると、今度は一同揃ってむき出しの好奇心で耳をそばだてた。
「その私事とやらを聞いてもよいか」
「言えませぬ」
「願いの儀か?」
「言えませぬ。陛下に御目もじ叶いましたら、直接伝えたく」
「……で、あろうな」
「申し訳ありませぬ」
「まさかとは思うが、陛下に仇なすようなことではないな」
「まさか。こう申しては不敬ながら、陛下ご自身のお身には興味がありませぬ。しかし、陛下にしかお話できないある事情がございます。おそらくお目通りの後はご勘気に触れ、罰を受けるやもしれませぬ。不遜な物言いという事はわかっておりますが、今はこんな言い方しかできないのです。申し訳ございませぬ」
ファイザルは語り終えると口をつぐんだ。
「なんとまぁ」
あからさまに驚きの表情で、ドルリー将軍が額の汗を拭った。
「まぁよいわ。中身は非常に気になるところではあるが……おいフローレス、お前は侯爵だから伝手が多いな。どうだ? 何とかできそうか」
「……やってみよう」
「ありがたき幸せに存じます」
ファイザルは恭しく頭を下げた。
「しかし、お前も変わったな」
一刻の後。
あれから戦後処理について大まかな打ち合わせを行った後、彼等は従者も交えて遅い昼食を摂った。
天幕の入口の布は開け放たれ、先ほどよりよほど明るく、開放的な雰囲気に満ちている。
「あれはもう十何年前になるか、連隊に新たに入った手に負えない暴れん坊をなんとかしてくれと部下に泣きつかれて、様子を見に云ったのが、お前に会ったそもそもの最初だったな」
「閣下……その話は」
閉口したようにファイザルが眉を顰める。
彼は将軍達の気遣いで、椅子にはかけず、綿を詰めた布をあてがった長椅子に横になりながら食事をとっている。怪我のせいで微熱があり、食欲がなさそうである。
「お前は、七、八人もの年上で、屈強な兵士をコテンパンにのしたところでなぁ。目の周りに青タンをつくって、唇を腫らしながらもワシを睨みつけおったわ。ああ、懐かしい、懐かしすぎるわ」
大きくパンをちぎりながら、ドルリーが遠慮のない声で笑った。
セルバローはにやにやしながら黙って聞いている。茶々を入れないのは珍しい。
「昔の話です」
相変わらずファイザルは、思い出話に興味がなさそうな口ぶりだった。
「生意気で、無鉄砲で剣術も体術も我流この上なかったが、めっぽう強かった。試しに任務を与えたら、これが大抵の事はこともなげにやり遂げよる。これは使えそうだと思ったのが始まりだった」
「はぁ」
「あの時反発するお前を、無理やり士官学校へ放り込んだわし等は、先見の明があったとは思わないか? ラルフ」
ラルフと言うのはフローレス将軍の名前らしい。フローレス将軍は黙って頷いた。
「……恐れ入ります」
苦笑を洩らしてファイザルは大人しく答えた。
「そうでもしなければ、この向う見ずな男は、今頃はとっくの昔にどこかの戦場で骨になってしまっていただろうよ。最も士官学校でも大人しくしていなかったようだったが」
「だが、成績は優秀だった」
フローレスが言った。
「俺はどぉなんすか? 俺もこいつと一緒に無理やり士官学校へ押しこまれたんですけど。中途入学だったから、門閥主義の貴族のお坊っちゃんたちに随分苛められましたよ」
その時のことを思い出したのか、しかめ面をしながらセルバローは杯をあおる。
「嘘も大概にしろ。お前を苛められる程、骨のある貴族の子弟等など、どこにもおらぬわっ」
「うへ」
「お前を評価できるのは、我々のような凡人じゃあないだろうよ、雷神」
「はあ? どういうこってす?」
「お前を評価できるのはお前自身と……そうだな、お前に相対した敵だろうよ」
大真面目にフローレスはのたまった。
ファイザルは、開け放たれた天幕の外を見ている。
北の空を。
あの方を、このまま埋もれさせてはいけないのだ。
この章、終わりです!
だいっぶ削りました。