71 戦場 5−2
やがて前方に黒い甲冑、黒い髭の、一際目立つ体格の戦士が見えた。
見つけたぞ! バルリングの大熊!
僅か30リベル向こうに目指す敵を捕捉し、ファイザルは薄く笑った。
「ドーミエ将軍! 恋しゅうございましたぞ!」
放たれた声はどこか楽しげだった。
何重にも精鋭達に囲まれたバルリングの大熊、ドーミエ将軍は、遠目からでも有名なその風貌でよく目立つ。
既に齢五十を超えているはずだが、黒々とした豊かな髪と髭は、すさまじく縮れあがって、ただでさえ雄渾な体格を更に大きく見せていた。
ファイザルの叫びが届いたのかどうか、ドーミエは熊を形どった恐ろしげな兜の下から、突進してくる一人の戦士を見とめた。側近の、歴戦の戦士たちが将軍を守るように立ちはだかる。
「セス! 正面の不細工な男は任せるぞ! 後は俺たちが引き受ける!」
セルバローが怒鳴る!
「よし!」
ファイザルは戦士たちの中央に立つ、ひときわ精悍な騎馬兵に狙いを定める。
風貌からドーミエの盟友に違いない。自分を盾にドーミエを守ろうというのだろう、顔に大きな傷跡があるその戦士も、ファイザルに向って雄叫びをあげながら馬に拍車をくれた。
「おおおおおおお!」
ファイザルのそれよりも大きな剣が降り上がり、同時に腹の底から絞り出される気合いが放たれた。
「推参!」
ファイザルも負けじと叫ぶ。やっとここまで来たのだ。
「若造め! 笑止!」
お互いの軍馬が敵を見とめ、速度を上げた。二つの大きな影が黒い疾風となって駆け違える。
ギィン!
僅か一合で勝負はついた。
敵戦士の馬は乗り手を失っても速度を緩められず、繰り広げられる戦闘のただ中へと飲み込まれてゆく。
跡には泥にまみれて動かなくなった戦士が残された。その体の下から赤い染みが広がり、枯草を気味の悪い色に染めた。
「おおっ! 一刀両断だよ。流石だねぇ、こわいわー。じゃあこっちも……! そら!」
セルバローが陽気な声をあげて敵と斬り結んでゆくのに一瞥も払わず、ファイザルは正面で呆然と死体を見つめる男に向き合った。
足もとに床几が転がっている。
「おおお……サンダーン……サンダーン……ありえぬ。お前がやられてしまうなど!」
地獄の番犬が絞り出すような声にファイザルは馬首を返し、粛々と馬を進めた。
「ドーミエ将軍閣下でございますね?」
「……」
黒い甲冑の男はゆっくりと振り返る。先日追い詰めたときよりも老けたようだと、ファイザルは感じた。
「初めてご尊顔を拝し奉る。私はヨシュア・セス・ファイザル。先月閣下に逢瀬を申込み、素気無く袖にされた者。今日こそは募る想いに応じていただきたく」
愛剣から今しがた屠った兵士の血を滴らせながら、ファイザルは名乗りを上げた。
「セス・ファイザル。名前は聞いておる。掃討のセス、エルファラン一の戦士とな。先だっては失礼いたした。だが、最早退くまい。サンダーンは、我が弟も同然であったわ。弟がやられたとあっては、仇を討つのが兄の務めであろう。こちらからもお相手願う」
「恭悦至極」
ファイザルは馬を下りた。彼等の周りでは戦闘はほぼ終息しかけていた。
セルバローの剛剣とジャヌーをはじめ、ファイザル子飼いの精鋭達の働きによって、将軍を取り囲んでいた戦士たちのほとんどは戦闘不能に陥っている。
そして残った者も、味方の兵士達も司令官同士の対決を目の当たりに、やや引いた円陣を作っていた。
どの戦士たちの顔にも強い緊張が見て取れた。この戦いでおそらく長らく続いた戦が終る、そう予感して。
しかし、この将同士の一騎打ちの結末は、どのような形で終わるのだろうか? いったいどちらが強いのか?
勇名だけなら、早く世に出たドーミエ将軍の方が遥かに勝っていた。
しかし、ヨシュア・セス・ファイザル。
この青年がこの数か月間にもぎとった、奇跡のような勝ち戦は、兵士たちの記憶にまだ新しい。
彼らは戦と言う、国家同士の争いをしばし忘れて、純粋にこの戦いの決着を見てみたいという、戦いを生業とする戦士としての興味に駆られていた。
対峙する二人の戦士――。
距離は僅かに5リベル。
お互い青眼に剣を構えている。遠い空では雲が忙しく流れてゆくが、この二人の周りの空気は、凍り付いたように固まっていた。
「ずあっ!」
先に動いたのはドーミエの方だった。
五十代とは思えぬ勢いで一気に距離を詰める。大段平が恐るべき速さでファイザルの顔面を襲った。
ガキイ、と言う耳ざわりな音と共に火花が散った。鈍く光る剣身がドーミエの刃を受け止めている。左手の拳が添えられていてもギリギリと剣は震えた。
両者、お互いの力を推し量るように動かない。
これでは埒が明かぬと見たドーミエが一旦飛び退った。
「おさすがですな、将軍」
凄惨な笑いを浮かべて、ファイザルは相手を見据えた。
ドーミエは答えず、体勢を立て直して反撃の機会を狙う。対してファイザルは膝を柔らかく保ってそれに備えた。
しかして唸り声をあげ、ドーミエは二合目を繰り出す。今度は肩を狙って撃ち下ろされるが、ファイザルは軽やかにステップを踏んで退くと同時に、ドーミエの剣先を跳ね上げた。その勢いのまま激しく切り結ぶ。
敵も味方も戦を忘れたかのように、二人の戦いに魅入っていた。
双方、浅手を追っている。とっくにファイザルは、今までの戦闘の分も合わせてどこもかしこも血まみれだった。
ギン!
またしても双方が飛び退った。
体勢をすばやく立て直したファイザルが大きく呼吸する。
相手はこの戦いまでほとんど動いていないのに対して、ファイザルはずっと駆け通しでここまで辿り着いたのだ。いくら年齢の利があると言っても、長期戦は避けるべきだ。
一見、単純な力押しに見えるが、意外に剣が伸びる。それに重い。
熊の二つ名は伊達じゃない。
さてどうするか? ファイザルの青い瞳がきらめいた。
「お若いの、いい目をしているな。それによい剣を使う。小気味がいいぞ」
しわがれた声がファイザルの耳朶を打つ。それは老練な武将の本心かもしれなかった。
「痛み入ります」
ファイザルは剣を構えなおした。
おそらく次の踏み込みで決まる――戦士の本能がそう告げていた。
「もう少し若い頃にまみえたかったわ!」
言うなり、ドーミエは身を深く沈め、ファイザルの腹に向かって猛烈に突きを入れた。素晴らしい体の動きであったが、僅かに勢いがよすぎた。
ほんの半歩だけ踏み込みが深かったのだ。崩れたとも言えないような体勢であったが、ファイザルはその隙を逃さなかった。
ギリギリまで粘って体を捻り、相手の突きをかわした彼は、脇腹に鋭い痛みが走るのを感じながらも、渾身の一撃をドーミエの胴に叩きつけた、
ジャヌーは鋭い刃鳴りを聞いた。
あっと思った時、バルリングの熊の巨体はぐるりと横転し、大地に転がった。