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【完結・改稿】ノヴァゼムーリャの領主  作者: 文野さと
第二部 故郷は心の住まう場所
70/154

70 戦場 5−1

 雲は低く、そして黒く垂れこめていた。

 春が間近で、晴れ間の多いこの季節では珍しい。太陽は今日、見られないかもしれない。夜がいつ明けたのかも定かではなかった。

 風は最早冷たくはなかったが、相変わらず強く、そして雲はまるで生き物のように、のたうちながら北の空へどうどうと流れてゆく。

 北へ北へ――。

 あの雲の流れる果て、今もまだ白い雪で覆われた彼の地に住まう人の元へ。


 少し照れたように微笑む姿を思い起こしたいのに、瞼の裏に浮かぶのは長い睫毛を伏せた憂い顔。

 これは俺の心が弱っているからだろうか?

 ファイザルはそんな己を嘲笑った。

 何を今更。

 あの人と別れてから、一体何人もの命を(ほふ)ったと思っているのだ。

 眉一つ動かさずに。何十人、いや、何百人か?

 この手は、最早どうしようもなく血と罪にまみれている。

 無垢なあの魂とはほど遠く。

 遠すぎてもう、届かないな……。

 しかし後悔はない。

 ファイザルは僅かに目を細めた。

 この戦いが終われば、国を守れる。あの人を守れる。その為に俺はここへ戻ったのだ。

 ウルフェイン平原は広い。

 前方には草原、背後の大地には鉱石を掘り出した幾つもの大穴が穿(うが)たれた、奇妙な風景が広がる。

 この地域の採掘現場は今は稼働していないが、そこにわだかまった風が異様な音を立てている。それはまるで大地が泣いている風にも聞こえた。

 彼は風の音を聞くように眼を閉じた。

「どうした?」

 目ざとくその様子を見咎めたセルバローが声をかけた。

 探るような瞳で馬の(くつわ)を寄せる。この友は鋭い感性をもっているのだ。

 それは戦いにおいては頼りになるのだが、今のように心の奥底に秘めた想いがある場合には剣呑でもある。

「……なにも」

「敵を前に眼を閉じるなど、不吉だぞ」

「わかっている」

 目も合わさずに言い捨てると、ファイザルは愛馬ハーレイ号の逞しい首を叩いた。

 頑張ってくれ。

 この戦いを乗り切ったらしばらく休ませてやれる。

 馬も知っているのだろう、体中の筋肉がぴくぴくと勇んでおり、低く(いなな)いて前足で土を掻く。

 そう逸るな、もう少ししたらいくらでも駆けさせてやる、とファイザルは腕を伸ばし、長いたてがみを梳いてやった。

 彼の両脇には三百リベル(メートル)に亘って、彼の意のままに動くように訓練された騎兵が整列していた。背後にもまた然り。更に後方には歩兵がひしめいている。

 総勢三万の軍勢。

 しかし、これだけの人数にも関わらず(しわぶ)きの音一つ漏れない。皆、前方一デリベル(キロ)向こうの地平線を注視していた。

 そこに彼等の敵がいる。

「司令官殿! 突撃準備完了いたしました! 皆ご命令をお待ちしております」

 伝礼の兵士が馬を寄せ、敬礼をする。ファイザルは静かに頷いた。

「言ったとおりだ。中央突破の陣形は(ほこ)。左右の陣形は鎌。一気に取り囲む。手向かうものには容赦はせず、敗走する兵は構うな。そして狙うは――」

「は! 心得ております。ご命令は一兵一兵に至るまで、肝に刷り込まれておりまする」

「そうか。では」

 ファイザルはそのまま馬を前に進め、一糸乱れぬ隊列を組んだ自軍を振り返った。

「エルファランの勇士諸君!」

 錆びた声が、空気をびんと鳴らして草原に響く。

「今まで俺についてよく働いてくれた。諸君らのおかげで失われかけていた、我が国の領土は全て取り戻し、国境侵犯も最早ない。だが、『バルリングの大熊』の脅威が去った訳ではない、彼はまだ健在だ。一デリベルの向こう、敵軍の奥にいて失地回復を虎視眈々とねらっている!」


 オオオオオオオ!


 彼の声に呼応して戦士たちが声を上げた。ファイザルは大きく頷く。

「先の戦いで我々はザカリエ軍に勝利した。その勢いのまま今度こそ敵をつぶす! 大熊に二度と反撃の機会を与えてはならない。今までどれだけの戦友が、無辜(むこ)の民が、彼の野望の元に無念の最期を遂げてきたか!」


 オオオオオオオ!


 先ほどよりもっと大きな雄たけびが響き、風の音すら掻き消してしまう。

「我々はいま、かつて無いほど彼を追い詰めている! この機会を逃してはならない。この戦いを最後と心得、敵軍を完膚無きまでに殲滅せしめ、大熊を討つ! そして、勝利をこの手に国に帰るのだ!」


 オオオオオオオ!


 大地を揺るがす(とき)の声は、敵にまで届いただろう。

 野郎……司令官ぶりが板についてやがる。

 セルバローは密かな感想と共に、友を見つめた。

 戦士たちは皆一心にファイザルを注視し、その言葉を聞きもらすまいとしている。これだけの部隊でこのような状況は珍しい。

 この戦、勝つ!

 セルバローはそう確信した。

「進軍! 熊退治だ! 俺に続け!」

 ファイザルは長剣を高々と掲げ、馬に拍車をくれた。

 たちまち怒涛のように大地を揺るがせ、三万もの騎馬兵が赤い荒野に(ひずめ)の音を轟かせる。

 春が間近。一面を覆う枯れた草の根元には瑞々しい新芽が潜んでいる。しかしそれらは、あっという間に軍馬の蹄に蹴散らかされた。

「進め進め! 怯むな!」

 両軍供、相手を見とめると、馬上高く楯が掲げられる。各隊長の合図で、その後方から歩兵による矢が雨のように放たれた。

 しかし、扱う弓の強度、射手の技術共に、ファイザルの部隊の方が勝っている。

 敵の矢の多くが騎馬軍の手前に落ちるのに対して、エルファラン軍の強弓(こわゆみ)から放つ矢の威力は高く、次々に敵兵たちの喉や肩に矢がつき立ち、叫び声をあげて落馬していく。それへ後続の騎馬が乗り上げ、たちまち敵の騎馬部隊は最前列から戦列を乱した。

「よし、このまま中央を突破する! 隊形を整えろ! 俺に続け! 隙間を作るなよ!」

 前を見据えたまま、ファイザルが怒鳴る。

 彼を先頭にした先鋒は一文字に突き進む矢のように、敵軍の中央をまるで布を裁つように切り裂いていく。

 そして戦列を真っ二つにされたザカリエ軍が浮足立つ間に、次鋒の騎馬部隊が両翼から波のように襲い掛かり、敵味方は交錯した。

「進め、進め~!」

 勇躍する兵士たちの叫び声。忽ち激しい戦闘がそこら中で開始された。

「左の隊列が乱れたぞ! 突撃!」

 隊長格の兵士の怒号が飛ぶ。

 それに応えて最前線の戦士たちが身を低く馬に伏せ、突っ込んでゆく。一見乱戦状態に見えるが、ザカリエ軍が数騎ごとで孤立して戦っているのに対し、エルファラン軍は十数騎で小さな陣を組んでいる。ファイザルが考案した、死傷者が少なくてすむ戦法である。

 後方で弓を射ていた射手は、援護射撃の効果がなくなった時点で弓を収めると、得物を槍に変え、新たに隊列を組んだ。

 混戦の中での矢戦は味方を射てしまう恐れがあるからだ。その判断の素早さもエルファラン軍が勝る。

 訓練された勇敢な軍馬たちは、前方の敵兵を見ても些かも怯まず、その速度を緩めない。乗り手の思うがままに地を駆ける。霜が融けてぬかるんだ大地に千切れた草の破片が舞った。

 終に、平原の南で全軍による総力戦となった。

 怒号、悲鳴、軍馬の嘶き、鉄が打ち合う鋭い響き、鈍く何かが潰される気味の悪い音。草原は様々な音声のるつぼと化している。

 乾ききった枯草に血飛沫がざん、と打ちつけられ、その跡を隠すかのように兵士が倒れ込む。斬った兵士は斬られた者を見返りもしないで、新たな敵に向かってゆく。

 冬の草原は生と死を分かつ境目となり果てていた。

 そのただ中を。

 長剣をふるいながら、一人の男が敵を()ぎ払いながら突破してゆく。

「あいつだ!」

「掃討のセスだ!」

「怯むな! 首を揚げて手柄を取れ!」

「取り囲め! 馬から引きずりおろすのだ!」

 多くの兵士が喉を裂かれ、ハーレイの蹄に掛けられて地に転がろうとも、後から後からファイザルの前に歯向かう戦士は後を絶たない。

 敵兵も流石に、この戦いが最後の正念場と心得ているようだった。

「おのれぇっ!」

 怒りと苛立ちの叫びが迸る。蟻のように群がる兵士達にさしものハーレイも速度が落ちてきたのだ。

「この有象無象(うぞうむぞう)供め! 死にたくなくば退()け!」

 ファイザルは尚も駆けながら剣を奮い続ける。

「援護するぞ!」

「頼む!」

 燃えるような赤毛の戦士が、ファイザルの左後方から追いついてきた。

 兜はつけないのがこの男、ジャックジーンの流儀である。頭部には額を守る鉢金だけだ。彼は敵戦列の端から回り込む左翼の指揮官なのだが、追いついてきたと言うのだろうか。

「へぇい! はじめましてのご挨拶だ! 受け取れ!」 

大段平(おおだんぴら)から放たれる剣風は凄まじく、一撃のもとに敵兵を倒してゆく。

 対峙してしまった不幸な兵士たちは、例外なく体の一部を切り離され、彼の馬の足もとに崩れ落ちた。凄惨な光景のはずなのに、その動きは華麗な舞を見ているようだ。

 ファイザルの後ろから追いすがっていたジャヌーは、秘かに感嘆の吐息を洩らす。

「わはははははっ! よく聞け! 俺は『雷神』のジャックジーン・セルバローだ! お前ら名誉だぞ! この俺の剣に懸って死ねるんだからな!」

 名乗りを聞いて、何人かの兵士が馬ごと後退さった。

「はははは! 心配するな! 俺の剣は速過ぎて斬られても痛くない! あっという間に天国だ! いや、地獄か。わははははは!」

 豪快に高笑いしながらも、その剣は刹那も止まらず右に左に斬って落とされ、彼の背後には最早動けなくなった敵が積み重なってゆく。

「うん、いいぞ! 東の奴らと違ってなかなか手ごたえがある。流石に『大熊』の子分どもだ。仔熊だ! 勇敢だぞ! 仔熊ちゃん!」

 なんという、傍若無人振りだ。

 ジャヌーは、こんな時ながら愚弄される敵が可哀そうになった。

 だが、戦は一瞬の感慨も許さない。斬りこんできた敵兵の剣を受けると、ジャヌーは力任せに薙ぎ払った。

 彼の重い一撃を受けて堪らずに兵士がふっとぶ。

 外れた兜からは自分よりも若い兵士の顔が覗いた。しかし、後も顧みずジャヌーは馬を駆る。左腕の向こうからセルバローのよく通る声が掛けられた。 

「おい、お前! 馬を少し横に寄せろ! 手伝え! あいつの右前方を切り開くんだ、俺は左に回る」

「はい! 司令官殿の前に道を作るんですね!」

 ジャヌーはすぐさまセルバローの意図を理解し、馬を進めた。

 ファイザルの真後ろにいたせいで、ジャヌーの馬にはまだ余力がある。彼は勇躍し、セルバローの反対側、敵兵とファイザルの間に打って出た。

「ほほっ! 速い速い! お前見どころがあるな!」

「はっ!」

「このまま両側を支えろ! この先に熊がいる! どんどん強くなるから抜かるなよ!」

「心得ました! 司令官殿! このまままっすぐ駆けてください!」

 ジャヌーは長剣を操り、敵を薙ぎ払いながら叫んだ。

「おお!」

 ファイザルを先頭に右にジャヌー、左にセルバロー、そして後に続く精鋭たちが、矛の先頭で敵兵を蹴散らかしてゆく。

 戦いは今、頂点に達しようとしていた。




読み返していてもなかなか、巧みな戦闘描写じゃないかと自賛。

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