66 戦場 2−1
「シザーラ様!」
燃えるような金褐色の髪の娘が、扉を塞ぐように立っていた。
フェルディナンドは思いがけない人物に息をひそめる。彼も名前を聞いているだけで初めて見る人物だ。
彼女はシザーラ・ヴァン・ジキスムント。隠棲を強いられているザカリエ宰相、オシム・ヴァン・ジキスムントの孫娘であった。
婦人たちはお茶を飲む手を止めた。中には腰を浮かしている者もいる。
これは珍しい人物がやって来たものだ。
「突然失礼いたしました。今日こちらでお茶会があると、小耳にはさんだものだから。招かれてもいないのに、申し訳ありません」
シザーラはきつい巻き毛の頭を振った。
ザカリエ建国の名宰相とされるジキスムントの孫娘だ……初めて見る。
フェルディナンドはつつましく控えながら、闖入者を観察する。
毛先が蔓草のひげのようにふわふわと揺れる。彼の主レーニエよりも年上だが小柄で、小枝のように細い手足の令嬢だった。
彼女は少年の洗練された目には旧式な衣装を身につけている。浅黒い肌が引き立つように、ドレスの色は淡い桃色だった。
「いいえ。シザーラ様ならいつでも歓迎ですわ」
「そうですとも。ただ、このところ公の場にお姿が見えなかったので、もし何かのご事情でもあって、障りがあってはいけないと、敢えてお呼びしなかったのですわ。堪忍して下さいまし」
ドロレスと年嵩の夫人は応え、それぞれに頷き合っている。この小柄でキツそうな娘は、それなりの人望はあるようだった。
正直に言ってさほど美しくはない。しかし、眉がきりりとつり上がり、琥珀色の瞳が強い光を放っている様子は、不思議な魅力があった。
「こちらにお出ましになって大丈夫なのですか?」
「そうですわ。ついさっきも、近くのお部屋でオーラリア様が騒ぎを起こしたと聞きました。こう申しては失礼ながら、お顔を合わせてはまずうございましょ?」
「大丈夫よ。この間の件のほとぼりが冷めるまで、少し大人しくしていただけだから。会ったところで特に問題はないわ。少なくとも私にはね」
シザーラは勧められた椅子に腰を下ろした。すぐにフェルディナンドがお茶の盆を差し出すが、彼女は黙ってカップを受け取りながら、彼に目もくれなかった。
「戦況が悪くなっているようね。なんでもエルファランに新しく着任した司令官が恐ろしくキレ者なんだとか」
てきぱきとシザーラが会話の主導権を取る。
まめまめしく菓子を皿に取り分けている小姓の肩が、その言葉を聞いてぴくりと上がったのに気づくものは誰もいない。
「そう聞いてはおりますけれど、私どもには戦のことは詳しくはわかりかねます。ねぇドロレス様」
「はい。でもドーミエ将軍がこのところ、姿をまったくお見せにならないのは、あちこちで負け戦が続いているからだとは、父からこっそり聞きました」
ドロレスの父親は、外交を担当する貴族であった。
「この国の起こしたことは、この国が責任を取らなければいけないわ」
シザーラはきっぱりと言い放った。
「ですが、そんなことをおっしゃられては、お祖父様と同じに、シザーラ様のお身まで危うくなってしまいますわ」
「さようでございます。今この国はドーミエ親子のものなのですから。国王様や王弟殿下でさえ頭が上がらないと言う事ですし」
「アラメイン殿下は聡明な方です。少しお気が弱くてあられるだけで、とても立派な方ですわ」
シザーラはちっとも臆していない。
アラメイン? 病弱とされる王の弟のことだな。この婦人とは親しい仲なのだろうか?
フェルディナンドは衝立の蔭で気配を消す。
「ですが、オーラリア様は……」
ドロレスは言いにくそうに口を濁した。何かありそうだとフェルディナンドは耳をそばだてた。
「ドロレス様、あの人が何を狙っているのかは知らないけれど、思い通りにはならないでしょうよ」
「ですが、あの親子の権勢は、決して侮れないものがありましてよ」
「情けない話ですが、私共もこうして悪口は言えますけれど、面と向かってはなにもできません」
「だけど、あからさまな男漁りは何とかならないものかしら? かつての夫を放逐して、将軍の威光を背景に、宮廷での地位を手に入れたはいいけれど。今度は王弟殿下にまで結婚を迫ったと言うお話」
「アラメイン殿下もお気の毒にね。嫌で嫌で逃げ回っておられると言うではないですか」
「ですけど、次にドーミエ将軍が宮廷に戻って来られた時には、是非良い返事をって、恫喝されたって」
「まぁっ!」
「それは本当に!?」
「いよいよアラメイン殿下は、オーラリア様を妃にお迎えになるのかしら?」
「もしかして、もう夜這いくらいはかけたかもしれませんわよ」
「やりかねませんわ。まったく体だけが自慢の雌熊ですもの」
「あなた方!」
噂話に興が高じ、いい感じにご満悦の婦人たちがびくりと肩を竦めた。
「いい加減になさいませ! あまり無責任に噂話をするものではありませんわ」
「そ、そうでしたわね」
「すみませんわ。私達、つい調子に乗ってしまって」
「そう言えば、国王陛下のご容態はいかがなのですか? ご病気と言う事でしたが、私どもも、最近はお姿をお見かけしないので、それは心配して」
「大丈夫。皆の前に出ると気を遣わせるからとおっしゃられて、自粛されていると、アラメイン殿下から伺っております」
「と言う事はシザーラ様は、最近アラメイン殿下にお会いになって?」
「当然ですわよね。もともと殿下とシザーラ様は幼馴染ですし」
「私たちもゆくゆくは、お二人が婚約されるとばかり思っておりましたのよ」
「国王陛下もアラメイン殿下もシザーラ様のことをそれは頼りになさって……それをあのドーミエ親子が」
ガチャン!
かなり乱暴にカップが皿に戻され、皆は一瞬にして押し黙る。
「無責任な事を言ってはいけないと言ったはずです。そこのあなた!」
衝立の後ろのフェルディナンドに向かって鋭い声が飛んだ。
フェルディナンドは悪びれた様子も見せずに恭しい態度で、姿を見せる。
「そんなところで何をしているの?」
「申し訳ございません。お嬢様。お菓子の替えを準備しておりました」
「あ……シザーラ様、フェルディナンドはいいんですの。私が呼んだのですわ。シザーラ様はご存じないだろうけど、彼はしばらく前からこちらで小姓を務めている少年なんですの。とても気がきくいい子ですのよ」
フェルディナンドを庇うようにドロレスが取りなした。
「ふぅん……小姓なの」
「申し訳ありません。ご用があればと控えておりましたが。私はこれで失礼いたします」
鋭い視線が注がれているのを感じながら、フェルディナンドは特に卑下もせず、きれいな所作でシザーラに辞儀を返した。
「こちらへ!」
再び厳しい声が放たれる。フェルディナンドは大人しく前に進んだ。
「あなた色が白いのね。北の出身なの?」
内心ぎくりとするが、そんなことはおくびにも出さずにフェルディナンドは微笑んだ。
「いいえ。ですが、私の母がセイラムの出身でございまして」
「セイラム市の?」
セイラム市と言うのは、自由国境地帯の北方に位置する宗教都市だった。エルファランの人間も多いので、色の白い人々もいる。
「はい。母の伝手でセイラム市の南、マイル地区の司教様から推薦状をいただき、こちらでお仕えすることになった次第でございます」
フェルディナンドはつるつると言ってのける。
セイラム市の司教から貰った推薦状は本物で、見せろと言われても、一向に構わない。その辺りのハルベリ少将の手配は完ぺきだった。
「そう。じゃあいいわ。気がきくと言うのが本当ならば、あなたのとるべき態度は分かるわね?」
「はい。決して他言は致しませぬ。ではこれにて失礼いたします。ご用があれば廊下で控えておりますのでお呼びくださいませ」
辞儀をしてフェルディナンドは部屋を出てゆく。
廊下は寒いからかわいそうだわ、と言うドロレスの声が聞こえた。