65 戦場 1
「フェルディナンド、いるの?」
甲高い声が廊下に響いた。
「はい、ただいま」
観音開きの扉を肩で押し開け、リネンを抱えた少年が、声の主の方へやってくる。
長い廊下は寒々しいほどに人気がなく、少年と、彼を呼んだ若い貴婦人の他には誰の姿も見かけない。
王宮では午後のお茶の時間帯で、人々は各々にあてがわれた部屋で思い思い過ごしているのだろう。
「どこに行っていたの? フェルディナンド。今日は私の主催するお茶会を手伝ってくれる約束よ」
「申し訳ありません。ドロレスお嬢様、こちらがすみ次第直ぐに」
フェルディナンドはリネンの端から顔を覗かせ、申し訳なさそうに謝った。
「なぁに? その荷物は。何であなたがそんなものを抱えてるの? そんなのはメイドの仕事でしょ?」
尊大な態度で腰に手をあてたのは、年の頃、二十歳過ぎかと思われる紫のドレス、褐色の髪の女性だった。
褐色の髪はこの国――ザカリエでは平凡な髪色だが、高々と結い上げれられ見栄えがする。
瞳も同じ色で、顔立ちは美しいが、派手な姿かたちはフェルディナンドに好ましく映らない。彼にとっては少しぐらいの見かけの美しさなど、何ほどの事もないのだった。遥か北の地で暮らす彼の主に比べたら、このような田舎の貴婦人など、女とも思えないほどだった。
そう言う意味でフェルディナンドは、十五歳の少年にしては、不幸にも目が肥えすぎている。彼の審美眼は厳しすぎるのだ。しかし、彼は如才なく小声で答えた。
「申し訳ございません。オーラリア様からそれは厳しく仰せつかりまして。今すぐに部屋の中をきれいにしろと」
「まぁっ! この近くにオーラリア様がいらっしゃるの?」
ドロレスと呼ばれた娘はとたんに声を落とし、右手の扉を恐ろしそうに見つめた。
「オーラリア様なんでここに? あの方ならもっと人の多い所にいるでしょうに」
今にも扉から誰か入ってくるのを恐れるように、ドロレスは柱の陰にフェルディナンドを引っ張って行った。
「それは私にはわかりかねます。先ほどオーラリア様から、隣のお部屋に二人分のお茶の支度をと言われまして。私はすぐさまご用意したのです。その間オーラリア様はお部屋でお待ちで、しばらくしてから別の方がお庭の方から参られた様子で……それで私は廊下に出るように言われ、控えておりますと、急に室内から物音が響いてきまして……」
ここでたっぷり余韻を残し、フェルディナンドは口をつぐんだ。案の定、ドロレスはその話に喰いついてきた。
「まぁ!」
ここはザカリエ王宮の東側にあたる、芙蓉宮と呼ばれる建物の一翼。一階の部分は平貴族たちが多目的に使える大小の談話室が並んでいる。
このあたりは王族や、高位の貴族たちの住まいである青蘭宮からは離れていて、身元さえ確かなら、比較的軽い身分のものでも出入りできる。
現在、彼らがいるのはそんなところだった。
「それで、あなたはどうしたの?」
爛々と瞳を輝かせながら、ドロレスが続きを促す。
「物音を聞きつけ、直ぐに私はお部屋に入ったのです」
フェルディナンドはしたり顔で話を続けた。
「ええ、ええ。それで? 何の音だったの?」
「はい。私が顔を出しますと、お部屋の中は花瓶が倒れてあちこち水浸し、壁に掛けられていた装飾品が床に転がっていたりと、大変な有様で。いましがた片付け終わったばかりなのです」
「まぁ! それでオーラリア様は? お一人でそこに? お相手は?」
貴婦人とは形ばかりの猛禽類の顔になった娘に、フェルディナンドは辟易しながらも、表面は大人しく応じる。
「え? ええ……まぁ、それは……私には……」
フェルディナンドは、よく躾けられた召使の常で、上手に口を濁した。
察しくださいませ、と言う態度を巧みに滲ませている。
フェルディナンドの話にたっぷりと密会の匂いを嗅ぎとったドロレスは、ますます目を輝かせた。
「ふぅん。きっと殿方がいたのね? そうよねぇ。そうでもないと、いつも人の出入りの多い場所を徘徊しているオーラリア様が、こんな静かな場所には来ないわよねぇ……で、不首尾に終わったと。ほほほ、いい気味だわ。あのろくでなしの父親の権力をカサに着るしかない年増女が!」
言葉の後半は口の中で呟かれたものだが、ドロレスの顔つきに、言ったこと以上の感情が滲み出ていた。フェルディナンドは気がつかない振りで、手際よく汚れたリネンを取り替えている。
「フェルディナンドもかわいそうね。あんな女に気に入られたばかりに、しなくていい仕事まで言いつけられて。あなたは芙蓉宮のすべての貴婦人のものなのにね。皆が言っていてよ。ここのお小姓たちの中で、あなたが一番機転がきいて、美しいって」
芙蓉宮の二階以上は、ザカリエ王宮の貴婦人達が住まう所である。
フェルディナンドは、ハルベリ少将の用意した非の打ちどころのない推薦状をもって、まんまと王宮内で小姓の職を得た。生来の頭の良さと度胸で、今では侍従頭にも一目置かれる存在になっていた。
「ありがとうございます。私は一生懸命お勤めさせていただくだけでございます」
大変殊勝なそぶりでフェルディナンドは辞儀をした。所作も話し方も典雅な彼は、まだこの宮廷に仕えて二か月しか経たないが、既に王宮の貴婦人たちの間で大変な人気者だった。
「まぁフェルディナンド、お前はいい子ね。それでオーラリア様はどちらへ行かれたの?」
「はい。私にお部屋の始末を申し渡されたあと、ご自分も中庭の方から外へ出て行かれました」
「そう……それならもう当分ここには戻って来られないわね。さぁ、フェルディナンド。そんなリネンはさっさと片付けて、今度は私達の楽しいお茶会の支度をして頂戴。お友達に使いを出しましょう。今日は久しぶりに楽しいお話ができそうだわあ。もちろんお前も一緒に楽しんでいいことよ」
「ありがたき幸せに存じます」
優雅な仕草でフェルディナンドは一旦その場を辞し、今度はドロレス主催の茶会の支度を整えるため、厨房に向かった。
やや殺風景な感のある廊下や階段は、暖房の恩恵がなく、冷え冷えとしている。ザカリエ国の首都、ザールは冬の一番厳しい季節を迎えていた。
エルファラン国より南に位置するザカリエ国は、一年で最も寒い季節と言えども雪は降らない。代わりに乾いた風がびょうびょうと高い空を吹き抜けてゆく。
「ふぅ~」
フェルディナンドは厨房の窓から、うす青い空を見上げて大きく息をついた。ドロレスのような単純な貴婦人の相手なら訳もなかった。
しかしつい先程、こちらの部屋で修羅場に遭遇した時、さしもの肝の座ったフェルディナンドでさえ、身が竦んだのである。
半時ほど前、早めの午後のお茶の用意を言いつかったフェルディナンドは、支度を整えてこの部屋にやって来た。
そこには先程の話の主、芙蓉宮で権勢を奮うオーラリア嬢が上機嫌で座っていた。彼女は猫なで声でフェルディナンドに話しかけていたが、中庭の向こうに人影が見えると、速やかに彼を部屋から追い払った。
怒鳴り声とものが壊れる音がしたのは、それからしばらくしてからの事だった。
驚いたフェルディナンドは、すぐには中に入らず、外から部屋の気配を伺っていた。そして物音が収まってから恐る恐る部屋を覗くと、オーラアリアが薔薇の花束を素手でつかみながら振り回していたのだ。床には茶道具や装飾品が無残な姿をさらしている。
オーラリアは怒り狂った様子で、フェルディナンドが入ってきた事にも気づかず「あの腐れ男が!」と品なく罵りながら、卓の上に残っていた砂糖壺を払い落した。
彼女はきつい美人であったが、眦は逆立ち、豊かに縮れた黒髪は乱れ、紅は滲んで、夜叉のように拳を震わせて部屋の真ん中に立っていた。
だが壁に貼りつくフェルディナンドに気がつくと、さすがにバツが悪かったのか、
部屋を片付けるように命じると、自分も中庭に続く扉から立ち去ったのだった。
「……でね、フェルディナンドは何も言わなかったけども、絶対に何かあったと思う訳よ」
ドロレスが手柄顔に声を上げた。
室内は明るく、それなりに華やかに見える。芙蓉宮の中でもここはしつらいが美しいのでご婦人たちがよく使う談話室だ。
「まぁ。でも嫌なお話ね。今回はどこのお気の毒な殿方が犠牲になったのかしら? ああ、フェルディナンド、いつもながら上手なお茶の淹れ方ね。このお菓子も美味しいわ」
「お気に召していただき嬉しゅう存じます」
上品に微笑んで少年は辞儀をした。丁寧に入れた茶と焼き菓子が配られ、茶会は十人もの婦人達のお喋りで盛り上がっている。
「前にも婚約者のいる方を誘惑して、騒ぎになっていたでしょう?」
「その噂も収まらないうちにこれだもの……」
「ねぇ、フェルナンド。その殿方は一体どなただったの?」
「私は遠目にしか見ておりませんので……」
フェルディナンドは手を差し出した夫人に、クリームの皿を差し出しながら言った。
なるほど。
噂には聞いていたが、オーラリアの横暴はかなりのものだな。そして、嫌われようも。
「だけど、オーラリア様を袖にしたとなれば、ただではすまないわね。お父上に言いつけて、最前線に送られるのかしら?」
「お気の毒ねぇ。我が軍の戦況は、どんどん悪くなっているって話でしょう?」
「まぁ、怖い。まさか、我が国が負けるなんてことは……」
「まさか、だって我が軍はあのバルリングの大熊、イワノヴァ・ドーミエ将軍に率いられているのよ。あの戦うしか能のないケダモノにね」
「あら、じゃあそのケダモノの娘であるオーラリア様はいったい何なのかしら?」
「さしずめ猛獣使いってところかしら?」
別の貴婦人も愉快そうに応じた。カチャカチャと茶器が鳴る。
おやおや、熊将軍もご息女と同じく、随分と嫌われているようだ。
姿かたちはともかく、今までこの国を盛り立てていた重鎮であるはずなのに。
フェルディナンドは用を言いつかれば、すぐに応じられるように衝立の蔭に下がった。召使いの姿が見えないとなれば、軽薄なおしゃべりはさらに加速し、ザカリエ王宮の内幕を晒してくれる。
彼は完全に気配を消し去りながら、婦人たちの噂話に神経を集中させていた。
「親子そろって、どうにかなってくれないかしら?」
「あら! だめよ、あなた。滅多な事を言うと毒を盛られるわよ? ご存じでしょ? あの噂」
あの噂? なんだろう?
フェルディナンドは耳をそばだてた。
「ああ、引退されたヴァン・ジキスムント宰相の、亡くなられたご子息の話でしょ? かなり前の話だけど」
「そうそう。あんなに若くして原因不明のご病気を得られてねぇ……それもなんだか微妙な時期にね」
「ジキスムント宰相様の引退は、事実上の強制退官でしょ? それでご子息が抗議した途端の病死だものねぇ。宰相様は御領地に引っ込んだままだとか」
隠棲している宰相の息子が誰かに毒を盛られたのか?
「しっ、単なる噂よ。この話はやめましょう。フェルディナンド、そこにいるの? お茶のお代わりをお願い」
少し年配の婦人がその場を窘め、その話は途絶えた。
「はい、ただ今」
せっかくの情報だったのに、この話はそこで打ち切られたようで、フェルディナンドは失望しながらも、御婦人たちの話など聞いていなかった風で衝立の蔭から顔を出した。
「確かに他愛のない話がどう漏れるか分からない現状ですしねぇ。ここ数年間、この宮廷はあの熊の親子が支配しているのも同然だわ。陛下もご遠慮なさっておられるし」
「でも、確かに以前は飛ぶ鳥落とす勢いだったけど、最近はどうも……ね。西じゃ大きな負け戦があったと言うし、さすがにエルファランは伝統ある大国だわ。なかなか我が国の軍門に下りそうにないじゃないの」
「ここだけの話、私はエルファラン国に恨みなどありませんわよ。むしろ文化的で豊かで、新興国である我が国の手本になる国かと」
「美しい布や、美味しいお酒の産地でもありますしねぇ。まぁ、だからこそ熊は併合したいのでしょうけど」
どうやら戦の趨勢とは別に、エルファラン国は貴婦人達にとってはあこがれの様である。
「そんな事、ここだけの話になさいね。戦争で家族を亡くされたお家の方々もいらっしゃるのだから」
窘め役の婦人はここでも思慮深い意見を述べた。
「ですが、元々は我が国から資源目当てに仕掛けた戦争でしょ? 途中休戦期間は長かったけれど、ここ最近は以前より激しくなって……」
「もうやめたらよろしいのに。不安ですわ」
「始まりがどうだったかなんて、あんまり昔のことで、もうみんな忘れているでしょうにね?」
「忘れてもらっては困りますわ!」
戸口から厳しい声が響き、皆は一斉に声のした方を向いた。勿論フェルディナンドも。
そこにはきつい顔をした赤毛の娘が立っていた.
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