64 思慕 4−2
「どうぞ、こちらへ」
オーフェンガルドの言葉にレーニエは、はっとなった。
「あ……ああ」
「レーニエ様、最初に申し上げておきます。機密事項だと言われたのなら、詳細は私にも話してはいけません」
執務室の脇に置かれた応接用の椅子を進めると、オーフェンガルドはおもむろに言った。
「しかし……だけどあなたは、軍関係者だろう?」
「いいえ、レーニエ様。機密事項とはそうしたものです。この件を御存じなのは? ご領主様だけですか?」
「セバストがいる。フェルの父親の」
「そうですか。なら、それ以上は誰にも漏らしてはなりませぬ」
「セバストもそう言っていた。母親であるオリイにも言ってはならないと」
「結構です。それでフェルディナンド殿は、ハルベリ少将の部隊に配属され、特殊な任務を帯びたと言う事ですね?」
「まだだ。とりあえず、私の許しを請う形になっている」
「お年は十五との事でしたな」
いくら訓練で優秀な成績を上げたとしても、そんな少年に出来ることは限られている。というよりも、少年でなければ果たせないような役割なのだろう、だとすればその理由は?
まず警戒されない、と言う事か。そして少年がうろついていても不自然に見えず、情報を集められるような環境で。そんな場所と言えば……。
「……もしかして」
オーフェンガルドが黙り込んだ。
ある程度は彼にも想像がつく。これはかなり高度の機密に触れてしまったような気がした。
「それで、レーニエ様にはいかがされるおつもりで?」
「私は憤って猛反対したのだが、セバストはフェルの気持ちが大切だと言う。それで説得されて私も最後には……折れた」
「左様でございましたか」
「だから、あなたの意見を聞こうと思ったのだ。ハルベリ少将については何も知らないので。私の家族を預けてもよい人物かどうか」
「なるほど。しかし、申し上げた通り……私も彼をよくは知りません」
「ああ、わかった。すまない。お時間を取らせて申し訳ない」
レーニエは諦めたようにやや項垂れた。
「ああ、でもしかし……」
「え?」
「私は会ったことがありませんが、奴は会ったはずです」
「奴?」
「ファイザルのことです」
「……」
そう言えば、ドルトンがそんなことを書面に認めていたと、レーニエは思い出した。
「一度だけ、奴の口からハルベリ少将の話を聞いたことがあります」
「ファイザル殿から……?」
領主の顔がはっと上がる。
「ええ、ファイザルは俺に言いました。情報とは重要なものだとね。数年前の戦いで奴が作戦を立てる際、ハルベリ少将の齎してくれたある情報が大いに役に立ったとか。戦場の、しかも最前線の彼のもとへ危険を冒して、一番信頼している部下をよこしてくれたことに、奴は大層感謝していました。それで勝利を得たファイザルは、後に都に戻ってから少将に会いに行ったんですよ」
「そう……そうか。そんな事が……それでファイザル殿はなんと?」
「ハルベリ少将の事を部下の信頼も厚い、非常に優れた軍人だと」
「ファイザル殿がそんなことを……」
「私はファイザルの、人を見る目を非常に信頼します」
「……うん」
レーニエは唇が震えないようにと固く引き結んだ。
「だからきっとハルベリ少将は、あなたの大切な家族を頼むに足る人物だと思います」
「……」
ヨシュアはハルベリ少将を信頼していた。
では、もう私が反対する理由はなくなったという訳か……フェルを危険に晒したくないと言う、私の個人的な思いの他には……。
ヨシュア……ヨシュアもフェルを、行かせるべきだと言うだろうか? あの人ならば……そうだ。
レーニエはずっと気になっていたことを聞くのは今だと思った。
「もう一つ聞きたいことがあるのだが」
「はい。なんなりと」
「ファイザル殿はご無事だろうか?」
大きな瞳がオーフェンガルドをじっと見据え、躊躇いがちな唇から小さな問いが発せられる。彼女の心の内が透けて見えるようで彼は胸を打たれた。
「もちろんですとも! 奴は頗る元気です」
その言葉に息を詰めていたであろう、細い肩の力がほっと抜けた。
「そ……うか……で、あの方はどこの戦場におられるのか、あなたはご存じなのか?」
「はい」
「もし、機密ならば、答える義務はないが」
「いいえ、そのようなことは。寧ろレーニエ様が、今まで私に尋ねられなかった事が不思議でございました」
「それは……私が聞いてもいいのか、わからなかったのと……それ以上に恐ろしかったものだから……」
「……」
ファイザルに絶対に尋ねるなと言われているので、オーフェンガルドはレーニエの出自を知らない。
しかし、彼なりに想像がつくことはある。彼らは身分の差を越えて恋をしているのだ。それも熱烈に。
「奴は今、南の国境の向こう側にいます。ウルフェイン平原と言われるところです。ご存じですか?」
「ああ。我が国の資源の一大産出地で……この戦争の、そもそもの発端となった場所と聞いている」
「良くご存じで。ファイザルは先ず、八か月かかって敵の西方大隊を撃破し、国境の西に広がろうとする戦線をくい止めてました。現在その地帯は、既に非戦闘地域になっているはずです。そして、すぐさま奴は南の国境の町、ウルフィオーレの南に取って返し、平原の最前線に派遣されました。現在はその地で、先年取り返したばかりの鉄鉱山を守るために戦っているはずです。もともと、この戦はレーニエ様がおっしゃる通り、自由国境のエルファラン国境寄りに産する資源を目当てに、新興国ザカリエが侵攻したことで始まったものなのです」
「ウルフィオーレ? そこは確か……」
「はい。奴の故郷です。この十何年、休戦や停戦を挟みながらも、ずっと戦場になっているところです」
「最前線か……さぞや激戦地なのだろうな」
戦場がどういうところなのか、レーニエの想像力ではうまく情景を描けない。
たしか、南の地方は鉄をはじめ、たくさんの豊かな鉱脈があり、鉄鉱石などは露天掘りで産出できる。その様子を描いた本は見たことがあった。
それは大きな穴が大地に幾つも穿たれた奇妙な風景だった。そんな場所が戦場になっていて、ファイザルはそこで司令官として戦っているというのか。
「……戦況は?」
「ファイザルが行くまでは捗々しくなかったようですが、何しろ奴は有名ですからね。奴が二年の時を経て、再び南の戦線に投入されたと聞いて、敵は作戦を変えたようです。知名度だけで奴は脅威になってますよ。彼は名うての戦上手ですから。まったく凄い奴です」
ヨシュアはずっと、苦しんでいたと言うのに……。
レーニエはため息をついた。
「東の戦線は、別の師団の将軍達がどうにか死守に成功しているようです。そうして東西の憂いを晴らしたファイザルは、いよいよ最大の戦場に乗り出したのです。彼は昔馴染みのある男を東部戦線から呼び寄せました。その男は『雷神』の二つ名を持つファイザルの相棒で、少々変わってはいますが、凄腕の武人です。おそらく他にも、様々な戦略を立てて今度の戦に臨んでいることでしょう。彼の今回の戦に決着をつけようとする熱意は半端じゃありません。戦況はきっと大きく変わります」
「……」
「ただ、自国の事情で、一旦中央の戦線からザカリエの首都ザールに戻っていた『バルリングの黒熊』ドーミエ将軍が、相次ぐ負け戦についに業を煮やし、近々大隊を率いて戻ってくるという報告を受けています」
「その名はよく聞いている。その名も高い猛将だとか」
「その通りです。数年前、長らく下火状態だった戦に再び油を注いだのは奴なのです。ただ不思議な事に、ファイザルとは直接対峙したことがなかったはずです。しかし、今回ばかりは両雄が激突するのは避けられないと、専らの噂です。おそらく最大の激戦になるでしょう」
些か頬を紅潮させて、オーフェンガルドは熱心に語った。武人たる所以であろう。レーニエは複雑な思いでその言を聞く。彼女は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「大丈夫です。奴を信じてやってください。私に言えることがあれば、包み隠さずレーニエ様にご報告いたしますので」
レーニエを励まそうとしてか、オーフェンガルドは後ろ姿に向かって熱心に言った。
「そうしていただけると、ありがたい」
窓外に視線を巡らせながらレーニエは呟いた。相変わらずの凛々しい男装だが、銀髪を流して俯く様は、恋しい男の安否を憂う少女のそれで、オーフェンガルドは心が痛んだ。
「あいつはずいぶんレーニエ様を大切に思っているようでした」
「……あの人があなたにそんな事を?」
その言葉にレーニエは、はっと振り返る。紅玉の瞳が揺れた。
「いいえ。ですが、私にはわかりました。嘗ての彼は奴は、守るべきものを持たない……と言うより、持とうとしない男でした。まるでそうすることを怖がっているみたいに」
「……」
「ですが、私がこちらに着任し、彼が去るまで過ごしたわずかな間、あなたのことを語る彼はとても嬉しそうで。闘将と呼ばれたあいつの、そんな様子をそれまで見たことがなかったものですから、私は大変驚いたのです」
「……本当? 私のことをあの人が話していた?」
「ええ。普段素直なのに、時には非常に頑固になるとか、好奇心旺盛でなんでも確かめたがるとか」
「……もう」
「ふふ……ようやく笑ってくださいましたね」
思わず苦笑をもらしたレーニエに、オーフェンガルドもほっとした。
「あの人はこの戦争が終わったら帰ってくる……帰って来てくれるのだろうか?」
「さぁ……それは私には。ですが、あいつはレーニエ様のご安寧を一番に思っていますよ」
「……」
「どうかあいつを信じてやってください。俺が言うのもなんですが、あいつは信頼に値する男です」
「それはよく……よく知っている」
レーニエの瞳はオーフェンガルドの肩越しに、遠い南の空を見つめていた。
オーフェンガルドもいい奴です。