56 領主の選択 15−2
「ヨシュア! いつから……」
ガウンの裾を翻して駆け寄り、レーニエは男に飛びついた。
「ついさっき、サリアさんが出ていくほんの少し前にね」
ファイザルはその軽い体を受け止めて笑った。
「それにしても可愛らしい声でしたね。今のは。たまには驚かせてみるのもいいものだ。あなたにはいつも驚かされっぱなしだから」
そう言うと、ついと長身を屈めて柔らかい頬に唇を落とした。レーニエはまだ不思議そうにしている。
「暖かい……俺は冷たいでしょう? すみません」
「いいや。だけど、どうやってここまで?」
「ああ、それはね……その木を登りました」
彼はこともなげに露台のほうを指す。
それは以前、ジャヌーが要らぬ好奇心を起こしてよじ登って転落した楡の木だった。あれ以来、大きな枝は払われたはずだったが、ファイザルは僅かに残った枝から露台まで跳躍したというのだろうか?
「前に言いませんでしたか? 軍に入るまで、俺は不良少年だったのですよ。大抵のところには忍びこめます」
言葉をなくすレーニエに、ファイザルは悪戯っぽく片目を眇めて見せた。
「しかし、あの木はよくありません。こんなに容易く外からの侵入を許してしまう。明日にでも、もっと枝を落とすように言い置かなくては。それに、はね橋が下りたままでしたよ。無用心にも程があります」
「あれは……私がそのようにさせたのだ。だって……あなたが……」
「あれくらいの堀を超える方法なぞ、何通りも考えられます。まぁ、おかげで忍び込むには楽でしたけど。そんなことよりレナ、寝間着のままではありませんか。湯を使われたのでしょう? 冷えてしまう。さぁ、火の傍に……」
ずい、とファイザルが身を寄せる。
「え? ああそうだった。外は寒かっただろう? こっちに酒が……」
レーニエは振り向いて、部屋の真ん中に置かれている小卓に彼を誘おうとしたが、それは優しく阻まれた。
「酒よりあなたに酔いたい」
そう言うとファイザルは、握った手首を己の方へ引き寄せた。レーニエは逆らわない。
逞しい胸に寄り添うと、外気で冷えたマントの感触が熱い肌に気持ちがよかった。しかしファイザルは、皮の手袋を脱ぐと片手でマントの留め金を外し、傍らの椅子にばさりと打ち捨てる。
さっと抱き上げる仕草はもう慣れたものだった。彼はレーニエを横抱きしたまま、暖炉の傍まで歩を移し、彼女がさっきまで座っていた大きな安楽椅子に腰を下ろした。
「……やっと会えた」
二日ぶりの口づけは、冷たい感触で始まる。
自分に押しつけられる唇も、頬もマントと同じように冷たかった。暖炉で暖まり過ぎた自分には心地いいが、ファイザルを温めたくて、レーニエは両の掌で削げた頬を包んでやる。
口づけが深くなった。
「んん……」
湿った音が静かな部屋の闇に溶けた。
手袋を外した彼の手に、薄い夜着を通して、しなやかで柔らかい体の感触が伝わる。確かめずにはおれない。その首筋を、背中の窪みを、細い腰とそれに続く丸みを。
暖炉の炎は二人を影絵のように包んでいる。
「発つ前に、あなたと二人で過ごしたかった……どうしても」
ゆっくりと唇を離した後も、唇が微かに触れる程の距離のみ隔てただけでファイザルは囁いた。
「……嬉しい」
うっとりと長い睫毛が伏せられる。
「一昨日の夜、赤い服を纏ったあなたを見た時もそう思ったが……今宵のあなたはまた一段と……」
「ん?」
「まるでこの世のものではないようだ……あなたは本当に生きた人間なのですか?」
暖炉の炎を背後から受けて流れる銀髪、赤い瞳、薄暗い部屋の中でぼんやりと光る肌を、白絹と泡のようなレースに包んで。
普段、無骨な男ばかりを相手にしており、そしてこれからもっと荒んだ世界へ身を投じるファイザルにとって、レーニエの姿は幻のように現実味がない。
しかし、娘は確かな温もりを伝えながら、しっとりと彼の腕の中にいた。
「それはいい意味?」
ほんのりと頬が染まり、湯あがりの体が匂いたった。ファイザルはその香りを心行くまで楽しむ。
「もちろん、ああ、良い匂いだ……」
彼は首筋に顔を寄せ、花びらのような耳たぶを唇に挟んだ。
「俺にとっては麻薬なのかもしれないが」
「麻薬?」
熱い唇で耳を弄ばれ、体を痛みに似たものが走る。我知らず、顎を反らせてレーニエはそれに耐えた。男はその様子をとっくりと眺めている。
「しかし……覚悟はしていましたが、あなたに触れずにいることは非常に困難だ。自制できる自信はあったが」
僅かに顔を離して微笑するファイザルに、レーニエは小首を傾げる。
「それは……どういう事? 私に触れるのが嫌と?」
「違う」
オリイさん、あなたの教育はどこまで進んでいるんですか? この姫君は心の中まで無垢なのか。
ファイザルは見かけはきっぱり否定したが、内心真剣に考え込んでいた。その間にレーニエの表情は曇ってゆく。
「ヨシュア……わからないよ」
「レナ……」
ファイザルは小さなため息をつき、苦笑を洩らした。そっとレーニエを抱き直すと、自分を跨ぐように座らせる。
寝間着の裾が割れて白い脛が半ば露わになった。
「お寒くはありませんか?」
ファイザルは敢えて彼女の脚を見ないようにしながら、ごそごそと自分の上着を脱いで薄い肩に羽織らせた。
大きな衣服に包み込まれると一層小さく見える。膝の上に乗せていても自分の方が視線が高い。こんな娘に今夜自分は、一体どう振る舞えばいいのだろうか。
「ちっとも。それで? ヨシュア」
膝の上に乗ったまま、その胸にもたれかかり、レーニエは厳しい輪郭線に縁取られた顔を見上げて話の続きを促した。
「あのね?」
ファイザルは小さなため息をつくと、慎重に言葉を選びながら語り出した。
「つまり……俺は明日、戦場に旅立つわけで。いつ戻れるのかもわからない。いくらあなたを想っていても、何も補償できるものがない。この命ですら」
彼は一旦言葉を区切り、そして一気に続けた。
「戦場では何が起こっても不思議ではない。さっきまで隣で勇猛に剣を奮っていた奴が、次の瞬間には、死んでいることも珍しいことではないのです」
「……」
軽い体が強張ったことが腕に伝わった。震えるのを必死で耐えているのだろう。彼のシャツを握りしめる指に白い関節が浮き出す。
「申し訳ありません、レナ。愕かすつもりはないのです。ただ、現実を言ったまでで」
大きな掌が滑らかな頭を何度も撫でた。
「前に言ったように、俺は死ぬつもりはさらさらないけれども、必ず生きて帰ってきますと、あなたに誓う事も出来ない。そんな薄っぺらな誓いは持たない。それに命があっても、この地に戻れる可能性も低い。幸運にも、ここに戻れることがあったとして、よくて今のままの関係で終わるしかないのです」
「ヨシュア……嫌、そんな事を言わないで」
「だから……俺は散々迷いました」
ファイザルはふいに口をつぐんだ。
「こんな俺があなたにこれ以上、深く関わってはいけない事はよくわかっている。だが……」
ふるふると首が振られる、白銀の前髪がふわりと舞った。
「今夜俺がここに来たのは、あなたとせめて一晩ゆっくり過ごしたかった……それだけで」
まるで痛みを堪えるように、彼は一気に打ち明けた。
「一時の感情に負けてあなたを奪うような、卑怯なマネだけはすまいと誓って」
「奪う?」
前にも聞いた言葉。レーニエはその意味を考えようとした。
「私の何を奪うと?」
「あなたの純潔を。もし利己的な欲望に負けてあなたを……抱いてしまっては、俺はあまりに無責任な男になる」
「あなたはいつも私を抱いてくれるではないか。それが無責任なの?」
何も知らず、言葉の通りに受けとめるしか出来ないレーニエは、必死で食い下がった。無垢故のひたむきさに、ファイザルは再び仕方なさそうに苦笑をもらした。
「男が女を手に入れたい時にどのよう振る舞うのか、あなたがそれを知れば、私の顔など二度と見たくなくなるかもしれない……それが抱くってことですよ」
「そう。では試したら? 私はあなたを決して嫌いにならない」
「レナ……」
無邪気な殺し文句は敵の刃よりも深く、戦場の鬼と恐れられた男を突き抜ける。
「お願いですから俺を誘惑しないでください。これでも必死で耐えているんだ。その綺麗な寝間着の胸のひもを解かずにいることが、どれほど難しいか……レナ、あなたにわかりますか?」
返事の代わりにレーニエは自ら、レースの襟元のひもを引っ張った。柔らかな布地は、はらりと緩んで、白い胸もとを覗かせる。
「レナ! いけない!」
ファイザルは、驚いて滑り落ちようとする柔らかい布地を掴んだ。
「なぜ? あなたが難しいと言うから……」
レーニエは、両手で布地を掴む大きな彼の手を包み込んだ。
「言ったでしょう? 俺はあなたに無責任なことはできない。ここで俺が堪え切れずにあなたを抱けば、もしかすると子どもが出来てしまうかもしれないのです。明日をもしれない男の……しかも私生児を。そんな事はどうしてもできない。許されるはずもない」
「子ども? 子どもができるの? あなたと私の?」
驚いてレーニエは目を見張る。
「そんな事にはなりません」
きっぱりとファイザルは否定した。
「あなたの子ども……」
彼の言葉が耳に入っていないように、レーニエはうっとり呟く。ファイザルは慌てた。
「レナ! 目を覚まして。あなたにそんな事はさせられない。ましてや、あなたは今上陛下の……」
「母上? なんで今それが?」
訳がわからないと云った風でレーニエは首を傾げた。
「レナ……わかってください。あなたは王女殿下なのだ」
「誰も私の存在など知らない、知られてはならない……罪の子かもしれない身だ。私は母上も都も私は打ち捨てて、この地にきたのだから」
「あなたに罪などはない。だが……」
「ヨシュア。家の者以外で、私を認めてくれたのはあなたが初めてだ。私はあなたによって、自分が普通の娘であることを知ったの。自分を知って、認めて……そうして色々な事がわかった。ヨシュア」
「はい」
「私はあなたが好き……大好き! 私は、あなたのものになりたい。だから私を見て」
そう言うとレーニエは、突然寝間着の布を固く握りしめる指を解きにかかった。
ファイザルは、呆然とその様子に魅入っていた。