55 領主の選択 15−1
「ご酒をお持ちいたしました」
書見しているレーニエのそばに、サリアは盆を置いた。
東の地で採れる希少な果実酒が、美しい切り子細工の玻璃の瓶に入れられ、暖炉の火に照らされて緋色の輝きを放っている。そして、同じ切り子細工の足の長い杯が二つ。
「ありがとう。だけど、なぜ杯が二つ?」
「え? あ、あら? 本当ですわね、私としたことが間違えました。でもまぁ、せっかく持って来たのですから、こちらに置いておきますね。明日の朝お下げいたします」
「う、うん」
サリアはとうに気づいている。
この複雑な事情を抱えた恋人たちが、今宵一夜だけの束の間の逢瀬を遂げようとしていることを。
だけど、ファイザル様は大人だわ。きっとレーニエ様のお立場を悪くするような事だけはなさらない。絶対に。
「……サリア?」
「ああ、すみません。ぼんやりしてしまって……あ、それと、今夜は冷えますから、上掛けをもう一枚出しておきましたので、よろしければお使いください」
「あ、うん。ありがとう」
「少し早いですけれど、今夜はこれで下がらせていただきます。ごゆっくりお休みくださいませ」
「……おやすみ」
いつもより念入りにレーニエの夜着を整え、サリアが下がると、レーニエは机の上の美しい細工の杯を不思議そうに眺めた。
今夜のサリアは、入浴を手伝った時も、いつにもまして丁寧にレーニエを洗いあげ、髪を乾くまで入念に梳り、艶を出そうとしていた。おまけに寝間着や上にはおるガウンまで、真新しい上質のレースがふんだんに使われたものを出してきたのだ。
サリア、なんだかそわそわしているような……何かいいことがあったのかな?
そう言えば昼間、都から布地が沢山届いたって言ってたような……。
レーニエの見当違いの想像はさておき、今夜はファイザルが忍んで来ると言った日にあたる。
朝からレーニエは落ち着かず、遠乗りも止めにして書見と称し、図書室に引き籠っていたが、一向に文字が頭に入らないまま、時間はのろのろと過ぎていった。
堪りかねて、いっそ一人で馬で出かけようかと思い直した時、折よくミリアとマリが遊びに来てくれ、一緒に絵を描いたり、馬に餌をやったりしてやっと気を紛らわすことができたのだった。
そして、夕刻になるとレーニエの緊張は最高潮に達した。
どんな風にヨシュアを迎えたらいいのだろうか……。
彼がやってくるとしても、おそらく皆が部屋に引き取った後だろうし、そうなればレーニエは寝台で横になっている時刻だ。勿論夜着を着ている。
寝間着で彼を迎えてもいいものだろうか? 常識外れだと思われないだろうか? 上にきれいなガウンを着てれば構わないのだろうか?
灯りはどうなのだろう? 目が慣れると暖炉の炎だけで充分なような気もするが、ランプを灯したほうが……だけど、明日になって油が切れていたら、サリアが変に思うかもしれないし……。
そして何より、ファイザルがどこから入ってくるのか見当もつかなかった。
まさか、正面から来るとは思えなかったし、多分露台から入ってくると思うのだが、レーニエの部屋は二階で、どんな風に「忍んで」くるか、想像できなかったが、露台に面した窓の鍵はかけずにおく。
厚いカーテンを引いてあるから内側からはわからない。
何を食べたか思い出せない夕食がすんだ時、セバストが外がかなり冷えていると言っていた。
もしファイザルが、馬を飛ばしてくるならさぞ冷たくなっていると思い、とりあえず自分が所望するふりで、サリアに酒を頼んだところ、どういう訳か、杯が二つ添えられてあったという訳だ。
「はぁあ〜」
レーニエは、身の入らない書見の振りをやめて大きく息をついた。
先ほどから胸が大きく鼓動を打っている。暖炉の前の椅子に腰かけているから、冷えるはずがないのに、指先は冷たくて、思わず暖炉にかざしてみる。そのくせ体は火の傍にいたくないほど熱いのだ。
そして一番肝心なこと。
今宵、自分の身に何が起きるのかをレーニエは考えた。
ファイザルに会えることは、何をおいても嬉しかった。
明日の出立には、彼女も立ち会うことになっている。しかしそれは式典だから、おそらくすべて公の内に済んでしまうだろう。
それ以外の時間は引き継ぎや、残務処理に費やされるはずで、個人的な時間は取れない。ファイザルもそう思ったから、今夜会いに来ると言ってくれたのだ。
だが、今夜自分達二人が、どのように過ごすかという、肝心な部分についてはレーニエはわかっていなかった。
サリアに聞けば教えてくれたのかな? でも尋ねる訳にもいかないし……きっと、とんでもないって叱られる。
だけど、会いたいの。あの人に会って、声を聞きたい。そして……。
自分でもどうしようもないくらいに胸が甘くざわつく。
彼女は腕を胸の前で組んでみた。そうすればこの不思議な昂ぶりが抑えられるかもしれない、そう思って。
しかし、寄せられた胸の谷間に一昨日の夜、彼が唇を寄せたことを思い出し、却って動悸が高鳴ってしまった。そして胸だけでなく、どういう訳か、体の奥の方に疝痛が走るのだ。
それはここ最近彼女を悩ませていた感覚であった。
レーニエは途方にくれて椅子の上で体を丸めた。これではファイザルに変だと思われるかもしれない。
どうしたらいいんだろう。
「きっと、ヨシュアがわかっているんだろう」
彼女は自分の膝に顔を埋めて一人ごちた。
「俺が何を?」
「きゃ!」
低く落ち着き払った声がすぐ近くで聞こえ、心臓が飛び上がった。暗い赤色のカーテンを背景に、闇色のマントを纏った男がその長身を際立たせていた。