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【完結・改稿】ノヴァゼムーリャの領主  作者: 文野さと
第一部 ノヴァの地の新領主
54/154

54 領主の選択 14−2

 それから数日が経っても、レーニエはファイザルと話す間がなかった。

 彼は事件の事後処理や、着任したオーフェンガルド少佐との引き継ぎ業務で、ますます忙しくなっている。

 一度、新旧の警備隊長の挨拶で、領主館を慌ただしく訪問した以外は会っていない。昼の間はまだよかった。冬支度をする村人の様子を見たり、子ども達と過ごしたりしていると気が紛れた。

 しかし、夜になって寝台に横たわると、金色の落ち葉が舞う森の中で、ファイザルがどんな風に自分を抱きしめ、口づけを与えたか、どんな言葉を囁いたかが蘇り、体を(よじ)るほどの想いで体の奥が熱くなる。

 彼の腕の硬さや、唇の感触が恋しくて涙が溢れ、闇の中でついその名を呼んでしまう。

 戦場とはどんなものなのか、レーニエは想像することしかできないが、ジャヌーの話によると、戦況はあまり思わしくないらしい。

 どんな風に人々が殺し合うのか、先日のファイザルとブリッツの対峙を見て、恐ろしい思いをしたから深く考えたくなかった。しかし、現実の戦場は、そんなものではないのだろう。

 そして、ファイザルは着々と、()の地へ赴く準備を進めているのだ。その事が震え上がるほど恐ろしい。

 募る恋しさと不安に(さいな)まれながら過ごす夜は辛く、長い。

 会いたい。ヨシュア……!

 だから、晩餐の話がキダムから持ち上がった時、レーニエはすぐに承服した。

 もう会えなくなるのなら、せめて一番きれいに装った自分を覚えていてもらおう、そう思って。

 美しく装うなど、今まで考えたこともなかったが、サリアに相談してみると、一も二もなく賛成してくれたので、決心がついた。

 サリアはいつかこのような日が来ると夢見て、オリイと二人で仕立てたドレスが、やっと日の目を見れると嬉しくてならなかった。


 密やかな衣ずれの音が階上から聞こえ、ファイザルは顔を上げた。

 そして、紅を纏った娘の姿を見た途端、頬が強張る。二人の視線が絡みあった。

「……」

 レーニエが女物の衣装を着ているのは、以前領主着任の挨拶の席で見たことがある。その時は黒い衣装で、確かに美しかったが、まだまだ子どもっぽいのに痛々しい印象すらあった。

 しかし、今のこの姿は。

 今まさに咲かんとする冬薔薇が、もし人の形をとれば、このような姿になるのではと言うような――。

 しかし、ファイザルの口を突いて出たのは、平凡な社交辞令だった。

「こんばんは、レーニエ様。今宵は私などのために、このような席を設けていただき、ありがとうございます」

「あ……いや、ファイザル指揮官殿。今宵はささやかですが、どうぞお楽しみください」

 高鳴る心臓を押さえ、階段を降り切ったレーニエは、少し口ごもりながらも平静に応じた。

 広いホールは冷えているのに、頬は真っ赤に染まっている。

「では、ファイザル様。お願いいたします」

 セバストから受け取ったレーニエの腕は細かく震えていた。彼は安心させるように指先をそっと包んでやる。

 身長差があるために、鎖骨が見える。一年前には少年のようだった肢体は、丸みを帯び、実に悩ましい光景だった。

 ホールの左にある、大広間へ続く扉までのわずかな距離が永遠に続けばいい――そう思えるほどに。

「今宵は一段とお美しい」

 なんでこんな平凡な讃辞しか出てこないのか、ファイザルは自分の語彙の貧弱さを呪った。しかし、レーニエには充分すぎるほどだったらしく、一段と頬が染まる。

「そ、そうだといいが。あなたのために着たんだ……少しでも綺麗になりたくて」

 ファイザルは急に晩餐会も、三日後には戦地に出立することも、どうでもいいと思えた。

 だが、その返答は、またしても間の抜けた言葉だった。

「その望みは叶いましたね。大変お綺麗です。後任のオーフェンガルドが新婚でよかった」

 自分を思い切りぶん殴りたくなったファイザルは、もう今夜は何も言わないで、ただこの娘の顔を見て過ごそうと思い始めたが、その時セバストが大広間への扉を開け放つ。

ノヴァゼムーリャ領主館で久しぶりに開かれる晩餐の宴だった。


「レーニエ様、お疲れになりましたでしょう?」

 ドレスを脱ぐのを手伝いながら、サリアは主に聞いた。晩餐が終わり、しばらく談笑した客達が帰ってから半時あまり。

 レーニエは、サリアの供も断って寒い中、はね橋までファイザルはじめ、客たちを見送っていたのだが、その後から様子が明らかにおかしくなった。ぼんやりして、心ここにあらずと言った感じなのだ。

 サリアは、ファイザルと会えなくなるから、と思ったが、レーニエの様子を観察していると、どうも違うようだ。

 春先に高熱を発した時も、このような宴の後だったので、彼女はだんだん心配になってきた。

「レーニエ様?」

「えっ!? ああ、すまない。サリア、何だったかな? えーと……」

 ドレスを脱ぎ去り、入浴用のガウンに着かえた主は、相変わらず視線を彷徨わせている。

「ファイザル様は……」

「え!? ヨシュアが何? なんだって!?」

「何も言ってません」

 ダメだ。今夜のレーニエ様はどうかしている。

 サリアは思ったが、今のやり取りで腑に落ちるものがあった。

 全くわかりやすいのだから……素直なのも時に困っちゃうわね。侍女としては。

 自分が見ていない間に、間近に迫った別離のことさえ、レーニエの頭から忘れさせるような事があったに違いない。

「ファイザル様でしょう?」

 サリアはレーニエの表情を伺いながら唐突に尋ねた。

「ええっ!? ヨシュアは、別に何も……」

 ふぅ~ん、何かおっしゃられたのですね?

 簡単にカマに引っかかったレーニエを、サリアは姉のような気持で微笑ましく見つめた。薄暗い寝室の鏡に、真っ赤な頬が映っている。

「そ、それにしてもオーフェンガルド殿の奥方は素敵な人だった。お話も面白くて、私とも気が合いそうだし……」

 レーニエは急に晩餐会のことを話題にして、サリアに変に思われないように努めようとした。それが無駄な努力だとは、本人は気が付いていない。

「左様でございますね。お歳は確か二十三だとか。眼鏡をかけていらしても、とってもお若く見えましたわ」

「オーフェンガルド殿も長い軍隊暮らしで、独身生活が長いと言われていたから」

 微妙に会話の辻褄(つじつま)が合っていない。サリアは気がつかない振りでドレスを箪笥に吊し、入浴の支度をはじめる。

 お可哀そうなレーニエ様。初めての恋が叶った途端、別れなくてはならないなんて……。

 それにしてもせめて――。

「フェルがいたらいいのに……」

 最後の言葉は思わず口の端にのせられた。

 一時の逢瀬(おうせ)の後は、もっと恋しさが募って、レーニエは酷く悲しむだろう。そんな時、レーニエの心の機微(きび)に敏感な少年がいれば、レーニエもどんなにか慰められるに違いないのに。

 湯が溜まり、部屋も暖まって入浴の支度が整った。

「ご用意できました」

「ああ……」

 レーニエが浴室に入ってきたので、サリアは軽くはおっただけのガウンを取り去った。いつもながら女でも見とれるほどの裸身。白磁の肌に銀髪が(まと)わりついている。

 サリアは手早く髪をまとめると、リルアの花を浮かべた浴槽にレーニエを浸す。玉の肌を念入りに上質の海綿で磨き、髪を解くと別の洗い液で髪を洗いあげる。

 入浴の間もレーニエは、心ここにあらずという感じでされるがままになっていた。

「お髪はくるんだままにしておいてくださいね」

 サリアは寝間着とガウンをレーニエに着せかけ、部屋の中を見渡し抜かりはないか確かめる。

「それではお休みなさいませ」

「ああ……お休み」

 サリアは一礼して出て行った。扉が閉まり、暗闇の中にレーニエは一人残された。

 思いはつい先ほどのファイザルとのひと時に遡る。


 客たちを送るためにレーニエは、はね橋のところまで出ていた。

 サリアにはついてこなくていいと言ってあるので一人である。

 村長たちは徒歩や荷馬車で各々帰って行き、次期セヴェレ砦指揮官を担うオーフェンガルドと夫人は、レーニエに厚く礼を述べ、砦から迎えの二頭立ての馬車に乗り込んだ。ジャヌーはその護衛で騎馬でつき従う。最後に残ったのはファイザルだけだった。

「お休みなさいませ、レーニエ様。今宵はありがとうございました。オーフェンガルドも細君も、大層喜んでおりました」

「……ヨシュア、あ、あの……出立の日までもう……会えない?」

 それならばせめてここで口づけをして欲しい、レーニエはそう思ったが、とても口には出せず、彼の袖を摘まんだまま俯いた。

 泣いたりはしないと既に何度も誓っていたが、ともすれば込み上げる嗚咽(おえつ)を飲み込むのに唇を噛みしめている。しかし、ファイザルにはわかってしまったらしい。

 月明かりが照らすはね橋の上で、彼はレーニエを抱き寄せた。

 夜は冷えるからとサリアに被せられた肩掛けが(むし)りとられ、口づけが降るように浴びせられる。

 唇に、月光が照らす淡い肩に。晩餐の間中、彼を悩ませた胸元に。

 最後に唇を強く吸ったファイザルは、レーニエにあることを囁くと、不敵な笑いを浮かべた。

 もう一度彼女を強く抱きしめ、肩掛けを巻きつけてひらりと馬上の人となる。

 浅くなった堀にその姿を映し、レーニエはしばらくその場から動けなかった。


 月に照らされた荒野の下生えが白く波打ち、まるで泡立つ海のようだ。

 その中を黒い騎馬がただ一騎、悠々と駆けてゆく。

 夢のような光景だった。

「ああ……」

 突き抜ける甘い疼痛(とうつう)によろめく体を抱きしめ、ノヴァゼムーリャの領主は思わず声を漏らした。

 立ち去り際、柔らかな耳元に彼は囁いたのだった。

「明後日の夜、お部屋に忍んでまいります」




最後の場面は、作者のお気に入りのシーンの一つです!

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