52 領主の選択 13−2
「なぜ身代わりなどに?」
「う……あの時は、ああするしかないと思った。ミリアとマリは、あんなに怯えてたいたし、とても見ていられなかった。私なら大人だし、何とか対処が……」
「大人ですって!? そんな方は知りませんな。どなたのことです?」
「私……」
聞き取れぬほどの小さな声で、レーニエは答えた。
自分は十八歳で、ミリアとマリはたった十歳と六歳だ。そんな子どもを残していけるものか。
いくら叱られても、そこは譲れない。
例え軽率だ、無鉄砲だと罵られても。
「大人だったら、もう少し手段を選ぶでしょう。子どもとはいえ、大切な人質だ。奴らだって、そうあっさり殺したりはしません。普通ならいったん引いて、奴らの出方を待ちますね。ジャヌーを近くに潜ませて、俺に知らせることだってできる。相手はたった二人だ。子どもを扱い兼ねて油断したところが、こちらのつけ目だ」
「う……」
「あなたを人質に取られるよりは、余程いいのです」
もっともな言い分に、レーニエはすっかり恥入ってしまった。
考えてみると、まったくその通りだった。
マリに向けられた刃の切っ先に動転し、後先を考える余裕もなく、思いつきを口の端に出してしまった自分は、この人から見るとやはり、どうしようもない愚か者なのだろう。
返す言葉もなく、レーニエはすっかりしょげかえっている。ファイザルは何にも言わず、その顔を見つめた。
「どうしても助けたかったんだ……それだけで……他の事は考えられなくて……」
「お気持は理解できますが、明らかに無謀な行為でした。村の子どものために、現国王の一人娘が身を呈するなんて……」
「もう……わかったから、もうしないから。怒らないで、ヨシュア……」
しょげかえった瞳が揺らめくのを見て、今まで烈火の如く怒っていたファイザルが急にその勢いを失った。
「だが……そんなあなただから、どうしようもなく可愛いのだ」
「え?」
「ええ……おっしゃる通りです。あなたは一人前の立派な女性だ」
乱れた鉄色の前髪の下から覗く深い青い目が、レーニエを捉えて離さない。
「ヨシュア?」
「俺をこんなにしてしまった……」
ゆっくりと彼の顔が近づいてくる。
「レナ……レナ……本当に無事でよかっ……」
込み上げる感情に耐え兼ね、男の声は詰まった。何度抱きしめても、まだ不安に駆られる。
「愛している……レナ。俺のような者が愛など、口にするのも憚られるけれども」
愛など馬鹿げている。
しかし、この狂おしく昂ぶる感情の名前を他に知らない。
この娘のためならば、惜しみなく命を投げ出せるような強い想いの名を、他に。
「あなたより大切なものが、俺にはないから」
武骨な指が生え際の巻き毛を掻き上げ、白い額を露わにする。
「……ヨシュ……」
熱いものが自分の額に触れたことがわかった。触れた部分から彼の想いが伝わってくるようで、レーニエは瞳を閉じた。
やがて落とされた口づけは、優しく触れるだけだ。
唇に、頬に、瞼に、髪に、そしてまた唇に。落ちかかる鉄色の髪の先が白い頬に触れる。
「あ……」
「レナ……! 俺のレナ!」
唇が離れるたびに名を呼ばれ、呼ばれるたびに更に熱く飢えたように塞がれる。
今まで感じたことのない幸福感が波のように押し寄せ、レーニエはいつしか腕をまわして彼の首を抱いていた。背中に回った腕がかろうじて引っかかっていた髪のリボンを解く。金色の落ち葉の上に幾筋もの銀の流れができた。
「あ……ヨシュ……もっと」
苦しかろうとファイザルが少し唇を浮かせたとき、レーニエは不満そうに強請った。
「もっと? なにを?」
レーニエが紡ぐ言葉を思って、柄にもなく胸が高鳴る。
これではまるで女を知らぬ青二才のようではないか。
あざ笑う自分を押し込めた。今は目の前の娘のこと以外、何も考えたくはなかった。
「何が欲しいのです」
「……口づけ」
素直にレーニエは応じた。この瞬間が恋しくてならなかったのだ。
あの夏の湖以来、どんなにこうしてほしかったか。レーニエは今更ながら気がつく。ずっと待っていた。この瞬間を、二つの季節の間中。
「好きなの……大好き」
「く、殺し文句を」
再び圧し掛かる。一つに重なり合った体が無意識に揺れ、身じろぐたびに地面の落ち葉がカサコソと優しい音を立てた。
やがてファイザルは僅かに顔を上げ、先ほどのようにレーニエを覗き込んだ。小さな唇はびっくりするほど色づき、僅かに腫れて濡れていた。ゆっくりと長い睫毛が上がって赤い瞳が彼を見上げる。
「そんな顔をされると堪らなくなる……このまま奪ってしまいそうで」
「奪うの……? 何を? 私がもっているものならなんでもあげる」
ファイザルはレーニエが奪うという言葉の意味を、まったく解していないことに微笑んだ。
誰にも汚されていない無垢な姫君、こんな娘が自分を想ってくれている……。
「あなたは何もご存じない。男と言うものは、あなたが考えるよりずっと罪深いものなのですよ。こうしてあなたが無事でいる方がむしろ奇跡なのだ」
彼はレーニエの首筋に顔を埋めると、再び腕に力を込めてその体を抱きしめた。
唇で耳元の窪んだ部分を味わいながら、ともすればシャツのタイを解いてしまいそうになる衝動を抑えつける。
「こんなあなたを置いてゆくのは、不安で不安で仕様がない……」
しばらくして、ファイザルは呻くように言った。
「……?」
「俺がいなくなったら、どんな無茶をするかわからない姫君だから。あなたは」
「……え?」
甘い感情に浸っていたレーニエは、いきなり言われた言葉を理解しかねて戸惑ったように首を傾けた。
「いつかは言わねばならなかったのですが」
「ヨシュア?」
「レナ……俺はもうすぐ戦場に戻ります」
ファイザルは重々しく告げた。
口づけを受てうっとりとけぶったレーニエの瞳が、言葉を受けて鮮やかな緋色に変わる。
「先日使者がきました。おそらく一月以内に俺は、この地を出発しなくてはなりません」
「あ! あ……!」
思いがけない宣告に、レーニエは身をぞっと竦めた。ファイザルの言葉が浸透していくにつれて体が小刻みに震えだす。
「い……や、嫌……嫌!」
震えが止まらず声に力が入らない。
レーニエは、彼にしがみついて首を振った。髪が流れ、落ち葉の上でさらさらと密やかな音をたてる。
「いや……ヨシュア」
「ふ……あなたと言う人は……可愛くてたまらない」
あどけなさと女らしさの同居するその仕草に、ファイザルは目元を綻ばせてレーニエの髪を撫でた。
「行かないで!」
華奢な体が広い胸に投げ出される。ファイザルは、しっかりその身を受け止め、包み込んだ。
「目を閉じて、耳を塞いで……あなたを悲しませるもの全てから、あなたを守りたいのに。すまない、レナ。あなたを傷つけるのはいつも俺なんだ……」
あの湖でもこの人は泣いていた……。
愛しくてならないように長い指が銀の髪を梳く。乱れてはいても、それは素直に彼の指に従って解けていった。
「あの男たちのようにあなたを攫ってしまえたら……」
ファイザルは静かに笑った。
「攫って!」
白い頬に涙が溢れて彼の上着を濡らした。
「ヨシュア! お願い、私も連れて行って!」
幼子のように嫌嫌を繰り返し、娘が彼の胸に取りすがる。
軍服の厚い生地を細い指が握りしめた。怪我をしたばかりの手を案じ、自分の手で優しく剥がしてやる。
「あなたを攫って逃げたりしたら、俺は命令不履行と王族誘拐の大罪を犯した極悪人になりますね。それも面白そうですが、捕まえられたら問答無用で極刑になるな」
冗談めかしても、レーニエはごまかされない。
「嫌だ! ヨシュア! 傍にいて! 行かないで……私を愛しているって言ったのに!」
「愛していますとも。自分でも驚くくらい本気だ。だから俺は、俺にしかできない方法であなたをお守りする」
「そんな方法で守ってほしくない!」
レーニエは、ファイザルの腕の中で子どものように泣きじゃくった。それしかできなかった。
「お願いだから」
「レナ、レナ……泣かないで」
「そうだ! 母上にお願いしたら……」
自分の思いつきにはっとなって、レーニエは急に顔を上げた。
「母上に!」
「いけません、レナ。誰かが行かなくてはならないのです。今回は、たまたまそれが俺だったと言うだけのこと」
ファイザルは静かにレーニエの言葉を遮った。
「仮に俺が逃げても、誰かがこの任につかなくてはならない。命令に背くことはできない……と言うよりしない。自賛ではなく、おそらく現時点では、この国に俺以上に適任者はいないでしょう。南の戦地では攻める方も守る方も疲弊し、戦いはそろそろ終わる時期が来ている。誰かがケリをつけなくてはいけないのです」
「それが……あなたでなければならないの?」
「どうしてもね」
何でもないことのように唇を上げて、ファイザルは笑った。
「可愛いレナ。戦場を駆け抜けることが生きることだと思っていた俺にとって、この地に来て、あなたと出会ってからの月日は夢のような時間でした」
「……」
「あなたを知って、畏れ多くも想いを通わせあって……それだけで今までの人生全て支払っても、足りないほどの価値がある」
「ヨシュア……それは……」
不吉な物言いにぞっとしてレーニエは目を見張った。
「そんな顔しないで、レナ。何も俺は死にに行く訳ではありません。人生がそれほど捨てたものではないという事を、あなたに出会った今では理解できますからね。ただ必ず戻ってくると約束できないだけで」
訥々と紡がれる言葉は飾り気がなく、それだけに紛れのない真実なのであった。
もはや言葉もなく、レーニエは首を振るだけだ。その瞳から拉致された時ですら見せなかった涙が溢れて流れる。
「俺のために、そのきれいな瞳を曇らせないでください」
ファイザルは唇で涙をぬぐってやったが、それは後から後から頬を伝い、ぬぐい切れなかった雫が赤い唇までも濡らした。
「レナ。あなたに会えて本当によかった。この先何があっても、それだけは俺の中の真です」
痛みともつかぬ愛しさをこめて、ファイザルはそう告げ、赤い唇に付いた雫を吸った。
朝の森は、落ち葉を舞わせながら恋人達を静かに包んでいた。