51 領主の選択 13−1
金色の木立の中を黒い馬が疾走する。
半ば葉の落ちた朝の森は、静謐な空気に満たされて明るく、ハーレイ号が力強く地を蹴る度に乾いた落ち葉が勢いよく舞い散った。
レーニエを抱いたままファイザルは巧みに馬を操り、木立の中を進む。
人々が騒いでいるだろう村を駆け抜けるより、少しだけ迂回して西から領主館まで戻った方がいいと、彼は判断したのだ。ハーレイの脚力では半時も掛からないだろう。
「お身体は辛くはありませぬか?」
マントにくるみ込まれたレーニエを抱き直し、心配そうに覗きこむ青い瞳にレーニエは、手首をゆらゆらさせて微笑んでみせた。
「大丈夫。手の怪我だってちっとも痛くない」
「本当に? お熱は? 昨夜はさぞ恐ろしかったでしょう?」
ファイザルは、掌をレーニエの額に当てた。今のところ発熱の気配はない。
「それはそうだが……病人がいたし、私もあの男も、そちらに注意が向いていたから。あまり怖いとか、考える暇がなかった……と思う」
昨夜の事を思い出しながらレーニエは答えた。その声も、特に乱れる様子はなかった。
「相変わらず胆の据わったお方だ……」
腕の中の体を抱きしめながら、ファイザルは呟いた。
すぐに折れてしまいそうなこんな人が、一晩無頼の輩と対等に渡り合ったというのか。
「そんな事はない。内心怖くて仕方がなかった……だけど、必ずあなたが来てくれると信じていたから」
「……俺を、信じて?」
「うん。なのに……どういう訳か今の方が怖い……なぜだろう? あなたの傍にいるのに……」
無条件の信頼、そしていくらかの哀しみを湛える瞳を見下ろし、ファイザルは言葉をなくした。
何かが激しく胸にこみ上げ、手綱を捌く手が鈍る。
「それは……わかります」
森のはずれの明るい空間で、ファイザルは馬を停めた。
そこは黄金色に色づく木々に囲まれた空間で、もう少し走れば森が切れ、荒野が見えるはずの場所だった。
レーニエを一刻も早く館に連れ帰り、休ませた方がいいのはわかっている。
だが、彼にはどうしても確かめなくてはならないことがあった。
「レーニエ様、申し訳もないのですが、少しだけ、少しだけ……よろしいですか?」
ファイザルは馬を下りた。
自分を包んでいたマントを解かれて、ここはどこだろうと、不思議そうな顔をするレーニエを馬から抱き下ろし、大きな木の根元に座らせ片膝をつく。
「うん?」
金色の絨毯の上で、怪訝そうに小首を傾げるレーニエの両腕をそっと掴み、曇りのない瞳を覗きこむ。
「お館にお連れする前に、どうしてもお聞きしたいことがあったのです。お身体は本当に大丈夫ですか?」
「体? 体なら大丈夫。ちょっと疲れたけど……何?」
ファイザルの酷く真剣な様子に、少しだけ身構えてレーニエが予防線を張る。掴まれた腕が少し痛い。
「奴らは……あなたに、その……嫌な事をしませんでしたか?」
言いにくそうに言葉を選びながら、ファイザルは彼女の命の次に気に懸っていたことを問うた。
レーニエは思いもかけない質問に、急いで記憶の中に答えを探す。
「嫌なこと? 攫われる以上に? ええと……」
「俺の言うのは、たとえば……無理やり服を脱がされるとか、肌に直に触れられるとか言うようなことです」
「ええ? そんなことはされてない。マントも上着も自分で脱いだし。この怪我は自分の責任だし」
質問の意味がよくわからないまま、レーニエはありのままに答えた。そう言えば、最後に追いかけられた時以外は乱暴はされていない。
「男たちの一人が病人で、あのブルックと言う男は、彼を案じていたから、私に構うゆとりはなかったように思う」
「……そうですか」
ファイザルはほっと肩を落とした。
厳しい色を浮かべていた目が、目に見えて穏やかになり、腕を掴む指が緩んだ。
「あなたに手を出したのなら、たとえあなたのご命令でも、きゃつらを生かしておかないところでしたが」
人殺しも厭わぬほどファイザルを激怒させたのは自分だ。
先ほどの崖の下での恐ろしい一瞬を思って、レーニエは身を竦ませた。もしこの人を失ってしまったなら、自分はどうしていただろうか。
「俺が恐ろしいですか?」
レーニエの瞳に浮かんだ恐怖の色を勘違いして、ファイザルは彼女の腕を離した。
「いいや。私が恐ろしかったのは、私のせいであなたが傷つくことだけだった……そうだ、あなたは怪我はないのか?」
心配そうな、だがありえない問いかけに、ファイザルは仕方なく苦笑を浮かべた。
「俺の心配なぞ無用です。だが……」
ファイザルは、小さな顔を両手で挟んだ。
「ん……?」
「あなたは今の方が怖いと言われたが、俺も……そう、実のところ、俺の方が怖がっているのかもしれない」
レーニエを見つめる青い目に、痛みのようなものが浮かんだ。
「恐怖と言う感情を久しぶりに思い出した……今でもまだ恐ろしい」
「すまない……心配をかけた。あなたにも……皆にも」
ファイザルの大きな掌は頬から首を伝い、肩に滑らされて、もう少しで失ってしまっていたかもしれない人の体を確かめるようになぞってゆく。
「どんなに叱られても仕方がない……」
自分を見据える瞳から目を逸らせてレーニエは言った。たぶんまた叱られる。自分を皆から遠ざけたのはきっとそのためだ、そう思って。
「その通り。いけない娘だ」
「……ごめんなさい」
「そんな言葉で許されると思っているのですか? かつて経験したどんな戦況でも、俺はこれほど恐ろしかったことはない」
「……」
「この一昼夜、生きた心地が微塵もしなかった。生まれて初めて死んだ方がましだと思った……もしも、あなたを――失ってしまうくらいなら……」
言葉を見失うほどに付き上げる感情。彼は唇を歪めてそれに耐えた。
「俺が死ぬ!」
苦いものを吐き捨てるようにファイザルは唸った。
「ヨシュア!」
「そうとも。あなたは……あなたと言う人は……なんだってこんな……」
「あ!」
いきなり激しい勢いで抱きすくめられる。
「少しは哀れな……哀れな、俺の事も考えてください!」
ファイザルがじわじわと体重をかけてくるので、支えきれなくなったレーニエは、背中を木の幹に預けた。苦しいほどきつく、腕が体に巻きつく。
「あなたが攫われたと聞かされた時の、俺の心の内を、見せて差し上げたい」
ファイザルは両腕の檻にレーニエを閉じ込め、自身の心臓の音を聞かせるように胸に押しつけた。
「……ヨ……」
とくんとくんと規則正しく刻まれる鼓動。
先程彼は、心臓が潰れると口にしたが、まさか、自分がこの音を止めてしまうところだったのだろうか?
そうだとしたら、自分は何と言う事をしでかしてしまったのだろうか?
レーニエは瞳を閉じて、力強く生を告げるその音に耳を澄ます。
よかった。本当に……この人のところに帰りつくことができて。
瞳を閉じて体を委ねる。そんな事が出来るのは、この人の腕の中だけだった。大きな手で髪を撫でられて、レーニエは大きく穏やかな息をついた。
「大丈夫。生きている。私も、あなたも」
「ありがたいことにね」
ふ、と男の厳しい青い目が緩んだ。
「……レーニエ様」
「ん……?」
口づけてくれるのかと潤んだ瞳でファイザルを見上げたレーニエは、自分を見つめる真剣な青い瞳とぶつかった。
「そうだ。もう一つ聞きたい事があったのを思い出しました」
あれ?
声音がさっきと違う。
何だか雲行きが怪しくなってきたと、レーニエは目を瞬かせた。
今の今まであんなに優しかったのに……。
「……はい」
「さっきはなんで、俺の言った通り、上にいなかったんです。こんなお怪我までされて……」
ファイザルは自分で包帯を巻いた細い指先を握った。
「……えっと……」
「さぁ、言いなさい」
容赦なく、ファイザルは問い詰める。
「え~だからあの……剣があった方がいいのかな、って思ったものだから……」
「俺があんなシロウトに後れを取るとでも思ったんですか? 見くびられたもんだな」
「あ、いや……そうではないが……そうだ、あの男、ブリッツはどうなるのだろうか? かなりの怪我だったようだけれど……まさか命を落とすことには……」
「あんな目にあったのに、まだ悪人の心配などするのですか?」
厳しい声でファイザルはレーニエに問いただした。
「え? いや、そういうつもりは……でも、助かるとよいとは思う」
「今夜を越せたら、たぶん大丈夫だと思います。傷は深いが急所ではありませんでしたし。だが、あなたに止められなければ殺していました」
「でも殺さなかった」
「あなたが命じたから。それにあなたの目の前で殺すわけにはいかなかったし。いくら俺でも。それより」
「……」
「あなたが剣を持って立っていたのには、流石の俺も魂消ました。しかも、鞘から抜いて……」
扱い慣れない重い剣など持って怪我でもしたらどうするんです、と言いながら細い指先が握りしめられる。
「いや、すぐに使えた方がいいかなって……ヨシュア、あの……ちょっと痛い……」
どんどん雰囲気が怪しくなる。このままではもしかすると……レーニエは指先を預けたまま、じりじりと身を離し、身構えた。
「無茶をするにも程がある!」
そら来た。
レーニエはひゃっと首を竦ませた。やっぱり怒られるのだ、この人に。
「大体あなたときたら!」
「はい……」
「そもそも、初めから分別がなかったんです! 人質の交換などと……よくもまぁ思いつかれたもんだ! まったく……前代未聞だ!」
ファイザルは昨日からの鬱屈が蘇ってきたのか、眉間に剣呑な筋が浮き上がる。
「仮にもご領主様が、村の子どもの代わりに人質になるなんて、ついぞ聞いたことがない! あなたはご自分の立場をわかっているのか!」
「子ども……そうだ! ミリアとマリはあれからどうなった?」
話を逸らすという訳ではなく、すっかり忘れていた幼い姉妹のことが急に心配になり、レーニエは勢い込んで尋ねた。
「へぇえ……こんな目に遭われたと言うのに、またしても、よその子の心配ですか」
「でも!」
「二人はあなたを心配してずっと泣いていますよ。父親のペイザンもそうです。彼の母親はぶっ倒れて寝込みました」
「お婆様が? それはお気の毒な……明日にでも見舞いに行かねば……あ、アンナ婆さまのことも、すっかりほったらかしで……」
「そうじゃないでしょう!」
いつも自分のことは普通に後回しな領主に、ファイザルはついに堪忍袋の緒が切れたのか声を荒げた。
「気にする所はそこではないでしょ!」
……本気で怒ってるなぁ。
言う度に墓穴を掘っているような気がして、レーニエはとりあえず神妙な風を作った。
長いので2話に分けました。時間を空けて更新します。
少しは読みやすくなったでしょうか?
天然も度が過ぎると、雷が落ちます。