48 領主の選択 10
ジャヌーの姿が木立の向こうに見えなくなると、途端にレーニエは心細くなった。
幼い姉妹を救いたい一心で、柄にもなく身分をカサに着てまで忠実な青年を無理やり従わせたのに、今ではすっかり途方に暮れている。
これからどうしたらいいんだろう。
屋敷から離れた場所で独りぼっちになったのも初めてなら、得体の知れない男達に素顔をさらしているのも初めてだ。
しかも、彼等は絶対に「いいひと」ではない。
我ながら情けない事態に陥ったものだと、レーニエは崩れかけた壁に立ち、ジャヌーが去った方角を見つめながら考えこんだ。
だけど、ミリアやマリがあのままでいるよりは遥かにいい。私だけならなんとかなるかもしれないもの。隙を見つけて逃げ出すとか。
そう考えると、レーニエは少しは気が収まった。
それにジャヌーがいる。彼は必ずヨシュアに報告する。
ヨシュアはすぐに動いてくれるだろう。だけど……またしても私は、彼に迷惑を掛けてしまったのだな……ヨシュアはこの事を聞いて怒るだろうか? それとも心配するだろうか?
どちらにせよ、いつまでたっても私はあの人の重荷だ。
「おい、何を考えてやがる! こっちへ来い! マンレイ、そいつを連れてくるんだ」
どさり
男が荒い声をかけ、レーニエが振り返るのと、顔色の悪い男が石の床に崩れ落ちるのは同時だった。
「え?」
「お、おい! マンレイ!」
慌てて男が駆け寄る。マンレイは倒れたままぴくりともせず、真っ白な顔で荒い息をこぼしていた。滝のように汗が流れている。
「そなた……病気なのか?」
「おい! 触るな!」
思わず膝をついたレーニエに、リーダー格の男は、びしりと剣を突き付ける。
「こいつに近づくんじゃない! 壁を背にして座っていろ! 少しでも動いたら、そのきれいな顔に一生消えない傷を付けてやる」
レーニエは何も言わず、大人しく従った。
マンレイと呼ばれる男は明らかに病気で、高熱があるようだった。
先ほどのやり取りが彼の体力の限界だったのだろう。がっくりと顎が落ち、唇から喘々《ぜいぜい》と喉が鳴っている。男は薄眼を開いて言った。
「だ……いじょうぶだ。ブリッツ、俺は」
彼は弱々しく立ち上がろうとしたが、半身すら起こせぬまま再び崩れる。落ち窪んだ眼窩は黒い隈に縁取られていた。
「いいから喋るな! くそ、すげぇ熱だ。こんな時に……」
ブリッツと呼ばれた男は、マンレイの額に手を当て、忌々しげに顔を歪める。
「熱さましの薬なら、その籠の中に入っている」
レーニエが静かに発した言葉に男は、ぐるりと振り返った。
「なん……だと?」
「薬ならあると言ったのだ。そら、その籠の中、赤い紙に包まれているのが熱さましの薬だ」
「……」
ブリッツは、レーニエに剣を突きつけながら籠に左手を突っ込み、言われたとおりの物があることを確かめた。
「なんで野遊びのお貴族様が薬なんぞ持っている? 騙されないぞ! 何をたくらんでやがる?」
「騙してないし、たくらんでもない」
「舐めるんじゃないぞ!」
「そなた、疑り深いな。さっきの私の話を聞いていなかったのか? 私たちは病気の老婦人に、薬と食事を届けに来たのだ。子どもがいなくなったことは、村を通りかかった時に知らされた。ここに来たのは偶然で、まさか自分が子ども達を見つけるとは思っていなかった」
「ふん」
レーニエの率直な話し方に、ブリッツは、ほんの少し警戒の色を解いたように見えた。
「嘘ではない。その茶色の瓶は痛み止めの薬用酒だし、緑のは普通の果実酒だ。あ、そっちの油紙には膏薬が塗られている。オリイのことだから、注意書きが付いているんじゃないかな? 確かめてごらん?」
ブリッツがきちんと包まれた包みを開けると、紙きれが滑り落ちてきた。
そこにはオリイの几帳面な字で効能が記され、薬も一回分ごとに包まれている。目の悪い老婦人に、わかりやすいようにとの配慮だろう。
「どうやら嘘じゃあなさそうだな。だがまだあるぞ。お前の言う事が本当なら、なんでただの婆さんの見舞いに、ご領主様自ら出向かれるんだ? アンタ、お貴族様なんだろう? おかしいじゃないか」
「ちっともおかしくはない。理由は一つ、私が一番ヒマだったからだ。家の者は屋敷の冬支度で忙しいし、村の者は収穫期で忙しい。私しか暇なものがいなかったからな」
レーニエは大真面目に説明した。
だが男は先ほどより混乱したようだった。貴族の領主ならば、そこまではしない。よくてせいぜい使いの者をよこすくらいで、自ら病気の老婆の見舞いをする領主など、あり得ない。
だが、先ほどの青年や子ども達とのやり取りで、この不思議な人物が領主であることには間違いがなさそうだ。
「ふん……マンレイ、薬だとよ。飲めるか? この酒で流し込めばいい」
ブリッツは、籠から薬と瓶を取り出し、マンレイに押しやった。
マンレイは二人の会話を聞いていたのか、ブリッツの助けを借りてよろよろと身を起こし、熱冷ましの粉薬の包みを開けて酒と共に嚥下する。顎を雫がつたい、浮き出た喉仏がごくりと動いた。
「酒と共に薬を飲むのは感心しないが……」
飲み終えてどさりと伏せてしまったマンレイを見て、レーニエはぼそりと呟いた。
「おい、マンレイ何か食うか? 食えたら食った方がいい。チーズもあるぞ」
その間に籠を漁っていたブリッツが剣先でチーズを差し出す。しかし、マンレイは顔を背けて食べようとはしなかった。
「ちっ、しょうがないな、俺だけ頂こう」
剣先をレーニエに戻しながらブリッツは貪るように、籠の中のパンやチーズを口に放り込んでゆく。どうやらかなり空腹だったらしい。おそらく今まで人目を避けて逃げ回っていたのだろう。
「馬を置いて行ってもらったからな。マンレイ、お前はそれに乗れ。食ったらすぐ出発するぞ。時間がない」
「え? ジャヌーをここに呼んでいたのではないか?」
意外な事にレーニエは驚いた。
「あんた、見かけによらずあほだな? 馬鹿正直にそんな事をしてみろ。いくらあんたを盾にしてみても、どこからか飛んできた矢が背中にドスンか、眼つぶしのトンガラシ粉を投げられるかして、俺たちゃおしまいだ。そんな馬鹿なことするかよ。あほ」
「あほ」
あほと言われたのは初めてなので、レーニエは目をぱちくりさせた。
しかし、彼らの言う通りだと思った。ファイザルならば、そのくらいは考えるだろう。
「奴らの出方を見るためにも、どっかへ移動しなきゃな。時間がない」
「さっきこいつが言ってた……ば、ばあさんの家はどうなんだ?」
マンレイが苦しそうな息の下で言い出す。レーニエはぎょっとなった。これ以上、村人に迷惑をかけるわけにはいかない。
「馬鹿を言え! そんなところなんぞ一番に標的にされちまう。ばばぁじゃ人質にもならねえし、四方から囲まれたら逃げ切れん」
ブリッツはマンレイが飲み残した酒を煽りながら言った。
「噂じゃ、ここいらを預かっているファイザルてな、数年前に南の戦場で血濡れとかいう異名をとった、情け容赦のない男だって言うぜ。どんな悪だくみを仕掛けてくるかわからねえ。民家はだめだ」
「……」
レーニエはアンナの家が乗っ取られずに済んでほっとしたのと、意外なところでファイザルが有名で、しかも評判が悪いことを知ったので、なかなか心中複雑だ。
しかし、そうだとすると、彼等はファイザルの敵だったという事になる。
「……そなたたちは、エルファラン国の者ではないのか?」
驚いてレーニエは尋ねてみると、意外にも返答があった。
「ああ。俺たちはどこの国にも属さねえ、今はな。昔は金のために傭兵だったこともあるが、今じゃ軍隊なんて、でぇ嫌いだ……お貴族様もな!」
「……」
「馬は手に入ったが、これからどこへ……山に入れば寒さで夜を越せねえだろうし……火を焚く訳にもいかねぇ」
ブリッツが難しい顔をして考え込む。どうやら土地勘がなく、どこに行ったらいいのか分からないらしい。マンレイの方は無理をして立ち上がろうとしていたが、高熱のためか、ひどくふらついている。
「私は行ったことがないが、この林の向こうに村の予備の氷室があるそうだ。久しく使われていないところらしいが、そこに一旦隠れたらどうだ?」
意外な提案がまた、レーニエの方からなされた。
ブリッツは目をぎらつかせて歯を剥く。
「ふん! そんで着いた途端、追手にとっ捕まるって筋書きかい? 今度こそ信じられねぇな、ご領主様」
ブリッツが喚く。
「場所は地図の上でしか知らない。それに、私たちがそんな場所に向かうと、どうして探索する者たちにわかるのだ?」
レーニエは辛抱強く説明した。
「家の者は、私がそんな所を認識していることすら知らないし、村人ならともかく、軍は予備の氷室があることを、おそらく把握していないだろう。新しい氷室は村の近くにあるので、予備の氷室など誰も近づかない。そこなら当分見つからないし、ひょっとしたら氷が残っているかもしれない。病人には打ってつけの隠れ場所だと思うが」
レーニエはとにかく喋った。自分は領主なのだから、ある程度は説得力があると思ったのだ。
「だが、なんであんたが俺たちに隠れ場所の提供をする? お前にしてみたら、ここでお迎えを待った方が得策だろう」
「私にとってはそうかもしれないが、そうはならないとさっき、そなたが言ったのではないか」
「……」
自分の言葉を返されて、ブリッツは黙りこむ。
「病人をなんとかした方がいいと思うのは、普通だろう?」
本当にそれが普通なのか?
ブリッツとマンレイが複雑な視線を絡め合ったが、土地勘のない彼らには、言い返すすべがない。
何より病人のマンレイを抱え、土地勘のないこのあたりをうろうろしていたら、それこそ一貫の終わりだ。
二時間とは言ったが、有能な指揮官ならもっと迅速に対応するだろう。ブリッツはそう考えて結論を出した。
「なんで、軍も知らないような場所をお前が知っている?」
「以前、村長に村の歴史を伺った時に、地図を見ながらその話を聞いた。昔夏に熱病が流行って、氷室に蓄えた氷が足りなくなり、この地方の子どもが大勢亡くなったそうだ。それから予備の氷室を用意することにしたらしい。もっとも、今まで使ったことはないそうで、予備の氷室があると知っているのは、村長と、氷室の役持ちの数軒の家の人々だけだそうだ。だから、私もどんな物なのかまでは知らない。場所もこの付近と言う事しか知らない。決めるのはそなたたちだ」
「ふん。よかろう……案内しろ。ただし、少しでもおかしなマネをしたら、遠慮なく後ろから一突きにさせてもらう。探すふりをして時間を稼ぐんじゃないぞ」
「地図で見た感じでは、この壁の跡に沿ってゆくと、セヴェレの山々に向って丘陵地帯になっていて、その先は森だ。その斜面に自然の小さな洞窟がいくつかある。その一つが予備の氷室と記されていた。この壁沿いに歩いていけばいいはずだ」
「……」
「行こう」
意外にもマンレイが口を出した。
「こうしていても捕まるだけだ……俺が足手まといになるなら置いていけ」
「そうはいかねぇ……よかろう、案内しろ。ご領主様よう」
レーニエは地面に投げ捨てられたマントを拾い、先頭に立って歩き出した。
後ろから剣と轡を持ったブリッツ、レーニエの馬のリアム号にはマンレイが乗って三人は移動を開始した。
領主の言ったとおり、古い城壁は崩れかけたり、あるところでは完全に撤去されたりはしていたが、それでも点々と続いており、無言の道案内をしてくれた。
緩やかな斜面を上って行くと、今度は傾斜の急な崖の手前につきあたり、セヴェレの森が始まっている。
そして男たちが喜んだ事には、予備の氷室があると言う洞窟のある付近は、丈の高い草が厚く茂っており、わかりにくい状況になっていることだった。
厳冬期に凍った泉の氷が運ばれた後、夏草が大いに繁茂してしまったのだ。氷室があると知って探さなければ絶対に見つからないだろう。
近くにもいくつか洞窟があったが、浅いものや狭いものも多い。その中で一番大きな洞窟をレーニエは指した。
「ここだと思う。この奥に氷室があるんじゃないのかな?」
レーニエも、まさかこんなにわかりにくい場所だとは思ってなかったので、胡乱そうに洞窟を覗きこみながら言った。
「氷室があってもなくても、これはうってつけの隠れ家だ。礼を言うぜ、ご領主様、先に入れ」
「……うん」
洞窟の入口は馬が入れるほど大きかったが、中は真っ暗で、レーニエはかなり気が進まなかった。しかし、自分が暗く狭い所が苦手な事を説明しても、おそらく聞いては貰えないだろう。
レーニエは仕方なく中に入った。
中は入り口と大きさが変わらず、地面も湿っているわけでもなかった。
十リベルも歩かぬうちに行き止まりになっていて、奥には古い木製の壁がはまっていた。中央に扉がつくってある。これが氷室の入口らしい。
ブリッツが顎をしゃくるので、扉に手を掛けてみると、鍵もかかっていないそれは、ギシギシいいながらあっけなく開いた。中から冷気が流れてくる。入口から差し込む光で次第に目が慣れてくる。
「どうやら本当だったらしいな、おお寒い。お前、中を見て来い。氷が残っていたら砕いて持って帰ってくるんだぞ」
「……」
レーニエは黙って中に入ってゆく。
ブリッツは、馬からマンレイをおろすと地面に寝かせた。
しばらくして、コンコンと言う音がしたかと思うと、領主が自分のマントに氷をのせて戻ってきた。その辺の石か何かで砕いたらしい。
「氷は奥にかなり残っていた。夏の間も溶けなかったらしいな。むしろが丁寧にかけてあって、一度も使われた形跡がない」
「ふん。そのマントごとよこせ」
レーニエが差し出したマントを、ブリッツはマンレイに掛け、オリイの籠から出したナプキンにくるんだ氷を額に乗せてやった。どう見てもブリッツの方がリーダーのようだが、よく世話をしている。この二人は普段は仲がいいのかもしれないとレーニエは考えた。
目が慣れてくると、さほど悪い環境ではないとレーニエは思った。
氷室にするくらいだから、あまり不潔ではいけないのだろう、天井は高く、乾燥していて、夏ならば涼しくていいに違いない。
上着のみになったレーニエには寒いが、さすがに緊張しているので気にならなかった。
しばらくしてブリッツは、外の様子を見てくると言って、ナイフをマンレイに持たせ、自分は剣を持って洞窟の入口に歩いて行った。
「具合はどうだ」
低い声でレーニエは問うてみると、意外にも返答があった。
「さっきよりだいぶいい。あんたの薬と氷が効いたらしい」
しゃがれた声でマンレイが応える。表のブリッツに聞こえないように抑えて喋っていることが、レーニエにも伝わった。
「そうか……よかったな」
レーニエがそう言っても、マンレイはそれきり黙っていたが、しばらくしてまた口を開く。
「あんた、変わり者だな」
「……たまに言われる」
「こんな事に巻き込まれて怖くないのか?」
「怖い」
あっさりとレーニエはみとめた。マンレイはその様子をじっと観察していたが、やがて更に声を落として聞いた。
「あんた……本当は女なんだろ? 何でそんななりをしている」
さっき身体検査をした時にわかってしまったらしい。しかし、彼はなぜか相棒にそのことを伝えなかった。
「別に……隠している訳じゃない。このほうが動きやすいからしているだけだ」
「喋り方までか? 相当変わっているな……ガキの命と引き換えに人質の身代わりになるわ、俺たちに隠れ場所まで提供するわ……あんた何者なんだ?」
「言ったろう。この地の領主だ。形だけだが……」
「俺の知っている貴族の領主はそんなことはしない」
「そうか? あいにく私は、私以外の領主を知らないので、他と比べようがない」
「……俺達は、ザカリエ自由国境地帯の小さな町に住む鉱夫だったんだ。雇われればどこにでも行って穴に潜って地面を掘っていた。それが戦禍の拡大で、鉱山はほとんど稼働しなくなって、仕方なく俺たちは傭兵としてザカリエに雇われた、最初はいい給料をもらっていたが、その内、正規兵でもない俺たちは一番危ない戦線に送られて、仲間は死ぬわ、扱いはひどいわ、金は貰えなくなるわで、ついに逃げ出したんだ」
ザカリエは平原諸国では新興国で、目下のエルファラン国の敵国だ。
一応王政だが、力のあった初代国王が身罷り、その後に続いた混乱で、いまだ国内情勢が安定していない。
最近では、成り上がりのドーミエ将軍が国の中枢に食い込み、かなり発言力を持っているらしい。色々な経緯で、軍の末端では規律や秩序等は、お寒い状態だったのだろう。
レーニエもよくは知らないが、事情は理解できた。
「エルファラン国内じゃ、逃亡民を排除するために都に向かう街道筋には厳しい検問がある。俺達は迂回に迂回を重ねてここまでやってきた。その内、金も底をつき、俺は戦で受けた傷が治りきらなくてこんな状態だ……ブリッツは大丈夫だと言うが、俺たちにはもう明日はない。巻き添えを食ったあんたにとっちゃ、いい迷惑だろうが」
「それで……この先どうするのだ?」
「わからない。あんたを連れて逃げられるところまで逃げるんだと思う。俺はもうブリッツに逆らえない」
「そうか……」
「恐ろしくはないのか? 殺されるかもしれないんだぞ」
「もちろん恐ろしい。できれば殺されたくない。そんな事になったら……」
あの人が困るかもしれない。
ファイザルのレーニエに対する個人的な思惑はともかく、彼はこの地方の治安の責任者だ。
名ばかりとはいえ、都からきた領主が殺されたとあっては、彼に類が及ぶかもしれない。いや、絶対にそうなるだろう。自分が勝手にしでかしたことで、彼がそんな事になるのはどうしても嫌だった。
レーニエは今ごろ大騒ぎになっているだろう、残してきた者たちの事を思い、暗澹たる気分になった。
ヨシュア……あなたは今どうしている?
五百文字くらい削りましたが、まだ長すぎますよね。
すみません。
エックスにレーニエちゃんのイメージがあります。
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