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【完結・改稿】ノヴァゼムーリャの領主  作者: 文野さと
第一部 ノヴァの地の新領主
47/154

47 領主の選択 9

 ガタン!

 ものすごい勢いで椅子が揺れた。

 男は腰を宙に浮かせたまま、動けないでいる。

 冷静沈着なセヴェレ砦の指揮官は、その知らせを聞いた瞬間、息をすることも忘れていた。

 ジャヌーを睨みつける青い瞳が、これ以上ないぐらい見開かれている。

「なん、だと……!?」

 やっと声を絞り出したものの、声が続かない。

 握りしめた拳がギリギリと震えている。そのかおは驚愕の瞬間が過ぎると、ジャヌーが目を背けたくなるほど憤怒の形相に転じていた。

 これほど苛烈な感情をむき出しにしたファイザルを見るのは初めてだった。そして二度と見たくないと思った。

 正視できないほど凄まじい激昂だ。

 もし視線だけで人が殺せるものなら、彼はこの瞬間に死んでいただろう。そのくらいの激しい目つきだった。

「レー……人質?」

「申し訳ありませぬ! 俺がそばにいながらっ」

 嵐のような怒号を覚悟し、青年は額が膝にぶつかりそうなほど頭を下げる。しかし意外にも、ファイザルの怒声は降ってこなかった。

「……し、指揮官殿?」

 恐る恐るジャヌーは顔を上げた。

「二時間後だと言ったな」

 地を這うような声が漏れる。

「は……」

「敵は二人……」

 再びぞっとするような声が、耳朶を打った。

 この声を聞いただけで、気の弱いものなら震え上がることだろう。この男の敵にだけはなりたくないと、ジャヌーは痛切に思った。

「……」

「お前の話から逆算して、もうかれこれ一時間たつ。余裕はない、ジャヌー」

「は……はぁっ!」

 最深礼のままジャヌーは返事をした。

 視界にファイザルの軍靴が入ったかと思うと、ぐいと襟を掴まれ、勢いよく身を引きずり起こされる。ジャヌーの雄渾(ゆうこん)な体格を考えると、すごい力だった。

「し、指揮官殿……」

「奴らはお前一人で来いと言ったのだ。レーニエ様を人質に取られている以上、こちらは従うしかない、いいな。ルカス! レナン!」

「はっ!」

 隅に控えていたルカスとレナンが、きびきびとファイザルの前にやってくる。

 彼らも緊張の色が濃いが、ジャヌーより年嵩なだけあって、静かに上官の命令を待った。

「ルカス、男たちの要求の物を十分以内に準備しろ。そして領主館には遣いを。至急だ。イーリエは腕の立つ射手を集めろ。受け渡し場所が見える場所を探して潜ませる」

「はっ!」

 ルカス達は直ちに踵を返し、命令を実行しに部屋を出て行く。

「子どもを捜索していた人数は、すべて村の周囲の包囲にまわせ。イーリエの隊にも応援させよ。街道からも、荒野からも犬の子一匹逃がさぬ包囲網を敷く。ジャヌー、伝令!」

「はっ!」

 彼は突き飛ばすようにジャヌーに命じた。

「俺もすぐに行く」

「はああっ!」

 転がるようにジャヌーは部屋を出て行く。

 束の間、ファイザルは室内に一人になった。

 ゆっくり窓の方を振り返るが、呆然と宙を見る瞳は最早、なにも映していない。

 いや、彼は、彼の愛する娘を見ていた。

 目の前には長い髪を流し、睫毛を伏せて立つ少女の姿があった。その背後から襲いかかる黒い影。振り返る間もなく、小さな姿は呑み込まれてしまう。仰け反る白い首、空をつかむ細い指、そして血が――

 ダン!

 ファイザルは砕けそうなほど強く、両手を執務机の天板に打ち下ろした。

「あああああっ!」

 書類が飛び散り、机に伏せた頭の両側で握りしめられた拳が震える。

 だめだ!

 絶望に飲み込まれるな。それは思考の停滞を意味する。考えろ! まだ、手だてはある。

 しかし、この瞬間、どれほど自分を戒めてみても、ファイザルの思いは、銀髪の娘の身の上に行きついてしまう。

 あの美貌を前にして、ならず者たちが触れずにおくなど、ありえない。

 花のような顔が恐怖と苦痛にゆがみ、白い肌が無頼の男の汚れた手に蹂躙(じゅうりん)される様が、頭の中にまざまざと浮かんだ。

 突然。

 恐ろしい勢いで胃液がせり上がってきた。激しい嘔吐感が込み上げ、両手で口を押さえる。

「ぐ……!」

 吐くな!

 ギリギリと歯を食いしばって、ファイザルは猛烈な吐き気に耐えた。

 この怒りを、苦悩を、吐き出してしまう訳にはいかなかった。吐けば少しでも楽になる。そんなことは絶対に許さない!

 あの娘は、自ら子どもたちの代わりに人質になったのだ!

 嫌な汗がどっと吹き出し、顎を伝って書類に落ちた。

 落ち着け……考えろ。俺が彼らならどうする?

 口腔に上がった苦いものを飲みくだし、ゆっくりと深く呼吸をする。しばらくそうしていると、頭に上っていた血がゆっくりと下がって行くのがわかった。

 肩で大きく息をつきながら、どさりと椅子に倒れ込み、ファイザルは顔の前で手を組んだ。彼が熟考する時のいつもの癖だった。

 張り巡らせた警備の目をくぐり抜けて、侵入してきた者達。領民を愛する領主の外出を敢えて止めなかった事実。両方とも責は自分にある。しかし、今そんな事を悔やんでいる暇はなかった。

 二時間とは、土地勘のない奴らにしてみれば、妙に正鵠せいこくを射た時間だ。多分、偶然だろうが、ジャヌーに交渉の時間と場所を指定した時点で、彼等はいかに交渉を有利に進めるか考えるだろう。

 軍服を着ていなかったジャヌーを、職業軍人と見破ったからには、彼らも元は軍人だ。おそらく脱走兵なのだろう。

 ならば、俺たちが交渉地点を遠まきに包囲し、交渉が済んだ時点で襲いかかることぐらい想像がつくはずだ。例え人質の喉笛に剣を向けていても、彼等は自分たちが有利とは思わないだろう。

 交渉相手がジャヌーだけでも、側面や背後から強弓こわゆみで狙撃されたら、あっという間に形勢逆転だからだ。

 彼らが言った通り、交渉地点に現れる確率はむしろ低い。地形を見てみないことには何とも言えないが、見えないところから、こちらの動きを伺っていると思った方がいい。

 しかし、例えそうだとしても、騙されにでも出向いてやらねばならないだろう。こちらが動かねば、彼らの動向もつかめない。

 それに……

 たとえうまくはかりごとを巡らせて交渉が進んだとしても、物だけ奪われて人質は解放などされない。最後まで隠されて連れ去られ、遠くまで逃げた時点でおそらく殺される。顔を見られているから。

 鳩尾みぞおちを気味の悪い汗が流れてゆく。

 だが、ジャヌーの話を聞く限り、奴らは正規の軍人と言う訳でもなさそうだ。計略に置いては素人に近いのだろう。

 先ずは正攻法と見せかける。そして……

「イーリエ、いるか?」

「ここに」

 直に控えの者がやってくる。

「至急、ナタナエルをここに」

「は」


 半刻後。

 激しく馬を叱咤しながら街道を駆け抜けるファイザルの心中は、横にくつわを並べるジャヌーにはわからなかった。

 ついさっきの激昂は跡形もなく消え失せ、表情を消し去った瞳は、ひたすらに前を見据えている。しかし、その顔に時折よぎる昏い影は、彼の敵にとっては不吉な兆候に違いなかった。

 レーニエ様、ご無事で!

 ジャヌーもそう祈って馬に鞭をあてた。

 そして、指定された場所、時刻。

 予想通り、指定した時刻に彼等は現れなかった。ジャヌーはしばらく呆然としていたが、やがて我に返り、予め指示されたとおり、石塀の残骸の周囲をくまなく探した。

 男たちが何か落としていないか、あるいはレーニエが彼らに見つからぬように手掛かりを残してはいないか、ジャヌーは這いつくばって方々探したが、これと言ったものは何も見つからなかった。

「そうか」

 悄然と落ち合う地点に戻ったジャヌーを見ても、ファイザルは眉一つ動かさなかった。

「指揮官殿……」

「ルカス、射手を撤退させよ。目立たぬようにな」

「は!」

「ジャヌーは念のため、今しばらくは交渉地点で待機せよ。万が一と言う事がある」

「はい……しかし……」

「俺は一旦引く。ここらで一番近い民家はどこだ?」

「それならアンナ婆さんの家が。ただし、今は体調がすぐれぬそうですが」

「そうか、申し訳ないが、そこがとりあえずの本部となるな。イーリエ、お前は荷車を借りてその婆さんをお館に運んでくれ。親戚の者が迎えに来たような風をよそおってな。」

「は」

「お屋敷では言ったとおりに振る舞えよ」

「心得ております」

 イーリエがすべて了解した風に頷いて立ち去った。

「指揮官殿!」

 ジャヌーが堪りかねたように声を上げた。

「なんだ」

「指揮官殿は……指揮官殿はこのくらいで、撤退されるのですか? 人員を総動員して山狩りをすれば……」

「そしてレーニエ様を危ない目にあわせるのか? ありえんな」

「しかしこのままでは……」

「奴らが交渉地点に現れないことは想定内だった。ならば次の手を打つまでだ。既に布石は打ってある」

「……」

「奴らの片方は様子がおかしかったと言っていたな」

「はい。マンレイと呼ばれた男は、青白い顔をして滝のように汗をかいていました」

「詳しく様子を話せ」

 ジャヌーは思い出せる限り、男たちの様子を説明した。

「うん……もう一人のほうに脅されていたか、あるいは病気か怪我か……我々が思った以上に動けない理由があるかもしれんな。ともかく、彼等にも余裕がないという事はわかった。後一日ぐらいが勝負かもしれん」

 イーリエがうまく働いたので、アンナ婆さんの古ぼけた小さい家は、あっという間に軍の臨時本部となった。

「皆、用意はできているな?」

 ファイザルはジャヌーと、ルカスに念を押した。既に顔を知られているジャヌーは軍服のままだが、ルカスは農民の姿に身をやつしていた。彼のヒゲ面にその格好は、よく似合う。

「は、ぬかりはありません。総勢百人で、村内、街道周辺、荒野、森林などに散開しています。奴らは既に軍が動くと知っているでしょうが、一応軍服は着ずに、村人の姿に身をやつさせております。見慣れないものがいたら、まず逃すことはありませぬ」

 可能性は薄いが、追い詰められた彼らが接触を図るとすれば、間違いなく村人に対してだろう。

 ルカスはそのことを思って、なるべく小柄な体格の兵士に老人じみたなりをさせ、弱々しい素振りで畑や街道脇で作業するように命じていた。

 幸い農繁期で、他の村の農民や街道筋を渡り歩く商人達が、一年で一番出入りする季節なので、兵士たちもあまり目立たずに活動できる。

 逆を言えば、そんな季節だからこそ、街道を迂回し監視の目をかいくぐって賊も侵入できたのだ。

「探索は各々で行わず、二三人で動き、報告は何もなくとも半時毎に行え」

「はい。情報系統は確認してあります。自由に動き回るのは俺とソランの二人だけで。しかし……」

「なんだ」

「夜になったらどうしますか?」

 ルカスの疑問ももっともで、こんな田舎では日没とともに、すべての屋外での活動はおしまいになる。増してや収穫期は朝が早い。疲れた体を引きずるように皆、薄暮には早々に引き揚げるのだ。

 そんなところに、いつまでも農夫や商人がうろうろしていては、かえって怪しまれてしまう。

「それはすでに手を打ってある。既にナタナエルの部隊が動き始めているだろう。お前たちは薄暮をめどに怪しまれぬよう、手近の家に引き上げさせてもらえ。

 村人達にも、もうそろそろ事情は知れている頃だろう。領主様が子ども達の身代わりに人質になってるんだ、皆進んで協力するさ」

「は。もし村人たちが、我々の探索に協力したいと申し出てくればどうしますか?」

「必要な情報は聞き出せ。もしかしたら俺たちの知らない隠れ場所があるかもしれん。子ども達の言い分にも注意しろ。が、よほどのことがない限り、実際の探索には加わらせるな。これ以上人質が増えてはかなわん。一人でも十分すぎるくらいだ」

「承知しました!」

「よし、では行け! 俺はもうしばらくはここにいる」

「はっ!」

 緊張した顔つきで敬礼したルカスだが、おんぼろの扉をガタピシ開けた瞬間、人のいい農夫の顔つきになった。いかにも呑気そうな足取りで小道を歩いてゆくのが見える。

 窓からその様子を見送りながらジャヌーは唇を噛みしめた。

「指揮官殿! 俺の役目は……俺にはもう何もすることがないのでしょうか?」

「あるさ」

 物憂ものうそうにファイザルは若い従卒を見た。

「本当ですか!? それはどのような?」

 意気込んでジャヌーは身を乗り出す。

「お前は大切なご主人様を奪われ、上司に責められまくってすっかり意気消沈した、下っ端兵士の役でそこいらをうろつけばいい」

「はぁ……それはしかし、本当のことではありませんか……いったい」

「だからそれがお前の役目だ。もし奴らがお前の様子を観察していたら、もしかしたら一人でうろついているお前に接触を図るかもしれん。可能性としてはかなり低いが」

「……」

「不服か?」

「は、いえ。では行ってきます」

「せいぜい自殺しそうに見えるほど、しょんぼりして見せろよ」

 こんなときだが、背の高い指揮官が、アンナ婆さんの古い小さな椅子に腰かけている様はかなり滑稽だとジャヌーは思った。

 ファイザルはアンナ婆さんの居間に一人残された。

 レーニエ様が拉致されて既に三時間。彼らの手に渡った食料はせいぜい一昼夜分。その間が勝負だ

 一人になると心をむしばむ絶望が這い上って来る。

 ファイザルは血が滲むほどきつく唇を噛みしめた。剣を取り、レーニエの痕跡を闇雲に探しに行く衝動を必死で堪えている。

 必ず……必ず、お助け申し上げる。俺のレナ!

 古ぼけた扉を睨みつけたまま、ファイザルは瞳だけを異様に光らせていた。




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