42 領主の選択 4
ノヴァゼムーリャの荒野は、色褪せた緑から次第に黄色、金色、朱色、紅色にと、その色合いを変えてゆく。
「美しいな」
レーニエは馬の首を叩き、労を労いながらジャヌーを振り返った。
「左様でございましょう。今日は足を延ばしても、ここにお連れしてよかった」
「そうだな……ありがとう」
レーニエは淡く微笑んだ。
フェルディナンドが行ってからしばらくの間、レーニエは好きだった村歩きや、遠出を殆どしなくなり、屋敷で読書三昧の日々を送っていた。
一日ぼんやり露台から街道を眺めていることも多く、心配したサリアがジャヌーに相談し、ジャヌーが収穫期の村の様子を視察してはどうか、とレーニエに提案し、今日の遠乗りが実現したのだ。
皆の気遣いがわかっていたレーニエは、おとなしく従った。
促されて腰を上げたとは言え、外に出てみればやはり気分は変わる。
一年で一番、人々が忙しく立ち働くこの時期は、レーニエにとって興味深い物がたくさんあるのだ。
畑や果樹園で、大人も子ども一家総出で畑に出、穀物や野菜、果物などを収穫してゆく様子を眺める。
レーニエは春から夏中、畑や果樹園にフェルディナンドとよく出かけていたから、今まで書物での知識しかなかった農作物が、実際に大きくなるところを把握していた。そして今、それらは熟れて食べごろになっている。
夏の恵みを人々が手にする時が来たのだ。
春の耕作に始まり、種蒔き、草むしり、選別などの手間を掛けられ、大切に育てられた人々の宝。鎌で刈り、鋏で切っり、鍬で掘り返し、引き抜いてやっと手に入れるもの。幾通りもの尊い労働の結果であった。
それらを見ながら、レーニエは久々に気分が晴れるのを感じていた。
老人から幼い子供まで、限られた時間を無駄にしないように働いている。忙しく動き回る人々を見ていると、自分のもの思いが、まるで取るに足らないように思えたのだ。
「すごい……すごいね」
村歩きを再開してからレーニエは、笑顔を取り戻し、作業をしている大人達の邪魔にならないよう、幼い子ども達の相手をした。
ジャヌーが面白かったのは、毎回手ぶらで出かけるレーニエが屋敷に戻る頃には、村人から貰った野菜や果物で、大荷物になっていることだった。
領主は荷物など持てないから、ジャヌーの荷袋がいっぱいになるのだったが、レーニエは素朴な人達から、ささやかな好意を示されることを非常に喜んだ。
ある日、二人が館へ戻ろうと馬を並べてぽくぽく進んでいると、見計らったようにナヴァルがひょっこり森から現れたことだった。
この若者はかつて、初めてこの地にやってきたレーニエに、ナイフを投げつけた短気者だ。
あれから、レーニエの人となりを知るにつけて、自分の行いを後悔していたのだが、なかなか素直になれず、夏中悶々としていたらしい。レーニエ自身はすっかり忘れていたが、ナヴァルはようやくこの日、領主に謝罪しようとやって来たのだ。
「ん? 君はナヴァル? やぁこんにちは」
領主は無邪気に首を傾げた。
その様子をまったく正視できないで、ナヴァルは真っ赤になっている。
限られた領主村の中だから、今までもたまに顔を合わせることはあったが、彼はいつも明後日の方を向いていた。なので、レーニエは自分が嫌われていると思っていた。だが、レーニエと行動を共にすることが多いジャヌーだけは、彼が領主を酷く意識していることを知っていた。
こいつ今頃……どういう風の吹きまわしなんだか。
「こ、こんにちは」
ナヴァルはもじもじと喋り出した。
「そのう……ずっと俺、あん時はって思っていて、だいぶ前だけど……あんた……いや、ご領主様の事をぜんぜん知らなくて……そのぅ、今更っていうか、いい訳なんだけど……すっかり遅くなってしまって……え~、あの時は乱暴してすみませんでした!」
レーニエとさして年が違わないナヴァルは、ぶつぶつ何かを呟いていたが、最後の言葉だけは、はっきり聞こえた。赤くなりながら深々と頭を下げている。短く刈った砂色のつむじがよく見えた。
「顔をあげなさい。ナヴァル」
馬を下りると、レーニエは若者に手を掛けて優しく言った。
「……」
ナヴァルは頭を下げたまま、足元に置いてあった籠を取り上げてレーニエに差し出す。掛けてあった布を取ると、そこには色とりどりの果物が入っていた。
「んん? これはそなたが作った果物なの? くれるの?」
レーニエは、自身も少なからず照れながら籠を受け取ろうとするが、そんな重い物を持たせるわけにいかないジャヌーがさっと取り上げる。
「そ、そうだ……そうです」
帽子を外したレーニエの顔を、やはりまともに見れずに、ますます顔を赤らめながらナヴァルは頷いた。どこを見ていいかよく分からないらしい。
ナヴァルと同じ男として、ジャヌーはその気持ちはよくわかる。
彼はこの春、露台のレーニエを見かけて樹から墜落したことを棚に上げて、必死で笑いをかみ殺していた。気がついたナヴァルが睨みつけてくるので、ジャヌーは同情をこめて頷いてやった。無論レーニエは、男二人の無言の攻防など知る由もない。
「どの果物も大きくて、色が濃くておいしそうだ。私は林檎が好物なのだが、食べるばかりで。自分でもこのようなものが作れたらいいとは思うけど、何事も不器用で役立たずで……よく働く皆に申し訳ない」
「はい?」
意外な感想に目を丸くしているナヴァルの前で、レーニエは小さな果物の一つをつまんで口に放り込んだ。
「……甘い。オリイにこれでお菓子を焼いてもらおう。どうもありがとう」
「いやその……ご領主様が果物を作るなんてしなくていいよ。これからは俺が作った果物や野菜をお屋敷に届けるから」
村長のキダムが聞いたら胆をつぶしそうな事を言ってのけるナヴァルに、レーニエはもう一度丁寧に礼を延べ、いつでも屋敷に立ち寄るようにと付け加えた。
手を振るナヴァルと別れて森の端をゆく。
ジャヌーが見るところ、レーニエは既にこの地の人々に受け入れられている。
地方の領主や代官によくあるように、税の上乗せをしたり、国に収められる献上品の上前をはねたりせず、質素に大人しく暮らしている。
そもそも税金を取ろうとしていないのだ。ばかりか、少しでもこの地を豊かにしようと、ありふれたリルアの花を使って香水や入浴薬を作ろうと、都の商人に相談したりしている変わり者でもあった。
「そう言えば、リルアの花の商業利用の件、どうなったのですか?」
「うん、今のところは何とも。しかし、先冬、私が作った乾燥させた花を都の商人に見せたら、これなら入浴剤だけでなく、染料や香水としても使えるかもしれないという事で、この春は子ども達に頼んで、屋敷の裏にたくさん種を蒔いてもらったんだ。この冬には技術者に来てもらって見てもらう事になっているし、私もたくさん収穫しなくっちゃ」
「そうですか。それじゃうまくいけばいいですね。この地は冬になったらあの花だらけですから……あまりにありふれていて誰も貴重に思わなかったくらいで」
「まぁ、失敗してもだれも損はしないからね……」
レーニエはそう言って笑った。