39 領主の選択 1
その人は、豪華だが、寒々しい部屋に一人で立っていた。
フェルディナンド・ジィン・シュヴリーズは、六歳になったばかりだった。
広大な王宮、今まで住んでいた上級召使達が暮らす棟から、急に住まいを変わることになったと聞いて、幼いフェルディナンドは不安でならなかった。
荷物をまとめる両親は忙しそうで、あまり話をしてくれなかったし、七つも年の離れた姉は、同じ召使仲間の子ども達と別れをするのに忙しく、弟のことまで手が回らない様子だ。
フェルディナンドと同じ年頃の男の子は、ここにはいない。
だから彼は、誰の邪魔にもならないよう、部屋の隅でじっとしていた。自分の事を構ってほしいと言うには、彼はあまりに大人びていた。
フェルディナンドが物心ついた時は、母のオリイは、家族の住居と与えられた部屋に帰ってこないことが多かったし、自分の事は自分でするように躾けられていた。
母は時折、難しい顔をする時があったが、そのことについては一切口にしてはならないと父親からは厳しく言われていたので、彼はどこの家もそんなものだろうと思っていた。
しかし、今度は急に一家総出で、母親が働く王宮の、更に奥で暮らすことになったと言う。
幼いフェルディナンドには、それがどういう意味か、まったくわからなかった。ただ、今回も何も聞いてはならないことは何となく感じていた。
父親のセバストは元は兵士であったが、今は退役し、王宮で雑務を多くこなしている。彼は息子に「心配することはない。ただの引っ越しさ」と笑いかけたが、敏感なフェルディナンドの心は、そんな事では収まらなかった。
それはたぶん父親も、わかっていたのだろうと思う。
新たに住むことになった所は、今まで住んでいた住居がまったく見えないほど奥にあった。
それは、手入れも行き届かない広大な庭……と言うより、森の奥に一つだけぽつんと独立した小さな屋敷。美しいが古めかしい建物で、周りには何の施設もない。それが、少年の心を更に暗くした。
ここで何が待っていると言うのだろう。
屋敷はさほど大きくはなかったが、一階部分のすべてをフェルディナンドの一家が使ってよいことになっていた。
それまで暮らしていた召使部屋とは大違いだったが、それを知っても彼はちっとも嬉しくなかった。
ここはあまりに寂しい場所で、一家の他の人は、誰も見かけない。
まるで魔法使いの隠れ家みたいだ。
初めてこの屋敷を見た時に感じた印象は、このようなものであった。
「さぁ、フェル。これからお仕えすることになる御方様にご挨拶するよ。ついておいで」
自分にあてがわれた部屋に、僅かばかりの荷物を置くが早いか、母親が後ろから声をかけた。
母のオリイはこのところ珍しく家族と過ごしている。この事も宿替えと関係があるのかもしれない。
最初の荷物と一緒に弟より早くこの家に来ていた姉のサリアは、既に挨拶を済ませたらしく、意味深げにフェルディナンドを見つめている。
姉の奇妙な表情を見るにつけても、説明のできない不安に苛まれたが、フェルディナンドは文句を言わずに母親に従った。
御方様?
お仕えすると言っても、それまで主人と言うものを持ったことのない少年にとって、それがいったいどういう意味を持つのだろうか?
フェルディナンドはよくわからなかったが、心が緊張する事だけは強く意識していた。
母親について、奥にある薄暗い階段を上る。
この上に『御方様』がいると言う。
どんな人なのだろう? 男か、女か? 老人か、若いのか? どちらにせよ、こんなぽつりと建つ屋敷に住まなくてはいけない人なのだから、何か訳があるのに違いない。
控え目なノックの後、オリイは静かに扉を開けた。
「レーニエ様、息子がご挨拶に伺いました」
母が振り向いて、フェルディナンドに前に来るように促す。フェルは大きく膨らんだスカートの陰に隠れていた。
レーニエさま? 誰?
「レーニエ様、これが私の息子のフェルディナンドです。フェルとお呼びくださいませ」
「フェル?」
細い声が少年の耳に届いた。その高い声に驚く。新しいご主人様とは子どもなのか?
母親の影でフェルディナンドがぐずぐずしていると、やや強引にオリイが引っ張りだし、無理に部屋の中の人物と対面させた。
そこは重々しい調度に囲まれた広い部屋で、帳が閉めてあるため、昼だと言うのに明るくはない。その中に小さな暗い色の人影があった。
「あ」
フェルディナンドが見たのは、自分よりも年上の、しかしか細い子どもの姿だった。
母親のようなスカートではないが、床にとどくゆったりした黒い服を着て、一人で立っている。薄暗い室内を背景に、見たことがないような淡い色の髪が腰のあたりまで揺れていた。
顔は奇妙な仮面に半ば覆われていて、よくわからなかったが、丸くくり抜かれた目の部分からは、大きな赤い瞳が物珍しそうにフェルディいた。他に誰かがいる様子はなかった。
「フェルというの? オリイ」
こんな子どもが、自分の母を平気で呼び捨てにしている。
フェルディナンドはそのことにも驚いたが、母親が優しい目をして頷いたのも大変に面喰らった。自分たち姉弟には厳しい母親だったからだ。
「左様でございます。六歳になります」
「こんなに小さい人間は、初めて見た……」
その言葉を聞いて、フェルディナンドはむっとした。
この子どもだって、自分とそんなに背丈が変わらない方じゃないか? これでも自分は同じ歳ごろの子どもより大きいのだ。
いきなりそれまで感じていた不安が吹っ飛ぶ。もともと気は強い方だ。
「なんだい、自分だって子どもじゃないか」
「フェルディナンド!」
母親の厳しい声が飛んだ。
これは本気で怒るときの声だ。ぶたれるかも知れないとフェルディナンドは体を固くした。
「私は子どもなの? 一二歳なんだけど……お前は男の子?」
別段気を悪くした風でもない声に、フェルは再び不思議な子どもと向き合う。そう言えば、この子どもは男の子なんだろうか? 裾の長い服は見慣れないものだが、女の子の服のような色ではない。おまけに変な黒い布が顔の半分を覆っている。
フェルディナンドにはこの子が男女、一体どっちなのか分からなかった。
「そっ、そうだよ。あんたは?」
「……男の子。同じだねぇ」
その言葉にどういう訳か、母親がはっと顔を上げた。しかし、目の前の子どもの顔に浮かぶ表情を見て開けかけた口を閉じる。
その様子を見てフェルディナンドは、今度は叱られないのだとわかった。
母親は様子を見るように、一歩下がって子ども達を見つめている。その表情はフェルディナンドが初めて見る奇妙なものだった。
母親が何も言わないので、一歩踏み出して見る。不思議な子どもは、かくんと首を傾げた。さっきから気になっていたことを聞いてみる。
「ふぅん。だけど、なんでそんなへんてこなもの被っているの?」
「フェル」
流石にオリイが気の強い息子を嗜めようとすると、細い声がそれを遮った。
「へんてこ? それはどういう意味?」
「どういう意味って……変だってことだよ。知らないの?」
そんな言葉を聞き返されたことのないフェルディナンドは、面食らって目の前の子どもを見た。
「知らない。変なの? これ」
「変だよ。取れないの? 前が見にくいだろう?」
「取れるけど……」
「じゃあ取ってよ。あんたがお方様なんだろう? だから俺がお仕えすることになるんだろ? 顔を知らないと困るじゃないか」
「……取った方が『へんてこ』だったら嫌じゃない?」
不思議な子どもは、フェルディナンドの言葉をマネながらも心配そうに聞いた。
「そんなの取ってみないとわからないじゃないか」
「そうか……」
子どもは手を頭の後ろにやって何かしている。きっと紐をほどいているんだな、とフェルディナンドは思った。黒い布が緩んで顔から剥がれ落ちた。
「これでいい?」
不安そうな声。しかし、フェルディナンドは答えられなかった。
前に王宮の大きな廊下を通らせてもらった時、壁に掲げられた大きな絵画を見たことがある。美しい天の使いの子どもの絵。
目の前の子どもは、その時に見た一番きれいな天使にそっくりだったから。