38 領主の恋 14
「失礼します。ご一緒してもよろしいですか」
「ああ」
ジャヌーが若々しい裸身を晒して湯殿に入ってくるのに一瞥をくれ、ファイザルは遠くの山並みに目をやる。
陽は中天をかなり過ぎていたが、黄昏にはまだ暫く間があるだろう。
「指揮官殿と風呂を一緒にするのは、初めてなような気がします」
「男同士で風呂に入ってもつまらんだろう」
仕方がなさそうにファイザルは、若い従卒に苦笑を向けた。
「すごい体ですね……こんなにたくさん名誉の負傷が」
鍛え抜かれた筋肉の上を、縦横に走る無数の刀傷に感心したようにジャヌーは言った。
上背のおかげで、服を着ると割合細身に見える彼の体は、裸になっても、余分な肉はかけらもついてはいない。
南部出身の人間らしく、やや浅黒い肌。逞しい首筋に鉄色の髪が張り付いている様子は、男の目から見ても目を引く色気がある。
この人は、今までどんな戦場をくぐり抜けてきたのだろう……。
しなやかな動作でジャヌーは湯に中に滑り込んだ。
彼自身も、大抵の男が羨ましがるような筋肉が、滑らかな肌にみっしりとついている。
「ただの醜い傷跡だ。名誉などないさ」
「そうでしょうか? 勇敢であったことの証しで」
「違う!」
ファイザルは鋭くジャヌーを遮った。
「ただの古傷だ」
吐き捨てるように言う上官をジャヌーは、複雑な表情で見つめた。彼は相変わらずこちらを見ようとしない。
「レーニエ様はどうしておられる」
「御領主様は、指揮官殿の前にお湯を使われて、今は部屋で休んでおられます」
「……そうか」
何があったのか聞きたいのは山々だが、聞いてはいけない事もジャヌーはわかっている。少し考えて全く別の事をジャヌーは口にした。
「指揮官殿は、レーニエ様のご身分をご存じなんですよね」
何故そんな事を? と言うように、ファイザルがジャヌーを振り返った。
「あ……いえ、教えてほしいという訳ではないのです。ただ、指揮官殿はご存じなのかなと思っただけで……」
水面を波打たせてジャヌーは、伸ばした腕を振った。
「……ああ。この間伺ったな」
「え!? 本当ですか? あ、いやその……それで指揮官殿は、どう思われたのです?」
「別に何も。今までどおりだ」
「はぁ」
「ジャヌー」
ファイザルは若い従卒を見据えた。
「は」
「あの方に惚れるんじゃないぞ」
「は? いっ、いやまさか……俺などには、とてもそんな勇気は……」
「ふ……冗談だ。お前、もう出ろよ。長湯は苦手だろう。顔が真っ赤だぞ」
ファイザルは唐突に言った。
「は、はい! でもえっと、指揮官殿は……?」
「俺はもう少しここで疲れを落とす。出たらそうだな、冷たくした酒を頼めるか」
「はい。ご用意しておきます」
そう言うと、ジャヌーは勢いよく湯から上がった。
くしゃくしゃの金髪。引きしまった腰と長い手足。若さにあふれたその姿を目で追いながら、ファイザルは両腕を伸ばして岩にもたれかかる。
あれでよかったのだ。
誘惑はあまりに甘美だった。もう少し若ければ、あの可憐な花を欲望のままに手折っていたかもしれない。
そう。あの時、自分は紛れもなく欲情していた。縋りつくようなあの瞳に応えることは、どんなに容易いことであったか。
白い首筋は溶けるように柔らかで、少し吸えばすぐに痕になっただろう。ついこの間まで少年でも通ったほど、か細かった体は、いつしか匂いたつような娘らしい曲線に縁取られて……。
甘い唇から身をもぎ取るように引き離し、僅かしか隠れていない肌がこれ以上目に触れないように、マントにくるんで馬に乗せた。レーニエも大人しく従った。
元々素直で、罪を恐れる彼女の気質を利用し、なんとか納得させたが、その実自分に対する防衛線だった。
レーニエが言うように罪の子かどうかはわからない。分かるのは紛れもなく彼女が現国王が唯一の子供だという事。
それに引き替え、自分は親の顔すら知らない野良犬だ。
許されるわけがない……いくら愛していても。
愛?
愛だと!?
「くそっ! 馬鹿なことを!」
俺は何と言う事をしてしまったのだ。あの娘に自分の想いを伝えるなどと。
激しい水音を立てて、彼は両手で顔を覆った。
「レナ……」
飴玉を舌の上で転がすように呟く。
彼が与えた娘の名を。
「ん……」
いつの間にか眠っていたらしい。
レーニエは薄いシーツをめくって窓の方を見た。
掛け布のおかげでよくは分からないが、日は既に少し翳っているようだった。
名を呼ばれたような気がした……あの人がくれた私の名を……。
急いで頭を巡らす。
しかし、寝台の周りにも部屋の中にも人影はなく、もしやと思っていた心は急速に萎えていく。視界がぼやけた。
レーニエは真珠のような歯を食いしばり、崩れそうになる心を立て直そうとした。関節が白くなるほど敷布を握りしめる。細い肩が震えた。
いけない。もう誰にもこれ以上無様な姿は見せられない。
今だけ、今だけだ……
唇だけで笑って見る。きつく瞼を閉じると、押し止めることの出来なかった涙が一粒頬に溢れた。レーニエは指先でそれを拭い、そっと寝台を下りると窓辺に向かう。
シャッ
小気味いい音とともに、厚い窓掛けが脇に寄せられ、部屋はまだかなり明るい薄暮の光で満たされた。背の高い硝子窓を開けると、清々しい山の空気がどっと入り込み、肺を満たす。
露台からは彼女の領地、ノヴァゼムーリャが一望のもとに見下ろせた。優しい風が涙を乾かし、髪を梳った。
あの人は忘れろと言った。
そんな事が出来るはずがない。何一つ忘れたくはない。
けど無様に卑屈になりもすまい。あの人に私を見てもらうためにも、ふさわしい自分でなければ――
私はここで生きてゆくのだ。都を出る時に全ての桎梏は捨てたはず。そしてヨシュア、あなたから名を貰った。
大丈夫、きっとできる。
私は、この地で――
ノヴァゼムーリャの領主は初夏の風の中にいつまでも佇んでいた。
この章終わり。
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