31 領主の恋 7
ファイザルのいわく「療養所」は、セヴェレの砦からほんの一刻ほど、馬で登ったところにあった。
領主館や、砦の規模から考えると、それは規模の小さなの山城で、二十人くらいが生活できるくらいのものだ。しかし、元が見張りの常駐所として作られているため、古びてはいるものの、しっかりした建物だった。
今は気候もよく、この場所を必要な病気の兵士もいないので、ファイザルは予め、レーニエが居心地良く病み上がりの身を養えるよう、念を入れて調度を整え、準備をしておいた。
床についてから五日ほどで、レーニエは起きられるようになり、進んで精の付く食事をとるように努め、三日後には本復したと医師は判断した。
王宮の奥で暮らしていた頃のことを考えると、早い回復だったから、セバストやオリイは大変喜んだ。
そして、レーニエが馬に乗れるまでに元気になると、ファイザルはセバストに温泉のことを話し、若草の月の半ばについに転地療養が実現したと言うわけだった。
時は初夏。
ノヴァゼムーリャは一年で一番穏やかな季節を迎えようとしていた。
「え? あなたは行ってしまうの……?」
レーニエは思いがけない事実に驚いた。
レーニエ、フェルディナンド、サリアの三人をこの場所に送り届け、警護の兵士たちにこまごまとした注意を与えた後、その足でファイザルは、更に山を越えて北の砦に向かうと告げたのだ。
「ええ、北の砦には少し前に、新任の人員を補充したばかりですので、その後の様子を見たり、北碧海の海賊の情報を掴まないといけないので、私はこの足で向かいます。海賊の数や規模は、今では恐るるに足りませんが、海洋の安定する盛夏の時期にはやはり注意はしておかないと。まぁ、滅多なことはまず起きませんが、俺が行くことで、少しは牽制になるかもしれないし」
こともなげにファイザルは応じる。その穏やかな態度が、かえってレーニエには不服だった。
「だけど、あなたは休暇を一度も取っていないと……こんな時くらい」
「ええ。でも、この地にいること自体、俺にとっては長い休暇のようなものですからね。このぐらいの務めは当然です。まぁ、十日もすれば戻れると思いますので、レーニエ様はゆっくり静養なさってください。ジャヌーを残してゆきますから、何でも言いつけてやれば喜ぶと思います」
そう言ってファイザルは辞儀をし、二人の兵士と共に山道に消えていく。
レーニエは細い山道に佇み、広い背中がどんどん小さくなってゆくのを見送っていた。
「レーニエ様、ほら元気を出して!」
「え?」
サリアがそっと手を握る。言われて我に帰ったレーニエは、自分が彼の去っていった方向を長い間見つめていた事に気がついた。おそらくため息もついていたのだろう、そう思って自分が恥ずかしくなる。
「そんなに悲しそうなお顔をなさらないで。ファイザル様が戻られる前に、しっかり養生いたしましょう。夏はこれからですよ、楽しく過ごすためには、まず休養をお取りにならないとね。元気になられたレーニエ様を見たら、ファイザル様もきっと驚かれますよ!」
「ああ……そうだな」
レーニエが振り返ると、既にジャヌーやフェルがせっせと荷物を運んでいた。
常勤の警護の兵士はジャヌーを入れて三人。他は七人ずつ交代制と言う事になっていて、この宿直がやはり人気の高い任務であることを示している。
小規模な城は緑に囲まれた斜面に建っていて、正面から見ると三層だが、裏から見ると五層になるのだという。
古い壁は緑の蔓草が絡みつき、らっぱ型の花があちこちに陽気に咲いており、大変趣のある風情だ。領主館のように周りを取り囲む城壁はないが、正面扉だけは流石にかなり頑丈な造りとなっている。
厩も内部にあると言う事だった。
「レーニエ様、さぁ、中をご案内いたしましょう」
この場所を初めて訪れる三人は、興味深く城内を見て回った。
一層目、つまり一階は踏み固められた土間で、倉庫や厩になっていて、昔は籠城ができたという話は本当らしい。しかし堅固な造りはそのままに、上部の階の各部屋の中は美しく設えてあり、サリアは大変喜んだ。
レーニエの部屋は最上階で、その下にサリアやフェルディナンドの部屋があり、兵士たちは主に一階を使う。
最下層の温泉の沸く浴室は、全て御影石で造形され、自然の岩ををくりぬいた窓からは向かいの美しい山の景色が見渡せる。
「すごい……この湯が自然に湧いてるのか」
浴室の入り口に立ってレーニエは驚いたように言った。サリアも感心している。都から来た彼らは、温泉を見たのが初めてだったのだ。
「窓はあるけど、ここからでは湯気で外が見えませんね~、あの先まで行くとお湯に浸かりながら外がみえるのかしら?」
「こちらのお湯は飲めるのですよ」
ジャヌーが指す浴槽の脇に作られた竜吐からは、ちょろちょろと湯が流れている。湯の中には薬になる成分が含まれていて、わざわざ下から貰いに来る村人もいるそうだ。
「でも、美味しいものではありませんね。俺はもう飲みたくありません」
フェルは、竜吐の傍に置いてある金属の杯からその湯を飲んで、顔をしかめた。
「熱さましの薬よりも不味いです」
それを聞いてレーニエはやっと微笑み、ファイザルが出発して以来、実は大変心配していた三人は胸を撫で下ろす。
最後に案内された最上階の部屋は、こじんまりとして風通しがよく、過ごしやすそうだった。天蓋のないむき出しの寝台は、領主館の物より大きいくらいで、かつてこの部屋を使った人間は、たいてい大きな男性であったことを想起させる。
レーニエが部屋に落ち着いたのを確かめると、サリアは少し休息を勧めた。
「朝から移動ばかりでお疲れになったでしょう? 今、冷たいものをご用意いたしますわ」
「ああ、ありがとう」
「レーニエ様、俺はその辺りを見てきます。後でご案内できるかもしれないので」
フェルも少年らしい好奇心で、その辺りを探検してみたいらしく、姉といっしょに出て行ったのでレーニエはしばらく一人新しい部屋に取り残された。
静かだった。
開け放たれたままの大きな窓から露台に出る。山の匂いを運ぶ風は、ほんのり緑色がかって感じられる。
あの人は、今頃どんな道を歩いているのだろうか。
自分が行くなと言えば、どうなったのだろう。
「だめだ、そんな事を思っては」
レーニエは、大きく山側に張り出した露台の手すりにもたれた。
眼前にセヴェレの壮大な山並みと、それに続く深い渓谷が広がっている。
ここからは定かではないが、街道はその間を縫うように北碧海に続いているのだ。
瞳を凝らしても人影はおろか、街道すら判別できない。先ほどと同じため息が漏れ、これではいけないとレーニエは自分の唇を押さえた。
しかし、その行為は別の記憶を呼び覚ましてしまう。
二度……ここにあの唇が触れたのは――。
一度は、この冬の終わりの大吹雪でフェルがいなくなり、恐慌に陥った自分を落ち着かせようとして。その時は初め何が起きたのか分からなくて、後で大層恥ずかしかった。
そして二度目はこの間、喉を荒らして水がうまく飲みこめなかったのを見かねた彼が、口移しで飲ませてくれた時。
いずれも自分がいたらなくて、仕方のない状況だった。
別に私を想って……のことではない。あんまり私が弱くて情けなくて、他にどうしようもなくて、あの方はそうするしかなかったのだ。
どうして自分はファイザルの前で、こうも情けない姿を晒してしまうのだろうか? しっかりしようと努力をしているつもりなのに、あまりに頼りない自分。
なのに彼はいつも支えてくれている。しかも、先日は自分の出生にまつわる禍々しい話をついに語ってしまった。
それは自分の事を彼に知ってほしい、その上で彼に理解してほしいという思いからであったが、それは自分本位の勝手な理屈で、彼にとっては聞きたくもなかった重苦しい他人の秘密だったかもしれなかった。
私はまたしても、愚かな事をしてしまったのかもしれない。
爽やかな風に髪を遊ばせてレーニエは思い悩む。
だから、もうそろそろ見放したくなって、これ以上関わり合いになりたくなくて……それで、さっさと旅立ってしまったのかもしれない。
事実、あれからその話は、彼の口から尋ねられることはなかった。
……嫌われてしまったの?
あの深い響きの声で名を呼んで欲しい。
あの優しい蒼い目で笑いかけて欲しい。
あの――
あの、逞しい腕で私を――
「……行かないで……」
ついに告げられなかった言葉は、儚く山風に消えた。
「レーニエ様? 御気分でも?」
サリアが飲み物を運んで来た時、レーニエは露台に縋りつくようにもたれていた。
白い簡素なシャツを着た背中は、気づかわしげな声にはっと振り向く。
「あ……ああ、サリア。なんでもないよ。ちょっと下を見ていただけだ。あんまり高すぎて目が眩むな」
「高いところは苦手でいらっしゃったでしょう? ご無理はいけませんわ。お飲み物を。氷室の氷を砕いて果汁と混ぜ合わせましたのよ」
「ありがとう。頂こう、美味しそうだね」
いつの間にか朝方かかっていた薄い雲が晴れて、日差しがやや強くなっている。
「余り陽の下に立たれませんように」
サリアは、石でできた卓に冷たくした果汁の飲み物を置き、室内から夏用の帽子を取ってきてレーニエに被せる。
そして、同じ石でできた椅子に敷き物を敷いて主に勧めると、レーニエはゆったりと腰を下ろして飲み物を啜った。
「フェルはどこに?」
「ジャヌーさんに連れられて、散策に出かけましたわ。後でレーニエ様をお連れするのだと張り切って」
「そう……元気なものだね」
レーニエは再び、遠くに目をやる。その様子をサリアは黙って見つめている。
「直に戻られますわよ」
「え?」
「ファイザル様は、すぐにお戻りになられますと申しました」
「……そうだね」
サリアの主は、いつも物分かりがよすぎる。
もう少し、わがままを言って、周りを困らせてもよさそうなものなのに。今も、寂しい気持ちを押し隠し、自分に心配をかけまいとしている。サリアはそんな年下の主が愛しくてならなかった。
「レーニエ様は、とてもお好きなんですのね? ファイザル様のことが」
「好き……?」
「ええ、違いますか? そのようにお見受けいたしますが」
「……そうなのだろうか?」
夢見るようにレーニエがつぶやく。
「そうじゃありませんの?」
「……わからない。でも、好きと言うなら、サリアのこともフェルも、セバスト達もジャヌーにミリアやマリ、村の子ども達……みんな好きなのだけど」
「その好き、とは違う好きですわ」
「……」
レーニエは睫毛を伏せた。
わかっている。
この「好き」は、フェルやサリアに感じる「好き」とは違う何かだということを。こんな気持ちを知ったのは、この地に来てからだ。
あの人と会ってから。
「……だけど、私などに好かれても大抵の者は困るだろう」
何でもない風を装い、レーニエは心の痛みを口にした。
「なぜでございます?」
「この世に存在しないことになっている幽霊だもの。私は」
サリアの背後の青い稜線を、大きな鳥が掠めてゆく。
「まぁ、こんなに元気そうな幽霊など見たことがありませんわ」
楽しそうにサリアは笑った。そしてすぐに笑顔を引っ込めた。
「レーニエ様?」
「なに?」
改まった声音に、レーニエは視線をサリアに戻した。大きな瞳がまっすぐに彼女を見つめている。
「今はまだそれで構いません。でも、この先ファイザル様のことで何かあったら、すべてこのサリアに話してくだいましね」
「何かって?」
「だから、何かあったらです。何でもです。ようございますね」
「……う、うん」
よく訳が分からないまま、レーニエはこくんと頷いた。