26 領主の恋 2
ファイザルは、市の賑わいの中に身を置く若い領主を見ていた。
これだけ多くの人が集まる中で、以前のように仮面をつけていない。
つば広の帽子こそ被っているが、これはサリアが日焼けしないようかましく言うせいかもしれない。
陽光の下、重い上着を脱ぎ棄て、レースのタイの付いた絹のシャツの上にゆるやかに銀髪を流し、サリアやフェルディナンド、キダム夫妻と談笑しているレーニエは、半年前の伏せ目がちの若者ではなかった。
ほっそりとした体つきは変わらないものの、遅咲きの花は今、とびきり美しく開こうとしていた。
痛々しいばかりの細さにかわり、柔らかな線に縁取られはじめた肢体は、以前にはない娘らしさを控え目ながら醸している。相変わらず黒を好み、男装のままだったが、この少女が着飾ったら、それこそ目立ち過ぎるので、それはそれでよいとファイザルは思う。
先日、彼はレーニエと今後の身の処し方について話をした。
やはり、彼女の身の安全に責任があるものとして、領民たちへの接し方をきちんとしておいた方がいいと思ったからだ。
少なくとも女であるなら、男扱いをしてはならないと思っていた。だから先日禁忌のようだったこの話題を持ち出したのだ。
「あなたの言うことはよく分かった。至極もっともなことだと思う」
デリケートな問題なので、口下手な自分がうまく伝えられたかどうか、ファイザルは自信がなかったが、レーニエはおとなしく耳を傾け、彼が口をつぐむと静かに頷いた。
もともとレーニエが女であること自体は、秘密ではなかったらしいのだが、以前の話によると、幼い頃、自分が女であることが間違いのように思いこまされた彼女は、努めて男の子のように振る舞い、いつしかそれが身についてしまったということだった。
「男だったら、父上と共に生きられたかも知れないのに……」
ファイザルの言葉に納得しつつも、レーニエは自分自身のこととなると、途端に否定的になった。
「確か、お父上は戦場で亡くなられたのでしたね」
「そう聞いている。私は絵姿だけで、実際には知らないのだ。お亡くなりになったのは私が二歳くらいの時で。だが、私は自分の出自を知ることが恐ろしくて、詳しくは聞けなかった……これも逃げている事になるのだろうな」
睫毛が伏せられ、白い眉間に苦悩が刻まれる。この話題は本当なら避けた方がいい。
しかし、この人のためには向き合うしかなかった。
「お生まれの責任は、あなたにはありません。そこはお間違えなきよう」
言い放ってからファイザルは考えこんだ。
ファイザルがそれまで想定していたレーニエの父は、前国王アルフレド三世だった。彼が亡くなったのはレーニエが二歳の時。
そして今の話では、レーニエの父が亡くなったのも同じ頃という事になる。これは何かの偶然だろうか? 確かアルフレド三世は不治の病を得、一年ほどの闘病の挙句亡くなったと聞いている。
病死と戦死を思い違うことはないだろうから、この話を聞く限り、レーニエの父は前国王ではないと言う事になる。将軍か王族か、おそらく一軍を率いるような立場の人間なのかもしれないが、誰なのか急には思いつけない。
なぜならその年は、前年に始まった南部の戦争が激しさを増し、名の通った将軍や、有力な貴族が幾人か亡くなった時期と重なっているからだ。
ファイザルには戦死したと言う、レーニエの父を特定できなかった。
一体この方は、誰と誰の間に生まれた御子なのか……王族に関係していることは間違いはないように思うが、これではお守りするにも最後の詰めが曖昧になる。
正面きって尋ねる訳にもいかず、王宮と言う特殊な場所の複雑な事情に、ファイザルはため息をついた。
どうも自分などが推測できるような、単純な事柄ではないようだ。
「レーニエ様」
「ん?」
「お父上のお名前は伺えないのでしょうね」
「……すまない。まだ、名を覚えている人が多いようだから。万が一醜聞になっては困る方がいる」
「いいえ、そうだろうとは思っていました。いえ、構わないのです。では女性であることを隠されていたのは、お命を狙われているとか、そういう事情ではないのですね」
「ない。私の存在そのものが公のものでないので、性別はなおさら隠す理由がない」
自分のことに無頓着なレーニエの言葉を、そのまま鵜呑みにするのはどうかとも思ったが、もし危険があるのなら、セバスト達が黙っていないだろうと思い、ファイザルはそれ以上の追及をやめた。
要は、レーニエが罪悪感を感じず、ありのままの自分を受け入れることが大切だと思ったからだった。
「ではご身分のことはこれ以上聞きますまい。今まで通り、都の貴族で通すのがいいと思われます。ですが、性別のことは」
「ああ……承知した。夜の集会ではあなたの言うようにする。セバストやオリイに伝えておこう。着任の辞を述べる際、私のことを少し話せばいいのだろう?」
思いの他、レーニエはあっさり同意する。
「本当によろしいのですね?」
「いつまでも隠しておけないと言ったのはあなただろう? 人前で話すことには慣れていないが……」
「よくぞご決心なされました。必ずこの事でご領主様に不愉快な思いをさせませぬ」
「そして、仮面も……だな。そうだろう?」
小さなため息をついて銀色の頭がうな垂れる。
「御意」
「自分が美しいとはとても思えぬが、いつまでも偽ってはならないと言うのなら、これも外すべきだろう」
レーニエは傍らに置かれた仮面を差した。
今では知らない人がいる場所以外では、つけなくなってしまったものだ。
「それはその通りですが、レーニエ様。こちらの方は、あまり負担になられるようなら……」
彼は、大きな椅子に沈み込んでいる若い貴族を見た。
室内でも彼女の周りだけ、不思議に輝いて見えるのは、白銀の髪のせいだけではないと思う。
「負担と言うのではないが、子どもの頃、知らない人に会うと、じろじろ見られるので、それがとても怖かったから……」
いくら美しいと言ってみても、子どもの頃から植え付けられた固定観念はなかなか消えないらしい。
「あなたはお綺麗です。俺はこんな不調法者ですが、戦略以外で嘘はつきませんよ。レーニエ様にもし危険があるとしたら、女性であることよりもむしろ、あなたの美しさのほうにあるのではないかと思われます」
「そうかなぁ? 先日、市のことでキダム殿に会いに行った折、ある家の前を通りかかるとふいに呼び止められたんだ。そして、その家の主婦から生まれた子どもに祝福を、と頼まれて赤ん坊を見たんだが……」
レーニエはその時のことを思い出したのか、ふわりと微笑んだ。
「あれは……とっても美しいものだと思った。生まれたての赤ん坊を見たのも初めてだったが、あのように美しく、気高いものを見たのは初めてで。ちいちゃくて、柔らかくて、いい匂いがして。私なんかの腕の中ですやすや眠っているんだ。それは本当にきれいで、尊いものだった。こんな私が触れてはいけないと思ったほどに」
その時のことを思い出してか、レーニエの腕は、無意識に両腕が赤ん坊を抱いているかのように丸められている。先ほどまでの憂いを帯びた瞳が嘘のように和んでいた。まるで自分が母親になったかのように。
「ああ、その話はジャヌーから聞いています。よい経験をなさいましたね」
「うん。美しいとはあのような物のことを言うのだ。私など……顔を鏡で見るのも好きでない」
ファイザルは苦笑をしただけで、もうその話題に触れようとはしなかった。
「ああそうだ。ジャヌーと言えばどうしたんだろう? 最近見かけないが」
いつもファイザルの後ろにつき従い、レーニエの良き相談相手となっている明るい青年は、ここしばらく姿を見せてなかった。
「ああ、彼は……最近忙しくて。新兵の訓練計画の作成や、その指導に当たっておりまして……」
ファイザルは、彼にしては歯切れ悪く言葉を濁した。
「ふぅん。そう言えば、あの時、派手に木から落ちたようだったが、まさか怪我など……」
「いやまぁ、それは頑丈な奴のことですから、大丈夫なのですが……いろいろと……」
先日の朝、小鳥に餌をやっているレーニエの姿を見かけて仰天し、登っていた木から転落したジャヌーはある意味、再起不能に近い状態となっていた。
あの後、楡の木は切り倒されなかったものの、枝は払われ、二度と不埒者が領主の寝室に忍びこめないようになってしまったのだ。
「そんなに忙しくしているのか? 今夜は来てもらえるのかな」
「一応そのように申しつけてありますが」
ファイザルはこっそりため息をついた。
実は、ジャヌーは、レーニエが女だと知ってかなりの衝撃を受けていた。
しかも、自分以外で、領主館の警護についていた者は皆知っていたという事を知り、二重にショックだったらしい。
『何で言ってくださらなかったのですか?』
領主屋敷を辞したのち、砦に帰ったジャヌーは、半ば涙目になってファイザルに詰め寄った。
『レーニエ様が言われないものを、俺が吹聴できるわけもなかろう。それに、大概の者はわかっていたぞ。お前、あんなにそばでお仕えしていて、ちっとも疑わなかったのか?』
『それはその……お綺麗だなぁとはいつも思っていましたけど。あちらは都の貴公子だし、そんなものかと思ってたんで……』
『はぁ、まったく純粋ないい奴だよ、お前は』
『それは遠まわしに俺が馬鹿だって、おっしゃっているんですよね?』
恨みがましい視線をよこしてジャヌーは拗ねている。
『言ってないだろ』
『だって……だけど、明日から俺、どんな顔してレーニエ様に会えばいいんですか? 俺もう駄目かもしれない。あああ~、あのまっ白い肩とか、胸元とかがちらついて……』
言ってるうちにまたしても思い出したらしく、ジャヌーは湯気が出るほど真っ赤になって両手で顔を覆ってしまった。その為、ファイザルの周りの空気が一気に凍り付いたのに気がつかなかった。
『貴様……なにを見た?』
底冷えのする声にジャヌーが目を開けると、氷のような目とぶつかった。若者の体が硬直する。
それは、戦場で味方をも震え上がらせたという伝説の戦士、掃討のセスの眼光とはこれか? と思わせるような目つきだった。
『ひいっ! 見てません! 俺なんにも見てませんよぅ~。だ、大体、こここ、このあたりぐらいまでで……』
ダラダラと汗をかきながらジャヌーは、両手を水平にして自分の鎖骨の辺りを示した。
『ふぅん、お前、それ、言いふらすんじゃないぞ』
視線でジャヌーを凍りつかせながらファイザルが低く告げた。
『言いません! 絶対に! 俺だって忘れたいくらいなんですから……でも、今まで男の方だって思っていたから、そう言う接し方しかしてこなかったし。俺どうしたら……』
『いつも通りでいいさ。あの方もそうお望みだ』
『できませんって、出来るわけがありません! 俺、あんなに綺麗な姫君……でいいんですよね? にどうやって接すればいいのか……うわぁ、どうしよう~』
『ともかく、そんな態度ではお仕えできない。二、三日、基地に詰めて頭を冷やせ。いいな?』
大きな体を丸めて混乱している従卒を扱いかね、ファイザルはようやく苦笑を洩らした。
だが、まぁ気持はわからなくもない。俺だって最初は戸惑った。若いあいつが途方にくれるのも無理はないさ。
領主館に警備に当たる兵士の中ではジャヌーが一番若い。
他の兵士はベテランか、ある程度若くとも家庭を持っている者ばかりだ。彼等は当然人生経験も豊富だから、レーニエのことを知っても多少は驚いたものの、ジャヌーのように動転するようなことはなかったのだ。
という訳で、哀れなジャヌーは現在、砦の中で悶々と悩んでいるという訳だった。
「そうか……なんだか寂しいな。体が空いたら食事にでも来るように言っておいてくれ」
「かしこまりました」
ファイザルは恭しく頭を下げた。
その夜、レーニエがノヴァゼムーリャの地に来てから初めての、村長達を招いて集会が行われた。
「ご領主様がお見えになります」
正装したセバストが恭しく告げる。それまでざわざわとしていた人々がとたんに話をやめて正面扉の方を向いた。
伐採期には託児所となっていた大広間には、ノヴァゼムーリャにあるすべての村の村長達とその夫人、市に合わせてやってきた主だった商人と役人たち、そして国軍の指揮官とその側近、総勢三十名余りが席に着いていた。
燭台にはふんだんにロウソクが灯され、磨き上げられた二台の大テーブルには、これまた磨き上げられた銀器や高価な陶器の食器が並べられている。春の花々もそこかしこに飾られており、暗く重々しい、いつもの大広間と同じ部屋だとはとても思えないくらいだった。
「おお……」
「お見えになるぞ」
殆どの者は、四十年ぶりにその任に就いた領主を初めて見る。
噂では相当風変りということで、皆はさすがに好奇心を抑えきれない様子、で正面扉に注目していた。
そしてやがて大扉がゆっくりと開き、背後にサリアとフェルディナンドを伴って、ノヴァゼムーリャの領主が姿を見せた。
人々は静かにざわめく。ファイザルは青い目を見張った。横に座っているジャヌーが、喉の奥であっと声を漏らすのが聞こえる。
若い領主はすらりとした肢体を黒衣に包んでいた。
黒はいつもの色であったが、今宵のそれは大分様子がいつもと違う。
レーニエは婦人用の正装を纏っていた。この事について、ファイザルは事前に何も聞かされていなかったので、彼にとっても男物の衣装を身につけていないレーニエは初めてだ。
それは襟もとこそ詰まっているものの、全体的にはすらりと流れ落ちる黒絹の衣装で、胸を持ち上げるように帯が結ばれた簡素なデザインのものだった。
ところどころにレースがあしらってある他には一切飾りは付いていず、ほっそりとした肢体を際立たせている。補正具で腰をぎゅうぎゅうと締め付けて努力している都の貴婦人達が見たら、さぞ羨ましがる姿だろうと思われた。
宝石類も身につけていないが、そんなものは必要もなかっただろう。
不思議な赤い瞳は紅玉のよう。極めて珍しい白銀の髪は、両脇を少し後ろに持ち上げて結ってあるだけだが、ろうそくの明かりだけの中でも密やかな光沢を放ち、滝のように流れていた。その髪にさしてある飾り櫛だけが唯一の装飾で、それはいうまでもなく、昼間フェルディナンドに捧げられたものである。
確かに美しい。が、しかし、ファイザルには大人っぽいドレスを纏ったレーニエが少し無理をしているように見えた。
そして――
「皆、今日はよく集まってくれた。私がこの度――正確には去年の秋からこの地、ノヴァゼムーリャの領主となったレーニエ・アミ・ドゥー・ワルシュタールと申す。以後見知りおき願いたい」
透きとおった声が広間に流れた。