23 領主の役割 10
吹雪は三日間荒れすさび、真冬に戻ったかのように、ノヴァの地を真っ白に覆ってしまった。
吹雪が止んでもすぐには外には出られず、ファイザルは部下とともに、丸一日かかって、男手のいなくなった領主館の周りの雪を片付けなければならなかった。
サリアとオリイもやっと窓を開け放ち、煤けてしまった屋敷中を掃除するのに大奮闘で、暖炉の灰を掻きだし、帳を取り換えたり、窓を拭いたりしていた。
そして、その双方の仕事を手伝うと申し入れたご領主様は、どちらからもすげなく断られ、心中大いに不本意ながら文句も言わずに引っ込んだ。
そして仕方なく、二階の窓際でやっと降り注いだ陽の光を浴びながら、前庭を見下ろし、早く外に出たいなぁと考えていた。
おそらく村中が同じことをしているのだろう。
午後にはジャヌーが、ようやくできた騎馬一騎通るのがやっとの道を、苦労して館までやってきた。
はね橋を潜って城門を抜けたとたん、汗まみれになって仕事をしているファイザルと兵士二人を見つけて慌てて馬を下り、手伝いに加わる。
「指揮官殿! ルカスさん、レナンさん!」
「おお! ジャヌーか、ご苦労さん」
先輩の兵士であるルカスが声をかけた。
「いや~、大変でしたね。今回の吹雪は。まさか春も間近になって、こんなのがくるとは思いませんでした」
ファイザルも顔をあげてジャヌーの若々しい顔をみた。彼も決死の覚悟で、ヒューイ達の無事を告げる為に村に引き返したのだった。
「アダンの家ではどうだった?」
「いや、あっちもなかなか。あの時は半分凍りかけながら、どうにかたどり着いて、やっと皆無事だと伝えた途端、家中大泣きだし。それからは吹雪が酷くなって狭い家に缶詰。いやはや、参りました。何しろアダンさんの家は、ヒューイの兄さんたちが皆アルエの町まで出稼ぎに行ってますんで、男は俺一人だったんですからね。そりゃあ気を使いましたよ」
「かみさんに手ぇ出さなかっただろうな?」
ルカスが、しながらからかう。
「馬鹿言わんで下さいよ! そこまで女に不自由してません。第一、そんなことをしたらアダンさんに殺される」
「え!? 不自由してないの? じゃあ、ジャヌーさんの彼女はどこにいるんだろうなぁ。基地ではないから、当然村の娘だろ? 会ってきたのか?」
今度はレナンが口を挟んだ。
「違います! そんなもんいませんよ、変なこと言わんでください。指揮官殿の前で!」
「ふ……村の様子はどうだった? ちゃんと見て来たんだろうな」
若い兵士達の話を適当に流して、ファイザルは至極当然の質問をした。
「はい。キダム村長の家にも寄ってきましたが、どこも大体同じようなもので。今日は一日村人総出で雪かきです。あ、ペイザンさんの鶏小屋の屋根が抜けて、鶏が全部死んでしまったそうです。それが一番大きな被害かな? 人的被害は、フェルとヒューイの件を除いて無しということで」
「そうか、ご苦労だった。明日は基地に戻るぞ。ご領主様がすっかり退屈されて、早くフェルを迎えに行くと矢の催促だ」
「え~。で、指揮官殿たちはこの三日間、何をされていたのですか?」
「俺たちは、お大尽の生活よ」
ルカスが口を出す。
「そうそう」
横のレナンも大真面目に頷いた。
「何しろ外は吹雪ですることがないもんな。しかもご領主様んちだし、羽目を外すわけにはいかない。仕方がないから屋敷中の道具の修理をしたり、使ってない部屋を掃除したり。サリアさんにこき使われていたよ。だけど、そんなこたぁ屁でもなかったね。飯はうまいし、何しろ、この館は美人ぞろいだからな。毎日見てても飽きないよ」
「俺なんか、どさくさに紛れて手を握っちゃったね」
「……あんた、何を言ってんですか。まさか、レーニエ様のことを言ってるんじゃ……」
みるみる顔に血を上らせて、ジャヌーが詰め寄る。
「おや、ジャヌーちゃんの想い人は、ご領主様だったのかい?」
「馬鹿な! あああの方は男だ、男です! いくらきれいだって! そうじゃなくて、あんたまさか本当に、レーニエ様に無礼を働いたんじゃ……」
「ええ~? 俺ら、何かしましたっけ?」
ルカスがとぼけた顔でファイザルを見た。
「さぁな。とりあえず、お前は俺にカードの借金が千ルーラあるんだがな」
「ぎゃあっ指揮官殿! あれはご領主様に手管をお教えするために、わざと負けたんですぅ~」
「ほぅ。それならご領主様に千ルーラ出してもらうんだな」
「そっ、そんなぁ~、給料前なのに」
ルカスはひげ面をぶんぶん振ってごねている。それをうるさそうに無視してジャヌーは尋ねた。
「カード……そんなことをなさっていたのですか……」
「まぁな」
「はぁ~、いいですね。なんだか楽しそうで。とりあえず俺も、ご領主様に挨拶に行ってきます」
「……指揮官殿、ジャヌーはまだ、ご領主様が男だと信じ込んでいるんですねぇ、あんなに一緒にいることが多いのに」
なんとなく悄然としたようすのジャヌーの背中を、ルカスとレナンは憐れみをこめて見送った。
「まぁ、最初は俺たちだってびっくりしましたけど。だけど考えてみりゃ、あんなにきれいな男がいるってことがそもそも不自然で、すぐに腑に落ちましたがねぇ。あんな恰好をしているのも、こんな辺鄙なところにいるのも、天上人様の事情って奴でしょ?」
「そうかもしれん。まぁ、ご本人が何も言われないのだから吹聴するのは慎めよ」
「承知しております」
二人の兵士は声をそろえた。そしてすぐにシャベルを持ち直して仕事を再開する。
「しっかし、ジャヌーのやつが知ったら、立ち直れないんじゃないんかなぁ」
小気味よく雪をかいていきながら、二人の兵士は彼らより若いジャヌーに同情するようにひそひそと喋りあった。ルカスの方は既に妻帯者だ。
「俺は今でも惚れてるんじゃないか、と思っていますがね」
「うわ、それも切ないね。しかも重大な規律違反じゃないか、男色なんて。それにどっちにしたって、あの方は貴族で、それもとびきりの高嶺の花だ。万が一にも奴に望みはねぇよなぁ。気の毒に」
「まったくっす。その内身の程って奴を痛感するでしょうぜ。そん時ゃ、せいぜい慰めてやろうと思ってます」
「……」
二人の部下の会話を耳にしながら、ファイザルは秀麗な眉を寄せた。
この数日、屋敷の中に閉じ込められて特にすることもないので、ファイザルも兵士達と同じように、古い領主屋敷の営繕を行っていた。
手先の器用なファイザルは、何かと重宝がられたのだが、作業中、ふと眼を上げると大抵そこに領主が立っていて、興味深そうに彼のすることを見ていた。
何気ない会話をしながらファイザルは、レーニエの表情のわずかな変化を楽しんでいた。
びっくりするほど何も知らないかと思えば、意外なところで博識なところを見せたりする。多くは書物からの知識のようであったが。彼がレーニエの質問に丁寧に答えてやると、嬉しそうな様子を見せて不意にいなくなり、いつの間にか本を携えて戻って来て、自分で調べた事を確かめていた。
「レーニエ様は書物がお好きですね」
「好き……と言うか、昔はそれくらいしかすることがなかったから。本を見ては、いろんな事を想像していた」
「本には正しいことが書かれていましたか?」
「多分。でも、実際に試してみる方がずっと面白いと思った。ヨシュアがいろいろ教えてくれるし……」
分厚い本を両手で抱え、レーニエはうっすらと頬を染めていた。
高嶺の花。
まったくその通りだ……ジャヌー、あの方に惚れるんじゃないぞ。
大きな雪の塊にざっくりとシャベルがささる。勢いをつけて堀に放り投げると、雪はみぞれのようにゆっくりと飲み込まれていった。
その夜の晩餐は、賑やかなものとなった。
ファイザル達が足止めされて以来、レーニエの希望でサリアやオリイも交え、小広間で晩餐を取ることにしていたのだが、今夜はそこにジャヌーも加わったので、村の様子も聞きながら楽しい夕食となった。
もっとも、喋るのはほとんどサリアとオリイ、そしてジャヌー達兵士で、レーニエとファイザルは、皆の話を聞いているだけだったのだが。
「ねぇ、リルアの花のお風呂はどぉ?」
サリアが手の込んだ煮込み料理を皿によそいながら、レナンに聞く。
「いや~、香りはなんだかくすぐったいですが、体があったまるのはいいと思いますよ? それになんだか肌が柔らかくなるし」
「俺も存外いいと思いますよ」と、ルカス。
「うへぇ、なんですか、それは?」
「おお、ジャヌー。お前も後で風呂に入れてもらったらいいと思うぞ。見た目よりよりずっといい」
「だからなんなんですか!」
「うふふふ……じゃあ、後でジャヌーさんにも試してもらおう。いい気持ちよぉ」
「俺たち明日砦に戻ったら、散々な言われようだろうなぁ、レナン? なんだかきれいになったんじゃないかってな」
「違いありません」
したり顔でレナンは頷いた。
「明日からまた訓練鍛練の日々です。どっちを向いても男ばっかりで、今夜が最後の花園です」
レナンの言うのは無論、風呂だけの事ではない。しかし、ジャヌーにはさっぱり伝わらなかった。
「指揮官殿! 話が見えません」
「まぁいいだろ……おや、レーニエ様?」
熱い茶を口に運びながらファイザルがふと顔をあげると、ろくに食べてもいないレーニエが早々に席を立つところだった。
「いや……失礼。皆ゆっくりするといい。私は先に部屋に戻る。ああ、サリア、ついてこなくて大丈夫だ。一人でいい」
「かしこまりました。後でお湯をお持ち致しますね」
サリアが立ち上がろうとするのを制して、レーニエは席を離れた。
心持頼りなさそうな背中が部屋を出てゆくのを、ファイザルは黙って見送る。扉を閉める前に領主は言った。
「皆もこの数日間、ご苦労だった。明日は早く基地に戻るのだろう? 今夜はゆっくり過ごしてほしい。お休み」
「お休みなさいませ」
「やっと星が見えた……」
部屋で湯を使った後、珍しくサリアに酒を所望したレーニエは、彼女が下がると杯を持ったまま露台へ出た。
あれほど荒れ狂った冬の嵐の後で、雲は全て吹き払われ、煌煌と半月が地上を照らしている。白い世界は青い影を濃く落とし、無彩色の風景が広がっていた。
吹雪に閉じ込められたこの数日間、レーニエは生まれて初めてと言っていいほどの充足感を味わっていた。
朝食に下りていけば、ファイザルが待ち構えていて一緒に朝の粥をとり、その後もずっと彼はレーニエに寄り添ってくれた。屋敷の仕事を頼まれている時ですら、だ。
でももう、それもおしまい。明日は砦に帰ってしまう。
私はなんて愚かなんだろう、そんな事を考えて憂鬱になっているなんて。
フェルが無事で、心の箍が緩んでしまったのに違いない。
ぶるっと大きく体が震えた。
恐ろしい寒気は去ったが、屋外は零度に近くなっている。厚いガウンをはおり、酒を飲んでいたとしても、こんな時刻に戸外へ出るべきではない。しかし、レーニエは魅入られたように冬の風景に目を奪われていた。
「何をしておられる!」
レーニエが振り向くと、いつの間に部屋に入ってきたのか、ファイザルが驚いてこちらを見ている。
彼は足早に露台にやってきて、自分の上着を脱ぐとレーニエを包み込み、抱え込むようにして室内に連れ戻した。
グラスから赤い酒がこぼれて、まるで血のような跡が雪の上に散る。
「酒が……」
「いいから杯を置きなさい! 髪がこんなに冷たくなっているではないですか。湯あがりにどうかしている、そんなにフェルが心配ですか?」
珍しく厳しい声でファイザルは有無を言わさず、レーニエを暖炉の前の敷物の上に座らせ、自分の上着ごと抱き込み手を握ってやる。叱られた少女は大人しくされるがままになっていた。
冷えた体に熱が戻るまでしばらくかかったが、二人とも身動きもせず黙りこんでいた。
「明日の朝迎えに行くというのに……まったくあなたはなんという無茶をする」
やっと指先が暖かくなったのを確認して、ファイザルは体を離した。
「無茶。そうではなくて……少し頭を冷やしたかっただけ、だ」
ろれつが少々回っていない。どれだけ飲んだのかは知らないが、血行が良くなって酔いが回ってきたのか少しふらふらとしている。
酒には弱いのだろうか? 彼はやむなく再び横に腰を下ろし、頼りない体を支えた。
「何を考えていたんです?」
「いろいろ。フェルのこともあるが、自分のこと、あなたのことも……」
「俺のこと?」
「ジャヌーが、いつかあなたが、遠くに行ってしまうかもしれないと言っていた……それは本当?」
「遠く? 転属ということですか? ああ、それはまぁ、命令がきたらそうなりますが」
意外なことを聞かれたように、ファイザルは真面目に答える。
「もしも……もしもそうなったとして、私がある人に掛け合ったら、その命は覆るだろうか?」
「あなたが? でもなぜ?」
「あなたは、私がここで見つけた大切なつながりだ……失いたくは……ない」
レーニエは、自分が思う通りの言葉を選んでいないことを自覚しながら言った。なぜこう、自分は不器用なのだろう? こんな時、何を言っていいのかちっともわからない。
やはり自分は人と比べてどこかおかしいのだ。
半ば朦朧としてきた頭で、レーニエは考えた。
「さぁ。いくらあなたが偉くとも、それは無理なんじゃあないですか? 軍は元老院の決定によってのみ動きます」
「……えらい……私が?」
赤い瞳の中で炎が渦を巻く、夢見るような瞳でレーニエは繰り返した。
上半身がゆらゆらと揺れている
「……王族なのでしょう?」
ファイザルはあえてさらりと言ってみる。
「お……うぞく? 違う。私はちっともえらくない。でも……母上はお偉くて……もしあなたがここを去るようなら、お願い申し上げてみたら……って思っただけで……」
言葉がますます間延びする。自分の言っていることがわかっているのだろうか?
「私は……ただの罪びと……だ。そん……ざいしてはならないの……」
「罪? あなたが罪人ですって?」
「……」
「レーニエ様?」
ほぼ確信していることに対してカマをかけたつもりが、酔ったレーニエの口から全く知らない王宮の裏の事情が漏れてきそうで、ファイザルは慌てた。
彼はレーニエの出自を、一六年前に亡くなった前国王、アルフレド三世の落し胤だと、見当をつけていた。おそらく母親が訳ありで、公にできない事情を慮ってその存在を秘されたのだろうと。
つまり、女性ながら賢君だと言われている現国王、ソリル二世は彼女の母違いの姉にあたるのだと、かなりの確信を持っていたのだ。
会ったころに知った、長い髪の謂れを聞いた時に湧いてきた疑念が、基地の執務室に飾られている女王の若い頃の肖像画を見た時に、確信に近いものとなったのだ。
エルファラン国の王族は、一様に大変美しい人たちだが、現女王の肖像画は髪や瞳の色こそ大きく違うものの、レーニエによく似ていた。もし姉妹なのだったら腑に落ちる。
しかし、今レーニエがうっかり漏らした呟きによれば、母親もやはり政治的に地位の高い人物であるようだった。
どういう事だ? 俺は前国王の庶子だと、ほぼ確信していたが、そうではないのか?
えらい母親だって? いったい誰なんだ? そして、父親は……?
ファイザルは自分の推論が全く見当違いだったのではないかと、もう一度一から考えてみた。
もし、この方が前王陛下の庶子だったとしたら……。
アルフレド三世が病を得、世を去ったのはレーニエが二歳の頃だ。彼は、晩年に生まれた庶子の娘の行く末を、何も考えなかったのだろうか?
なぜそんなに、彼女の存在を隠さなくてはならなかったのだろう?
不義の子だったのかもしれないが、一旦は秘すれども、ほとぼりが冷めたころに、末の姫として認知するか、臣下に落とせばいいようなものではないか?
王室にそのような例は、別に珍しいことではない。
しかし、レーニエは幼少の頃、塔の上に閉じ込められていたと言っていた。
そう考えると、やっぱり不自然に厳しい隠されようだ
アルフレド三世の長女である現国王、ソリル二世は独身だ。
その下に摂政として姉を支えている弟君、ルザラン王子と、既に他国へ嫁いだ妹君のリュドミラ姫がいる。女王自身は四十才を少し過ぎているが、独身を貫く誓いを立ており、処女王と呼ばれることもある。
女王は甥にあたるルザラン摂政の長子、十五歳のア―ベル王子を跡継ぎに指名しており、現在の王家に跡目争いがあるとは聞かない。
たとえ、年の離れた庶子の姫君の存在が、今更明らかになったとしても、今の王家に、さして影響があるとは思えなかった。
ではやはり、この方は前国王の落し胤でないのか。だとしたら、いったいどういう人なのだろうか?
奇妙な生い立ち、姫君にあらざる男装。そして、風変わりだが類稀な美貌と、どこかちぐはぐな言動。
いったいどんな育ち方をすれば、このような人物が出来上がるのだろうか?
そこまで考えて、ファイザルはどうでもよくなった。
住む世界が違う王宮の奥付きに住まう人々の、デリケートな事情など、自分などが考えても分かるはずがない。
彼は堂々めぐりの思考を押しやり、自分に寄り掛かる少女に目を向けた。赤い瞳は今は閉じられ、びっくりするほど長い睫毛が頬に影を落としている。
「眠ってしまわれた?」
柔らかな頬を指でつついてみても、瞼は上がらない。
仕方がないので、ささやかな重みをかけてくる体をそっと抱き起こすと、そのまま寝台に運んで横たえてやった。そう言えば、数日前にもこういうことをしたと思い出した。
時は怒って泣いて疲れ切って、口付けで少し腫れた唇が濡れていた……。
馬鹿め。
ファイザルは首を振って自分を罵った。
床に座り込んでいたためか、洗い髪が乱れてしまっている。それを出来るだけ整え、すよすよと寝息を立てている美しい顔を覗き込んだ。
「……あなたは一体どなたなのですか?」
ふと傍らの小卓を見ると、レーニエが飲んでいた酒の瓶があった。中身は半分ほど空になっている。美しい碧の瓶の標章は、東の地でしか取れない極上の果実酒のそれだった。ファイザルは置いたままにしていたグラスを持ってきて、酒を注ぐ。
それはレーニエの瞳のように透きとおった赤い色をしていた。
一気に煽る。
豊潤な香りと味が口腔を満たした。
するりと喉を通ったそれは、すぐに体液に混じり合い、体を温める。夕食を殆ど食べていなかったレーニエが、これだけの量を飲み、一気に酔いがまわってしまったのも仕方がない。
これでは明日のお目覚めは、遅くなるかもしれないな。
グラスを脇に置いて、ファイザルは眠り姫を見つめた。
錯覚するな。これは一時の気の迷いだ。極上の酒に酔ったようなもの。俺は誰も愛さないし、資格もない。
ただ……自分だけが業を背負っていると思いこまれている、この方が可愛くてならないだけで……ただそれだけの――
レーニエが言った罪人の意味は分からないが、こんな娘に何の罪があるというのか?
そんな事はもうどうでもよかった。
口づけは起こさないように静かに落とされる。
甘い吐息を吐く柔らかいそれは、もっと、とねだるようにほんの少し開かれた。
どんな男がこの誘惑に勝てようか。ファイザルは何度も何度もそれを啄ばんだ。
ゆっくりお休みなさい。無邪気な姫君……。
やがて名残を惜しむ様に、彼は体を起こす。
あなたはこの俺が、どんなに卑劣な人間かも知らずに……素直に慕ってくれている。あなたに嫌われたくなくて、頼れる大人を演じている汚い私を知っても、あなたは変わらずにいてくれるだろうか……。
瞼は固く閉じられたまま。
天蓋の紗を引くと、その姿は闇の中に見えなくなった。規則正しい寝息を確かめて、ファイザルはひっそりと寝室を後にする。
途端に優しい暗闇が部屋を満たした。