21 領主の役割 8
「これは!?」
吹雪が近いのに少年たちが戻らないと、村人の要請を受け、兵士を狩り場に派遣した後、領主館に向かったファイザルは、眼前の騒ぎを前に驚いていた。
彼はすぐに後ろに控える兵士に指示を出す。
「お前たち! すぐに扉を閉めろ。風が強いから二人がかりだぞ」
そう言うと、雪にまみれたマントと手袋を投げ捨て、彼はつかつかとホールの中央まで歩を進めてきた。
オリイとサリアに羽交い絞めにされたまま、自分を見つめるレーニエがいる。
「何事です」
背後では重い音を立てて、扉が閉められた。
「よかった! ファイザル様、レーニエ様を止めてください! 今からフェルを探しに行くとおっしゃられて……」
正面から膝をついてレーニエを押さえながら、サリアが叫ぶ。我に返ったレーニエも負けじと声を上げた。
「放せ、サリア、オリイ! ヨシュア、私も行くんだ!」
「なりません。既に厳冬期の訓練を積んだ兵士二十名に二人を捜索させています。レーニエ様がお出ましになることはありません」
落ち着き払った声でファイザルは説明した。
「だけど、私にしかわからないことがある! 行く! 行くんだ!」
サリアの腕を振りほどこうとして、レーニエは体を捻った。弾みで前のめりによろけ、肩が厚い胸にぶつかったが、即座にがっちりと支えられた。
「あなたなら、何がわかるというのです?」
静かだが低い声。レーニエが聞いた事もない厳しい男の声。
「……」
レーニエは怯みそうになる気持ちを抑えてきっと顔を上げた。
そこには見た事もないほど怖い顔をしたファイザルの顔があった。いつもは穏やかな青い瞳が、冷たい光を湛えてレーニエを映している。
「……フェルの行きそうな場所がわかる」
「この暗闇の中で? しかも周囲から風と雪が視界を遮る森の中だ。そんなところで、あなたに何ができるのです」
「そんな中に私のフェルは取り残されている! 私の声が届いたら……」
「声などとどくものですか」
容赦ない現実を突きつけられたが、ファイザルの言葉で妄想の吹雪のイメージがますます強くなり、レーニエは頭を振って自分の想像を振りきった。
意地でも前に進もうと、大きな体を押しのける。
とたんに太い腕が行く手を遮った。
「これ以上、事を大きくしないでください。あなたが行っても足手まといなだけです。我儘も大概になさい。迷惑です」
「何?」
ついぞ言われたことのない厳しい言葉に、レーニエは、はっと目を見張った。
「申し訳ありませんが、ここは言うことを聞いてもらいます」
レーニエより頭一つ分以上も背の高いファイザルが、行く手に立ちふさがっている。
「退け!」
ファイザルはファイザルで、内心驚いていた。
いつも控え目すぎるくらいの人物が、激昂している。緋の瞳がきらめき、自分を睨みつけていたが、場数を踏んでいる彼には、その美しさを楽しむ余裕さえあった。
この場を支配するのは自分で、目の前の姫君ではない。
「退かしてごらんなさい」
「……っ!」
余裕を感じさせる口調に、レーニエは何と返していいのか一瞬口ごもった。
「失礼いたします」
不意に長身が沈んだかと思うと、いきなり放り投げるように肩の上に抱き上げられる。
「何をする! 放せ!」
「少し落ち着かれたがいい。部屋にお連れする」
レーニエが足をバタバタさせて抵抗するのをものともせず、ファイザルはどんどん階段を上がっていった。
「下ろせ! フェルを助けに行く!」
「すみません、オリイ殿、サリア殿。ご領主様は必ず説得いたしますので、あなた方は下で待機していてくださいますか」
階段の途中で振り返り、ファイザルは呆然としている二人に声をかけた。
「は、はいっ!」
「嫌だ、サリア! オリイ! 下ろして!」
体をよじってレーニエは下方へ腕を伸ばす。戸惑い、心配する二人の視線とぶつかったが、彼等は主の命に応じようとはしなかった。
「いやぁ! 下ろして! フェル――ッ!」
悲痛な叫びがホールにこだました。
暗い廊下を、ファイザルは悠々と進んでゆく。
どうやら領主は、自分の背中に拳を打ちつけているようだが、鍛え抜かれた彼には何の痛痒もない。
逆に手を痛めないかと心配になった。じたばたともがいている体を片腕で易々と押さえつけ、部屋の前まで来ると、暴れているご領主様が頭を打たないように気をつけ、後ろ手に扉を閉める。
そのままどんどん進み、寝室へ続く扉の傍に置かれていた安楽椅子の上へ静かに下ろした。
「止むを得なかったとはいえ、大変ご無礼いたしました。レーニエ様」
きっと睨みつける瞳を、笑みさえ浮かべてファイザルは覗きこんだ。片手を胸に当てて、恭順の礼をとる。
「……っ!」
精一杯勢いをつけてレーニエは立ち上がった。大きな瞳の虹彩が燃えるように赤い。
「どけ!」
「どきません。申し上げた通り、フェルは今私の部下が探しています。伐採場と砦は近いし、知らせを受けたのはこんな強風が来る前でしたから、もしかすると、今頃はもう見つけているかもしれません。わかりますね」
しかし、落ち着き払った声音は取り乱している者の感情を逆なでしたようだった。
「どうしてそんなことがわかるっ」
「……」
ファイザルが黙ったのを見て、レーニエは勢いを盛り返した。
「待ってるだけなんてとてもできない……気が狂ってしまう。お願いだヨシュア、私を行かせてくれ……あなたと共に行けば……」
「私はすぐにでも行きます。でも、あなたはここで待っていなさい。柱に括りつけてでも行かせません」
「な……んだって?」
「あなたをこの部屋から一歩も出しません」
ファイザルの声は低く、取りつくしまもないほど静かだった。あまりの動じなさにレーニエの苛立ちが一層募る。
「あなたは……私にとって、フェルがどんなに大事な存在か知らないくせに! フェルは私の家族で弟も同然なのに!」
「わかります」
「わかるものか! まだ小さいころから一生懸命私に仕えてくれて……いつもそばにいてくれた……」
おろおろと声が震えてゆく。
見開かれた赤い瞳から、つうっと涙が頬に滑り落ちた。こんな時ではあったが、ファイザルはそれに一瞬見とれた。レーニエが泣くのを見るのは初めてだった。
「いつも……私の後を追ってきてくれて……フェル!」
「落ち着いてください。きっと探し出しますから……レーニエ様!」
再び扉の方へふらふらと歩き出そうとするのを、ファイザルは自分の体を壁にして止めた。
「フェル……いやだ、フェル! あの手が……足が……凍ってちぎれてしまう! フェルがいなくなってしまう……いや、いやぁっ!」
「レーニエ様!」
夢中で宙に伸ばした細い手首は、がっしりとつかまれた。くるりと体が入れ替えられ、壁に背中がぶつかる。
「いや! 放せ! 行かせて!」
領主は聞き分けなく言い募る。涙が白い頬を伝って落ちた。
「レーニエ様」
「放して! 放してぇ~っ!」
掴まれた両手首を振りほどこうと、レーニエが渾身の力で身を反らした時。
「……?」
自分がどうなっているのか気づくまでに、どれだけ時間がかかったのだろう。
気がつくと、レーニエは向かい側の壁を見ていた。小さなランプしか置いていない部屋の壁は薄暗くて、掛けられたタペストリの模様がうっすらと見えるだけで。
両手首が背後の壁に縫いとめられている。
そして、強い圧迫感があった。唇に熱いものが押し当てられていた。
それはとても強く、そして容赦がなかった。
体を動かす事も、息を吸うことすら許しはしないというように、レーニエを押さえつけている。自身に何が起きているのかわからないレーニエが身を捩ろうとしてみても、まったく意味をなさなかった。
ああ……。
とても近くにファイザルが瞼を閉じているのがぼんやりとわかった。
彼が僅かに唇を浮かす度、熱い吐息が頬にかかり、直に角度を変えてまた覆い被さってくる。まるで楽しんでいるかのように。
いつの間にか顎がとらわれ、逞しい腕がレーニエの腰を支えていた。
圧倒的に強い力、大きな体、伸しかかる体温の熱さ。その全てで彼はレーニエを支配しようとしていた。
「あ……」
無意識に空気を欲しがり、薄く開かれた唇に、横柄な熱い塊が侵入してくる。
何も考えられない、自分がどこに立っているのさえも。それは、聞き慣れない湿った音を立てながら続いた。
自分を押さえつけている力が緩んだ時、レーニエは、最早自分を支えることができなかった。力の抜けた腕がだらりと揺れる。
腰を支える腕にもたれかかったまま、崩れそうになった時、ふわりと体が持ち上がった。視界がひどく高くなる。
「……?」
逞しい腕は、レーニエを片手で軽々と抱え上げ、次の間を通って寝室に運んで行った。ゆっくりとシーツの上に横たえられる。
「ご無礼つかまつりました」
低く耳元で呟くと、彼は片手で上体を支え、レーニエの上着と胴衣を脱がした。シャツのタイもするりと解かれる。次に靴が取り去られた。
レーニエは大人しくされるがままになっている。
「ご安心ください。フェルはすぐに見つけて参ります」
うっすらと瞳を開け、上半身を起こしかけたレーニエを覗き込んだ瞳には、先ほどまでの厳しい光はもうなかった。優しい指が頬をゆっくりと撫でた。
「ここでお待ちください。あなたにもしものことがあれば、皆悲しむ。俺も悲しむ」
「……」
レーニエはもう何も言えなかったが、再び透明な涙が一筋、白磁の頬を滑り降りた。顎を伝う前に大きな親指がそれを拭う。
「いいですね?」
たった今乱暴に彼女の唇を奪い、軽々と抵抗を封じたのと同じ唇が、今はこの上なく柔和な微笑みを湛えていた。
童女のようにこくりと顎が下がるのを見届けて、ファイザルは再び唇を寄せる。今度は額に小さく触れただけで、それはすぐに離れた。
「いい子だ」
「フェルを……」
弱々しく言いかけるのへ、ファイザルは大きく頷き、少し後に下がった。既に顔は任務を帯びた将校のものになっている。
彼は謹厳な面持ちで片膝を折り、騎士の礼を取ると、腰に帯びた剣を鞘から少し引き抜いて戻す。キンと金属が打ち合う涼しい音が薄暗い部屋に響いた。
金打。
武人の誓いである。
「では行って参ります」
レーニエの視界からファイザルの顔がぐんと遠ざかる。彼が大きく背を伸ばしたのだ。
広い背中が扉の向こうへ消えてゆくのを、身動きすらできずにレーニエは見送った。