16 領主の役割 3
ノヴァゼムーリャ平原の北はエルファランの北限でもあるセヴェレの山並みだ。更にその北には北碧海が広がり、山と海が通常の自由国境地帯とは異なる、絶対国境を成している。
しかし、この一見不可侵のように見える天然の要塞が、必ずしも不可侵でなかったことは歴史上の事実だった。
とはいえこの数十年は、貧しくともノヴァの地は平和で、同じ国ながら豊かな鉱物資源や穀倉地帯が広がるが故に、隣国との騒乱が絶えない南の地方とは、まったく違う土地柄である。
毎年冬の終わりにこの地方では、セヴェレ山脈の麓に広がる大森林の中から百本余りの大木を選定し、伐採を行う。それらの材木は都に運ばれる。
レーニエが領主を努めるこの領主村でも、三十本近い大樹が選定され、伐り出し作業が行われていた。
「伐採場はまだ奥なのか?」
森の中の道を粛々と馬を進めながら、レーニエは傍らを行くジャヌーに尋ねた。道の上だけは、かろうじて除雪がなされている。
「あと少しです。このあたりはまだ森の端なので……ほら、古い時代の切り株があるでしょう?」
大柄なジャヌーは少し道を開けてレーニエを振り返った。今日の領主は帽子の下に仮面をつけている。
ジャヌーは既に領主の素顔を知ってはいたが、レーニエは、知らない人がたくさん集まるような場所では、未だに仮面をつけているのだ。
荷馬車の周りには、レーニエとジャヌーの他に、ファイザルが寄こした三人の兵士が馬をうたせている。雪の嵩はだいぶ減ったが、その分泥濘が多くなり、馬車の車輪が取られないようにしないといけない。
街道の横には比較的穏やかなリームの流れ。見るからに冷たそうな清流が、雪深い森の中を流れている。この上流に伐採地はあった。
四頭立ての荷馬車の御者は、フェルディナンドが務めている。馬車の上にはサリアと村の女たちが三名。そして、大鍋に朝から煮込んでいたシチューと、焼きたてのパンにチーズ、肉類。体を温める効果がある薬酒などが、冷めないように厚い毛布で覆われていた。
「あんなに大きな木を伐っているのか……」
ジャヌーが示した切り株は、大の男が三人がかりで抱えても、周囲を回れるかどうかという程の大木だったのである。
「そうです。全てではありませんが」
「どうやって切り倒す?」
「両側から斧で斬りこみを入れていき、ある程度大きな切り込みになったらそこに楔を打って、今度は大鎚で割れ目を広げていきます。後は木が重さに耐え切れず、倒れるのを待つのです。」
「倒れる方向はなぜわかる?」
「切り込みのどちらかに倒れるのはわかるでしょう? 作業をしているものとは別に、木の上部を観察しているものが複数名いて、木がめりめりと鳴り出したら、倒れる方向を大声で伐り手に伝えます。というか、予めどのあたりに倒すかを決めてから斧を入れるそうですが」
「……すごい」
「しかし、村人総出でかかっても、一日に伐採できる本数は、せいぜい二本から三本ぐらいだといいます」
これはレーニエが思っていたのよりも、ずっと大変な作業のようであった。作業期間で怪我人が出ないことを祈るばかりだ。
アダンをはじめ、村の壮年の男たち、青年達はほとんどこの作業に駆り出されている。そして、彼らの妻や母を初めとする村中の女たちも大忙しなのだ。
男たちのための食事作りは勿論、家畜の世話をはじめとする春の準備、老人や病人、赤ん坊の世話までこなさなければならない者もいる。
レーニエも話をそのような聞きながら、できるだけのことはしようと、セバストを通じてキダムに申し入れていた。事前にいろいろ相談した結果、屋敷の厨房と大広間を提供することになった。
厨房は勿論大人数の食事を一気に作るため。そして大広間は母親たちが働いている間、幼い子供たちを預かっておくため。子ども達の面倒は、年上の子ども達が見る段取りになっている。
城の大広間は使われなくなって久しく、レーニエがこの地に来てからも、使う予定もなくて放りっぱなしだったのだが、久しぶりに賑やかになった。
『昔は、この地に避暑にいらした都の方々を集めて、華やかな宴が催されたと伺っています。』
先ほど村長キダムは、北国らしく重々しい装飾が施された厳粛な大広間に、子供が走り回るのを見ながら感慨深げにそう言っていた。
「こんなことを、ずっと前から続けていたのか……」
「ええ、でもこの地方だけでなく、どこでもこんなものですよ。この地は天領ですから、この時期は大変でもまぁこのくらいで済んでいますが、中には情け容赦のない地方領主もいますからね」
こともなげにジャヌーが受け合う。別に統治者に腹を立てているわけでもなく、ただそれが世の中だとでもいう風な当たり前の様子で。
その気持ちよさそうな話し方にも、屈託のない態度にも変わりはなかった。この寒いのに、いつもの厚手の詰襟の上に、皮の胴衣とマントを羽織っただけの軽装で、明るい顔立ちと輝く金髪に、村の娘たちが憧れの視線を放っている。
耳を澄ますと、森の奥からコーンコーンと乾いた音が聞こえてくる。
「あ、見えてきましたね。あそこです、ほら」
ジャヌーが指さした先には川沿いに少し拓けた場所があって、大きな焚火が設けられ、ちらほらと男たちの姿が見えた。
「これはご領主様。わざわざのお運び、ありがとうございます」
荷駄が着くと、男たちを指揮していたファイザルが足早にやってきた。正式な騎士の礼をとる。周りの男たちも兵たちも帽子をとってそれに倣った
「うん、ファイザル殿、お役目ご苦労である。皆も朝早くからさぞやお疲れだろう……食事を運んできたから休憩をとられるがよい」
周りを見渡して重々しく頷く。見かけは落ち着いているが、内心この大勢の男たちを前に、ちゃんと振る舞えているか、仮面の下は自信のないレーニエであった。
「お屋敷をお借りした者たちに、不備はございませんでしたか。人手は足りましたでしょうか?」
ファイザルはレーニエを見た。
「問題はない。皆、朝早くから奮闘してくれてた。それより皆に早く昼食を。冷めないうちに」
「は。もう少しお待ちを。この先で今朝一番に伐り出した木が、もう少しで川べりに到着しますので」
「どうやって運ぶの?」
「はい。何本もロープを掛けて牛と人間でひっぱり、丸太の上を少しずつ転がしていきます。ご覧になりますか?」
「構わぬのか」
「ええ、こちらです。私の馬にどうぞ」
開けた土地をほんの少し上流に上っただけで、暗い森の中から大きな掛け声が聞こえてきた。幾重にも掛けられたロープに農耕用の大きな牛が八頭も繋がれている。その周りには、牛を軽く鞭をあてて励ます者たちがいる。そしてまた、これも重そうなころ用の丸太を、二人がかりで後ろから前に運ぶ様子を固唾を飲んでレーニエは見守った。
彼等はレーニエとファイザルの姿にも気づきもせず、声を掛け合いながら動き回り、巨大な大木は、少しずつではあるが確実に前進し、やがて川と平行に安置された。
「……」
一仕事終えた男たちがやれやれと汗をぬぐうのと同時に、レーニエも肩の力を抜く。
「ご苦労だった。伐るのは時間がかかったが、運んでくるのは意外に早かったな。」
朝早くから、この木を倒す作業を監督していたらしいファイザルが皆をねぎらう。丸太を運んでいた男たちは比較的若いものが多く、その中には以前レーニエに短刀を投げたナヴァルやその仲間、そしてアダンもいた。ファイザルの部下の兵士も多い。皆レーニエに気づくと、一様に帽子を脱いで頭を下げた。
「さぁ、休憩にするがいい。領主様が食事を届けてくださったぞ」
食事と聞いて男たちの表情が一気に和らいだ。一同、挨拶もそこそこに道具を片付け、少し先の焚き火の方に歩いていった。
最後まで残ったのはアダンとファイザルで、ざっとあたりを見渡し、道具の置き去りがないか点検したり、引きずり出された大木が安定しているかを確かめている。
好奇心を起こしたレーニエも、生木の匂いを漂わすその切り口を調べてみた。その断面は中央に向かって荒々しい表情を見せて尖り、真ん中あたりで繊維が何本も鋭く飛び出している。そして反対側、つまり枝葉の部分は、運搬しやすいように掃われ、積もった雪のあちこちにちぎれた枝が散らばっていた。
「危ないですよ、手袋は外さないでください」
木口を確かめようとしたレーニエにファイザルが声をかけるが、構わず手袋を外してレーニエは白い切り口を晒すその部分に触れてみた。
思った通り、それはひどくざらざらしていて、しかもしっとりと湿っている。濡れていると言ってもいいほどだ。
「お気がすまれましたか?」
いつの間にか傍に立っていたファイザルが、レーニエの手を取る。それは優しい仕草であったが、レーニエの心臓がびくんと跳ね上がった。彼は手袋をしたまま、レーニエの手のひらを包み込んで言った。
「伐りたての木は、樹液でべたべたしているでしょう? 木の種類によっては、なかなか取れないものもありますから気をつけないと」
大きな掌が、華奢なそれを柔らかく擦った。
「あ……ああ。わかった。ありがとう指揮官殿」
戸惑いと動悸を悟られぬように、レーニエは手を握りながら俯く。
「そろそろ職名ではなく、名で呼んでくださると嬉しいのですが」
「え……?」
「ヨシュア、と」
青い目がやさしくレーニエを見下ろしている。動悸は中々収まってくれない。
「ヨ……あのでも……うん、ヨシュア」
思い切ってその名を口にしてみる。少し珍しい、不思議なその響き。
「はい、レーニエ様」
「……ヨシュア、これからも、私にいろいろと教えてくれると、その……嬉しい」
「いくらでも」
頬をうっすらと染めた領主に、ファイザルは勇気づけるように頷いた。
「ご領主様」
声をかけたのは若い村人たちのリーダー、アダンだった。レーニエの手を温めてくれていた手が、そっと離れる。
「アダンです。よくぞおいでになってくださいました。この度は格別のご配慮、痛み入ります」
彼は真摯な目をして帽子を取って、丁寧に頭を下げた。
「ああ……よい」
「私の家内も、娘も今日はお屋敷に上がっております」
「ああ、そうだったか」
「ええ、ただし私の娘は十三歳ですので、広間でチビ共の世話役ですが……末娘のアーリアといいます」
「ヒューイの妹御か。覚えておこう」
「娘はすっかりレーニエ様に憧れておるようで、いつもお噂をいたしております。いつかお屋敷にあがって、領主様にお仕えしたいとかで」
「いつでも待っている」
寒さのせいで赤くなった唇から白い歯がこぼれた。仮面と帽子のせいで表情はわからないが、領主が笑ったのだ。アダンはこの風変りな若い貴族を見つめた。
数か月前、彼等はレーニエを脅して都に帰らそうという暴挙に出た。
ファイザルのとりなしもあったが、レーニエ自身、村人に負の関わりを持つ気は全くなかったらしく、事は嘘のように穏便に取り計らわれた。
結果、主だった者達が、この地方の治安の責任者であるファイザルの訓告を受けただけで、誰も咎を負う事もなく、いつもの生活が戻ってきたのだ。
もっと厳しい沙汰があると覚悟していた者たちは、皆驚いた。それだけではなく、館の維持に必要だからと若い娘達に働き口を提供し、村によく足を運んでは子ども達に声をかけてくれる。
男たちには遠慮があるようで、レーニエは出すぎたことはしようとせず、また、金に無頓着で館に必要な物資の代金や、修理代も家令のセバストを通じて気前よく支払った。
レーニエ自身は、自分のことを語ろうとはしないが、村に現われるたびに優雅な物腰や、美しい銀髪は男女を問わず、視線が集まった。その素顔を見た者があまりいないというのも、新しい事件のない集落の家庭の団らんで、人々の関心を集めるのだ。
そして、ノヴァゼムーリャの新しい領主は、本人に全く自覚はなかったが、次第に人々の信頼を勝ち取るようになった。
「ああ、我々を待ち切れず、皆が食事を始めておりますな。どれ、私もお相伴に与らせていただきましょう。」
アダンが朗らかに若い連中の仲間入りをしにいった。
皆に振る舞う前に、食事が冷めてしまうのではという心配をしていたレーニエだったが、焚火のそばに置かれた鍋からは、まだ湯気が立ち上っていた。
フェルディナンドとサリアが、レーニエ達の食事をまめまめしく準備してくれる。野外での食事は初めてのレーニエは、物珍しそうにベンチ代りの丸太に腰をおろした。ファイザルも隣に座る。
ジャヌーも食べずに待っていてくれたので、皆で仲良く食事をすることになった。
サリアはあちこちから声がかかるので、その相手に走り回っている。
「どうですか? このような粗末な食器で食べるのは」
「へいきだ」
木のスプーンでシチューを掬いあげ、ファイザルに頷いてみせる。隣のジャヌーはすでに二杯目を平らげる勢いである。
「お疲れではありませんか? レーニエ様は朝早くから厨房の監督をされておられましたから」
ジャヌーは大きなパンの切れ端を皿に突っ込みながら微笑んだが、監督は言い過ぎだろうとレーニエは思った。
単に物珍しくて眺めていただけである。ジャヌーの方が水を汲んだり、高いところのものを取ったりと、女たちに感謝されながら活躍したのだ。
「私はなにもしてないから。だが……」
「なんですか?」
「これだけ大量の料理を作るところも初めて見たが、調理とは、なかなか力仕事だ。私でもシチューの鍋をかき回すくらいの手伝いはできそうに思ったのだが……」
「何をおっしゃいます!」
「ダメですよ御髪が焦げたらいかがなさいます!」
フェルディナンドとジャヌーが同時に慌てて止めた。ファイザルは面白そうにその様子を眺めている。
「髪? こんなもの、まとめるか……そうだ、いっそ切ってしまえば……」
「いけません!」
今度は三人が異口同音に叫んだ。
なかなか地味な展開で萌え足りない方、すみません。ちゃんと、ちゃんとしますから! ひっそりでいいので応援してください。