152 ノヴァゼムーリャの領主5−2
さらに三日後の朝。
王宮の北の小門。
大門から少し離れたその門は、堅固だが古びていて、滅多に誰も訪れることのない場所だ。付属の小宮も蔦に埋もれるようにして建っている。
今朝は珍しくその場所に集う人々があった。
「……ここまでついてきてしまったが、きりがない故、この場にて別離の場と致そう」
女王は寂しそうに言った。北門の小宮殿のホールが母娘の別れの場なのだ。
「レーニエ……娘や、ごきげんよう。また会える日まで」
そう言ってソリル二世は、娘を抱きしめる。国王である彼女は、元老院が認めた理由がない限り王宮を出られない。そしてソリル二世は、私的な理由で法を破る事を良しとはしなかったのである。
「陛下……母上もお健やかで」
レーニエは、自分より背の低い母を抱きしめた。
「来年の春には帰ってくるのですよ。ここもあなたのお家なのですからね」
「はい! 必ずや!」
「そしてファイザル殿」
レーニエの背後に立つファイザルに、女王は声をかける。
「は!」
「娘を頼みます。このような願いは御身にとっては、言わずもがなの事であろうが、どうかこの子を幸せにしてやっておくれ」
「は! 陛下に捧げたこの剣に誓って。我が命に変えても」
ファイザルはその長身を折って最深礼を取った。その広い背を女王は何と見たか、彼女は娘を静かにそちらへ押しやった。
「御身が再び戦に臨む事の無いよう、娘が悲しむ事のないよう、国の平和の為に私も力を尽くします。微力ではありますが……娘や?」
「はい」
「こんなことを申しては無粋なのであろうが、孫の顔を見るのを楽しみにしていますよ」
「母上……はい、もしも恵まれましたならば」
レーニエも深礼を取って母の手に口づけた。
「最早行きますか」
「参ります。母上、幾重にも心からの愛と感謝を」
「私からもね。さぁ、お行き! 私が与えた翼で思う存分生きてゆかれるがいい」
「はい! ではこれにて御免仕ります! 母上、さようなら!」
「さようなら」
母の見送る背中は、かつての憂いに満ちた日陰の娘ではない。
愛と希望に満ち溢れた若き領主の後ろ姿であった。
荒野に伸びる街道を馬車が行く。
レーニエは新たな思いで、移りゆく景色を見ていた。
三年前、ひたすら茫漠とした思いを抱えて辿ったのと同じ道を、今度は希望に満たされて走っている。
傍らをゆく精鋭部隊を指揮するのは彼女の愛する夫で。彼は黒い馬車のそばを片時も離れない。
「見えてきました、レナ」
馬車の扉に馬を寄せてファイザルは声をかけた。
アルエの街の郊外。道は小高い丘陵地帯にさしかかっており、家並みはどんどん疎らになってくる。
灌木のよく茂った丘の麓をぐるりと超えた途端、視界が大きく開けた。
「おお! あれはセヴェレの山並み……」
何もないだだっ広い荒野。
そしてその遥か向こうに聳える、峨峨たる青い稜線。
雄々しい山並みをもっとよく見ようと、レーニエは馬車の窓から顔を出した。頬に感じる風には微かに水の匂いがする。
荒野を流れるリームの流れだろうか? けれどこれでは物足りない。もっとノヴァの風を、空を、大地を、直かに感じたかった。
「ヨシュア、私をハーレイに」
「また、あなたは……」
この娘が何時までも大人しくしている訳はなく、いつそう言い出すかと思って常に周囲には気を配っていたが、荒野はどこまでも静かで、人影すら見えない。
念のために走らせている先発隊からの報告も通常通りで、これなら大丈夫だろうとファイザルは思ったが、一応困った風を見せた。
「お願い」
「仕方のない人だ。では全軍停止!」
指揮官たる彼の一声で、部隊は速やかに動きを止める。ファイザルは馬を下りて馬車の扉をあけると、レーニエが勢いよく飛び降りてきた。
奥に座るオリイやサリアに問うような視線を投げかけてみても、笑いを噛み殺すだけで何も言おうとはしない。さぞ妻に甘い夫だと思っているのだろう。
「ヨシュア」
「はいはい」
照れ隠しにファイザルは、勢いよくレーニエをハーレイに乗っけてやった。いつもの男装だから、服装に気を使う必要もない。
「駆けて」
夫の腕の中に収まったレーニエは、大層嬉しげに強請った。ここ数日は馬車での移動だったから、ずっと退屈していたのだ。
それでも妻が自分や夫の立場を慮り、じっと我慢していた事をファイザルは知っている。
だから叶えてやりたかった。このささやかな願いを。
彼は仕方なさそうに笑った。
「少しだけね。後を頼むぞ、オーフェンガルド」
ファイザルは、アルエの街まで出迎えに来ていた友人に声をかける。彼はアルエの街の守備隊長として、ファイザルの指揮下に入る事になっていた。
「任せろ。お馬車は薄暮前にお屋敷に送り届ける」
彼も心から嬉しそうに、妻を自分のマントで包み込んでいるファイザルに微笑んだ。
「ご領主様を頼むぞ」
「三騎、ついて来い!」
愛馬ハーレイに拍車をかける。
「はぁ!」
忽ち馬車を置き去りにして、黒い軍馬は荒野を駆けてゆく。
「ああ……ノヴァの風だ」
解れた銀髪がハーレイの足並みに合わせて翻る。
「ご気分は? 姫君?」
「最高! でも姫君じゃないから。ああ、私も早くリアムで駆けたいなぁ! 彼女は元気かな?」
レーニエはノヴァゼムーリャに置いてきた自分の愛馬を思った。
「セバストさんがしっかり世話をしていますよ」
「そうだね。あ、フユコウジの林だ! 今年の冬にはまた探しに行こう。ねぇヨシュア?」
「楽しみだ」
真冬に実を付ける赤い樹の実。
生まれて初めて自分でもいだ果実を口にして喜んだ娘は今、自分の妻で。片手で巧みに手綱を操りながら、ファイザルはその時の事を思い出した。
ハーレイは優秀な軍馬だ。
ほんの僅か駆けただけで、夏草に覆われた荒野に、ところどころ果樹園や畑が見え隠れするようになった。そして、街道の向こうに——。
「ヨシュア、村が、村が見える!」
レーニエが指差す。
「ああ」
白く伸びる街道の先に、ノヴァゼムーリャの領主村が見えてきた。
低い屋根の農家は見えないが、村の入り口近くに立つ櫓や広場の集会所の塔が見える。
ファイザルはさらにハーレイを煽り、付き従う三騎を離した。
カッカッカッ!
ハーレイは小気味のいい調子で固い地面に蹄の音を響かせて走る。彼は最後の緩いカーブを黒い旋風のように駆け抜けた。
「? ヨシュア、あれはなんだろう?」
村はもう目前だ。
そして街道の両脇には。
黒い軍馬を見とめた途端、遠くからわぁっと歓声が上がるのが聞こえた。
人が、人が、人々が——。
皆晴れ着を着こみ、手に手に花や帽子を持って街道に溢れていた。我先に駆け出したのは子どもたちだ。
「レーニエ様! ご領主様ぁ!」
「おかえりなさい!」
「おかえりなさぁい!」
小さな足がいくつも懸命に自分たちの方へ駆けてくるのを見て、レーニエは驚きのあまり息をのんだ。
「あれは……マリ、ミリア! 他にもいっぱい! ヨシュア、これは一体どういうこと?」
「漸くお戻りなったご領主を、皆心から歓迎して出迎えているのでしょう」
「私を? 本当に?」
「ふふふ。今度はどうやら匕首を投げられないで済みそうですね。さぁ、レナ、手を振ってあげなさい。ノヴァゼムーリャの領主のご帰還だ!」
心からファイザルは笑い、妻の頭に唇を落とした。
「レーニエ様!」
黒い巻き毛を乱したマリが息を弾ませて、ハーレイのそばまで駆けてきた。
レーニエが声をかける間もなく、後から後から次々に子どもたちが。
そして、あっという間に人々が二人を取り囲む。
涙をにじませたセバスト、村長のキダム、アダンにナヴァル、ペイザンやアンナ婆の姿まである。
皆に取り囲まれ、さしものハーレイも歩みを停め、甲高く嘶いた。子供たちの頬は赤く、娘たちは色とりどりのスカーフを振っている。若者も年寄りもいる。
「ご領主様!」
そして、彼らは一斉に野の花を二人に投げかけた。
それはまるで、舞い落ちる雪の切片のようにも見えーー。
「おかえりなさい!」
「おかえりなさい!」
口にするのは喜びを込めた迎えの言葉。
レーニエは足を踏ん張って全身で受け止めた。彼らの温かい心を。
「みんな……ただいま。私はノヴァゼムーリャに帰ってきたよ」
舞い散る花が銀色の髪を飾る。
かくしてノヴァゼムーリャの領主は、己を見出した北の大地へと帰りついたのであった。
お帰りなさい!
次回最終話です。