150 ノヴァゼムーリャの領主4−2
「そんなにお綺麗だったのですか?」
「そぅよぅ〜、まったくこの世の物とは思えないくらい。お美しい花嫁姿で……古風だけどすごく上品で、まるで夢の国の天使か、妖精のようだった……」
サリアは花を付けた蔓草を這わせたアーチの下で、夢見るようにふわりと回った。その瞳は、目の前のジャヌーを映してなどいない。
しかし、石でできたベンチに腰掛けた青年は、好もしそうにその様子を眺めている。
瑠璃宮付属の庭園。典雅な彫刻を施した噴水の調べは、夏の夜の濃密な空気を涼しげにかき混ぜる。
「うわぁ、ただでさえお綺麗なレーニエさまがそんなに? 俺も見たかったなぁ。それに花婿姿の将軍閣下も」
「ああ、あの方もご立派だったわよ」
こちらの感想は、ごくあっさりしている。
「レーニエ様に首飾りを贈られていたわ。ご自分の瞳と同じ色の石の入った。きっとアレね、いつもレーニエ様に自分を感じていて欲しかったのよ。なんってロマンティック!」
サリアは、螺旋模様の円柱を抱きしめてジタバタしている。
「へぇ〜あの人が首飾りをねぇ。ご自分で選ばれたのかな?」
「さぁ、自分で聞いてみなさいよ。それはそうと」
「何?」
「ファイザル様ってお金持なの? あの首飾りは私が見ても、とても立派なものだった。あまり大袈裟すぎず、繊細な銀細工で」
漸く落ち着いてきたのか、サリアは実際的な質問をして、ジャヌーの横にすとんと腰をおろした。
「さぁ……命を張って長く最前線にいた人ですから、きっとそれなりのものはお持ちかと。地位もあるし。俺だって、ここ一年の給料は、びっくりするくらいだったし。でもそうか、俺もサリアさんに何か贈るといいんだな。すみません、あまりそういう事に気がつかなくて」
「あら?」
ちら、とサリアは横目で金髪の青年を見たが、ここで何かを強請るのも興ざめだと思い直した。
「私は今はいいわ。とにかく花嫁となられたレーニエ様が落ち着くまでは……ああ、それにしても、美しいお式だったわぁ。宮廷中の皆に見せびらかしたかったくらい」
「羨ましいです。俺も出たかったな」
しょんぼりした様子でジャヌーは広い肩を落としたが、この明るい青年はそれほど酷く落ち込んでいる訳でもなかった。
「あ、ごめんなさい。私ばっかり感動しちゃって。だってさ、女王陛下の私邸での関係者のみのお式だったんですもの。私だって参列できたのが奇跡だったのよ」
「はぁ」
「だけど、酷いじゃない! ファイザル様ったら、婚儀と女王陛下主催のささやかな宴に出られたあとは、直ぐにお仕事に戻ってしまわれたのよ? レーニエさまは笑ってお見送りになっていたけれど。お可哀そうに……きっと今頃お寂しい思いをしてらっしゃるわ」
実際はそれほどでもなかったのだが。
「ああ、南部から早馬が来たって言ってたっけ? いや、ご心配なさる事はありません。ウルフィオーレの新しい市長から、駐屯軍についての問い合わせがあっただけで。今やファイザル閣下は全軍の要ですから」
「それでジャヌー、あなたはこれからどうするの?」
「何がですか?」
「何がじゃないわ。あなただって出世したのでしょ? これからは部下を持つ身分だわ」
「ああ、まぁそうですけど……でもあんまり実感ないです。とりあえず閣下にくっついて、ノヴァへ帰ります」
「そうなの?」
そう答えたサリアの声は、喜びが隠し切れていない。
「ええ、俺だってあの土地が好きですし」
「だけど、実家には帰らないの? 御両親に報告とかした方がいいんじゃない?」
「そりゃいつかは。だけど、当分はサリアのように、レーニエ様とファイザル将軍が落ち着かれるまで、お傍でお仕えしたいです。それに俺の実家は東部にありますが、家は兄弟達が引き継いでいるし……そうだ、いつか一緒に行きませんか? のんびりしたいいところですよ、ノヴァと変わりないくらい田舎ですけど」
「まぁ、私を誘ってくれているの?」
驚いた振りを見せ、サリアが目を見張った。瞳に星が宿っている。
「ていうか、一応申し込んでいるつもりなんですけど」
「何を?」
サリアは充分ジャヌーの意図を認識していながら、愛嬌たっぷりにしらばっくれて見せた。
「あ〜その……いつか俺達も、今日のお二人の様になれたらなあって……思っただけで。も、勿論、サリアさんがお嫌じゃなければですけど」
「サリアでしょ?」
「あ、そうだった、サリア。どうですか?」
「……」
「ダメですか?」
「そうじゃなくてね、ちゃんと言いなさいよ。言いたい事があるんなら。私が勘違いをしているかもしれないし」
「わかりました」
ジャヌーはしばらく躊躇う様子を見せたが、直ぐに大きな笑顔を見せた。立ち上がると、ベンチに腰掛けているサリアの前で片膝をついて手を取る。
「サリア。いつか俺と結婚してください」
「いいわよ」
「えっ! 本当ですか?」
あまりにあっさりした対応に、曲がりなりにも緊張していたジャヌーは拍子抜けしたように眉を下げた。
しかし、忽ち喜びの方が勝り、サリアの両手を握りしめて額を付ける。
「よかった! 俺、きっとがんばってサリアさ、サリアを幸せにしますよ」
「ありがとうジャヌー。本当言うとね、とても嬉しいの。だけどごめんね、私は一生レーニエ様にお仕えするつもりだけど、それでもいいの?」
「それで構いません。だって俺は、一途にレーニエ様にお仕えされるサリアさんに惚れたんですから」
夏の空のように明るい瞳が、鳶色の大きな瞳を覗きこむ。そこには紛れもなくお互いが映っていた。
「ふふ、わかっていてよ」
そう言うと勢いよく広い胸に身を投げかける。ジャヌーはその体をしっかりと受け止めた。
「それに俺にだって、レーニエ様は特別な方です。あ、ヘンな意味ではなく、純粋に臣下として。確かに以前は、恋に似た感情を持っていた時もありましたが……」
「それもわかっているわ。誰だって私のレーニエ様には恋するのよ」
「今だけ俺を見てもらえると嬉しいんですけど」
ジャヌーは腕にそっと力を込める。噴水の音がやけに響いた。
「ジャヌー?」
「はい?」
「あなたに敬語を使うなって言ったって、もう無駄のようだからはっきり言うけど」
サリアは逞しい胸を両手で押し返して顔を上げた。可愛い眉が悪戯っぽく上がっている。ジャヌーは素直に腕を緩めた。
「あ、ほんとだ。で、なんですか?」
「今ならキスしてもいいわ?」
「本当ですか? 実は俺も今頼もうと思ってたんですよ」
***
その夜、ファイザルがレーニエの部屋に戻ったのは、遅い初夏の宵がすっかり暮れた頃であった。
一刻ほど前まで居座っていたシザーラは、さすがに無粋だと感じたのか、明日また来ると言い残して瑠璃宮を辞していた。
「ただ今戻りました」
近従が手伝おうとするのを断り、自分で上着を脱ぎながらファイザルは、この朝自分の妻になったばかりのレーニエを見た。
彼女は既に部屋着に着替えており、薄いガウンをはおっていたが、胸元で留めつけていないそれが、肩から滑り落ちるのをものともせず、彼に抱きついた。
「お帰りなさい!」
「遅くなって申し訳ありません。このような日に」
彼はふんわり体を包み込みながら、風呂上がりなのだろう、ほんのり濡れた芳しい髪に鼻を埋めた。
この瞬間の為に、今まで書類と格闘していたのだ。
「いいの」
漸く逞しい首に回した腕を緩め、顔を上げると次の瞬間には唇が被さる。ぴったりと体が合わさり、微かに揺れた。
サリアには休みを与えてあるし、気の利く近従はとっくに部屋からいなくなっている。
開け放した窓から、夏の夜気がさやさやと忍び込むだけであった。
「ヨシュア、食事は?」
「庁舎で済ませました。あなたを前にゆっくり食事など摂る自信がなかったもので」
彼は唇が触れ合う距離しか離れずにそう言うと、再び妻の体を抱きしめた。
贈られた宝石類は身につけていない。元々身を飾ることに熱心ではない彼女の事だから、どこかに仕舞ってあるのだろう。愛らしい谷間を覗くにはその方が都合がいい。
「レナ、俺にはまだ信じられない。あなたが俺の妻になっただなんて」
「……?」
どぉして? と言うように腕の中の娘が首を傾げる。彼は愛しげにその顔を見下ろしたが、その瞳は真剣だった。
「俺は一生家庭など持たない、持ってはいけないと思っていたから」
「だけど私たちはもう家族だ」
「ええ、でも、だからこそわかったことがある。俺がこの手で殺めてきた人間にも家族がいたのだ。愛する者を奪われた人達が俺を許すだろうか? 俺なら許さない。もしあなたを奪われたとして」
その先は考えるのも嫌だというように彼は言い止み、心配そうに自分を見つめているレーニエの額に軽く唇を落とす。
「いや、すみません。今日のような日に言う事ではありませんでした」
「ねぇヨシュア?」
「なんですか?」
「あの……よければ、そんな他人行儀な言葉づかいはよして欲しいのだけど。私はあなたのつ……妻になったのだから」
「……」
「確かに私は母上の娘だけれど、私は私なんだもの。ね? ヨシュア?」
「敵わないな。ええ、俺は初めて会ったときからこうだから、特に畏まっているとかいう気はないんだけれども。まぁ努力はしましょう」
「ん。だから、私には何でも話して欲しい。あなたの苦しみも哀しみも。罪というなら罪の事も」
「レナ……」
「あなたが国のためにしてきた事が罪と言うなら、私もそれを受けたい。一人で苦しまないで。私も連れて行って」
「俺のゆくところにあなたを?」
物心ついてから、軍隊と戦争が記憶の大部分を占めている。
血と泥と汗の世界。突き詰めれば死。
これからも戦が起きないと断言できないだろう。そんな世界へこの佳人を連れてゆくわけにはいかない。
しかし、レーニエが言うのは、そういうことではないだろう。彼女は心を寄り添わせたい、そう願っているのだ。
「ついてゆくから。どこまでも。いけない?」
「嫌と言っても離さない。レナ」
く、と笑い、ファイザルは彼の妻たる稀人を抱き上げた。
今後何が起ころうとも、どんなに遠くに行こうとも心は置いてゆく。この娘の元に。
「とりあえず」
「なぁに?」
「このまま寝台にお連れしても?」
レーニエは返事の代わりに、昂った男の香りを漂わせる胸に頬を寄せた。
「レナ、疲れた?」
ひと時ののち、身を起こした男はうつ伏せになった妻の髪を掻き上げ、項に唇を寄せた。うとうとしていたレーニエはわずかに身じろぐ。
「んん、大丈夫。でも、ちょっと暑い」
「すまない、レナ。いけないとはわかっていても、あなたを前にしては歯止めが利かなくなる。これじゃ十代の小僧だな」
まだ火照りの残る肌にうっすら浮かんだ汗を拭ってやりながら、ファイザルは照れ臭そうに笑った。
「そうではなくて。前から夏は少し苦手で」
「そうでしたね」
「ノヴァの夏は、ここよりも凌ぎやすいだろうなぁ。あなたの仕事はいつ目処がつくの」
「本当に帰るのですか? あの辺境に」
「そのつもり」
「ここにいれば、何不自由ない安全な暮らしができるのに」
「これ以上甘やかされたくないの。母上にもあなたにも。あの地にいれば、ほんの少しだけでも私は役に立てる」
「つくづく変わったお姫様だ」
「父上と母上の娘だからね」
くすくすとレーニエは笑った。
「なら一月後には」
「絶対?」
「約束する。帰りましょう」
夫の言葉を聞いて、レーニエは腕を突っぱねて身を起こした。猫のように優雅な動作も父親譲りなのだろうか?
ファイザルがどうするのか見ていると、にこ、と口角を上げて彼の上に覆い被さり、自分から唇を押しつけてきたので好きなようにさせる。
銀色の髪が幾筋も滝のように顔の周りに落ちる。薄く口をあけると、小さくて熱い舌が滑りこみ、優しく吸ってやる。娘はくすぐったそうに喉を鳴らした。
「一月は我慢するから、帰るときは一緒に帰ってね。でないと」
漸く満足したのか、唇を離してレーニエは言った。
「でないと?」
「一緒に寝てあげない」
「!」
断固とした宣言。
「それは……大変困る」
苦笑しながら言うと、腕を伸ばして腰を引きよせた。
「あん」
蜜月の夜はどこまでも甘い。