148 ノヴァゼムーリャの領主3−2
フェルディナンドは、灰青色の瞳に静かな光を湛えてレーニエを見守っていた。
年端もいかぬ少年の頃から一心に仕え、その幸せを願い続けてきた愛する人を。
すっかり伸びた背丈も、短くなった髪も、直線がかった頬の線も最早少年のものではない。
レーニエ様……。
幼い頃から一心に仕えてきた、美しい人。
訪れる人もない王宮の奥の小さな館で、俯きがちな主を微笑ませようと、彼はいつも心を砕いた。
「美味しい」と言って貰えるために、茶の淹れ方をオリイに習い、料理や菓子に詳しくなった。本好きの主に追いつきたくて、たくさんの本を読み、自然科学や歴史について長い時間話し合えるようにもなった。
夜は健やかな眠りの為に部屋を整え、入浴を終えた主の長い髪を艶が出るまで梳り、夜着を整える。
そして朝は、爽やかな寝覚めの為に清涼な飲み物や、香りをつけた手水を用意する。これは母親から、もう主人の寝間に入ってはいけないと言われた日まで続いた。
だけど、本当の意味であの方を微笑ませ、顔を上げさせたのは俺ではなかった。
猛烈に反発を覚えた男は、彼から見ても強く優しい立派な大人の男だった。しかし長い間、それを認めようとしなかった自分は、何と子供だったのか。
その男は、愛しくてたまらないように、花嫁衣装を纏った主を見下ろしている。
あの人は命を掛けて戦い、自ら運命を切り開いて欲しいものを手に入れたのだ
俺も強くなりたい。いつかあの人をも凌ぐような強い大人の男に。
その時、つとレーニエの視線が彼に流れた。泡雪のようなヴェールの下から赤い瞳がフェルディナンドを捉え、滲むような微笑みが零れる。
レーニエ様……!
フェルディナンドは、愛する主の幸せそうな笑顔に、万感の想いを込めて微笑み返した。
「これにてお二人は、ご夫婦となられました事を宣下いたします」
カーンが、二人を夫婦と認める書面を読み上げる。女王が膝まづく二人に高らかに祝福の辞を述べた。
「ファイザル殿、そして我が娘レーニエ。お二人の婚儀を心から祝福いたしまするぞ。これよりそなた等は夫婦となり、末永くお互いの為に生きてゆくがよろしかろう。レーニエ・アミ・ドゥー・エルフィオール。そなたは我が一人娘とはいえ、王位継承権は既に放棄しておる。そなたが未婚なれば復権の機会もあったが、今回の婚儀によりそれが永久に遺棄される事となり、王女の尊称および、王家の一族である事は認められるものの、既に与えられた領地以外の相続権も失効する。異存はあるまいな?」
「はい」
「よろしい。また、ファイザル将軍、御身は優れた武人である。ザカリエ戦役でのお働きは幾久しく語り草となろうが、今後もこの国の守りの要になって頂きたい。よろしゅう頼みましたぞ」
「心得ましてございます」
「善哉善哉。お二人の新たなる門出に、心よりお祝いを申し上げる」
女王は厳かに言祝ぐ。が、そこで相好が崩れた。
「と、ここまでは国王としての祝辞です。さ、二人ともお立ち」
母親の顔に戻った女王は、頭を垂れていた二人の手を取って立たせると、まずファイザルに向かって頷いた。
「ここからは母として申します。ファイザル将軍殿、娘を頼みまする。これは父親の血を引いたのか、大人しそうに見えて、時々とんでもない事をしでかすようですから」
「は。それは充分承知いたしております。命が縮む思いを幾度もいたしました故」
「幸い、あなたの言うことはよく聞くそうですが」
「いえ、それも近頃はあまり自信がありませぬ」
「は、母上、ヨシュアも何を……」
あっさりと母の言葉を肯定したファイザルに、心外な、という風でレーニエが頬を膨らました。
「私はこれでも考えて、行動いたしておるつもりです」
「ふふ、そうならいいですが。ファイザル殿、まだまだ御身に苦労は掛けようが、しっかり手綱を引いてこの娘を御されよ。そしていつかこの手に、孫を抱ける日を心待ちにしています」
「御意」
力強く彼は頷く。
「そしてレーニエ、娘や」
「はい」
「これはどなたか、わかりますね?」
ソリル二世は背後の肖像画を振り返った。
「父上にございます」
「そう。嘗てのブレスラウ公レストラウドの血は、そなたに脈々と受け継がれておる。こうして見るとよう似ていますね」
「そうでしょうか?」
絵姿の美丈夫は、華やかな戦装束を纏い、美々しく波打つ金髪の下から、ともすれば不遜とも思える表情を青い瞳に浮かべ、人々を見下ろしていた。それは自信のなさそうなレーニエの赤い瞳とは一見、似ても似つかぬように見える。
「そうですとも。これは絵姿を描かせるのを嫌ったあの人が唯一残した肖像画ですが、無理やりでしたが、描かせて本当によかった。まったくよく似ています。いつもどこか遠くを憧れているような瞳や、姿勢の良い立ち姿などがそっくりです。無鉄砲さもね」
最後の言葉にレーニエは笑った。
「似てると言われて嬉しゅうございます。父上と母上の子に生まれて本当によかった」
「おお……娘や」
ソリル二世、アンゼリカ・ユールはその愛娘に歩み寄り、柔らかなヴェールごとその肩を抱きしめた。
「愛していました、あなたを生んだ瞬間からどこにいてもずっと。これからもあなたは、我がただ一人の娘です。あの人の子どもです……レーニエ」
「はい……はい、母上。私も……」
母子はお互いを見つめ合い、接吻を交わす。居合わせた人々は深い感銘をもって、その光景を見守っていた。
「実はそなた達の為に、新たに宮を立てようと思っています」
女王は娘の頬を両手で包みこんで言った。
「宮、でございますか?」
「ええ。今まで肩身の狭い思いをさせたが、これからは堂々と我が娘を名乗ってもらえる。ご夫婦になられた後も周囲に気を使わぬように瑠璃宮の奥に、お二人の屋敷を用意する所存です。これからはいつでも会えるのです。レーニエ、私の可愛い子」
母の提案にレーニエは直ぐには答えられず、夫となったファイザルを見上げる。
「ふふ、そのような困った顔をするでない。ここはそなたの婚礼の場ではありませんか」
「母上……」
「そなたの思うところを言ってごらん。聞かずとも母にはわかるような気がしますが」
「はい。では——」
レーニエは意を決したように顔を上げた。
「母上のお心は大変嬉しゅうございます。この気持ちに偽りはありませぬ。ですが、私は母上から賜った我が領地に戻りたい。そう願っておりまする。私に生きる意味を教えてくれた人びとが住まう、あの遥かな北の地に」
「都を、王宮を去ると申されるか」
女王は静かに問うた。
「申し訳もございませぬ。でも、できますれば」
レーニエの言葉に迷いはない。
「ふふふ。まぁ、わかってはいましたが、そのようにきっぱりと申すでない。寂しくなるではありませんか」
「も、申し訳……」
「二月は、ここで過ごすのですよ」
「え?」
「一年の内、二月は、母の元へお帰りなさいと言っています」
「母上! では!」
「ファイザル将軍には既に、北方守備を担う二個師団司令官の辞令を渡してあります。将軍が平時に都に常駐せず、一守備隊長を務めると言うのは、異例と言えば異例ですが、国軍の若い人材の育成と、ノヴァゼムーリャを含む、北西から北東国境の守備と治安の全てをお任せいたしましたからね」
レーニエは隣に立つ彼女の夫を見上げた。湖色の瞳は微笑を湛えて彼女を見下ろしている。
「ヨシュア……そうなの?」
「はい。勿体無き仰せではございましたが、謹んでお受けいたしますと申し上げました」
「まぁ、私もあなたが、大人しく王宮に留まるとは思えなかったものでねぇ。先手を打ちました」
「母上」
「愛しい娘。私がそなたにしてやれるのは、これくらいしかなかったのです。そなたの父上は、自由な魂を持ったお方であった。そなたもお好きなように羽ばたかれるがよい。彼の地で良き領主になられよ」
「誓って! 陛下」
「おお、そうそう。もう一つそなたに贈り物があった。」
花嫁衣装を着たまま、膝を付こうとうするレーニエを制するように、女王は声を上げる。
「そなたもこれで、晴れて我が王家の一人。継承権を放棄しようとも、家の子であることには変わりがない。王家の人間には。その存在を象徴する貴石が与えられる。そなたにはこれを。ルザラン」
王弟にして宰相ルザランはレーニエに向かって微笑みながら、女王に美しい木彫りの小箱を乗せた盆を差し出した。
女王は娘の前で小さな小箱を開ける。
そこにはレーニエの瞳と同じ紅玉が嵌った指輪が収まっていた。かなり大きな石だが、指から浮き上がるような造りではなく、繊細な銀細工に縁取られ、大仰な印象はない。
紅玉はさほど珍しい宝石ではないが、指輪に嵌め込まれたそれは、めったにないほど透きとおり、しかも中央に桃色の六条の光を引く星型の斑が浮かんでいた。
「それは星光紅玉と言い、大変珍しい石だそうです。そなたの瞳によく似ている。美しいでしょう?」
「はい」
「さぁ、これを。将軍殿に嵌めてお貰い」
そう言うと、女王はファイザルに小箱を差し出す。彼は恭しく受け取って、指輪を摘まむと、花嫁の華奢な指に滑り込ませた。
「ありがとう」
「よくお似合いです」
ファイザルは低く言って微笑み、その指先に口づけた。
「レナ……おこがましいのですが、姫、私からの贈り物も受け取って頂きたく」
「え?」
「私もあなたにと、これを用意いたしておりました」
ファイザルは胸元から細長い小箱を出した。
驚くレーニエの前で開けて見せる。そこにはファイザルの目の色と同じ、青い石の首飾りがあった。
中心に大きな石、そしてやはり銀細工で繋がった幾分小さめの石が、それを囲むように並んでいる。
「あなたの瞳の色だ」
「ええ、そのつもりでつくらせました。レナ」
ファイザルは小箱から首飾りを摘み上げると、レーニエの胸の窪みに石が収まるようにとめてやる。
普段宝石など身につけないレーニエだが、愛する人たちから想いの詰まった貴石を同時に贈られ胸が一杯になった。
「おお、こちらもよう似合うておる。ファイザル殿、礼を申しますぞ」
「何条をもって」
ファイザルは恭しく騎士の礼を取り、改めてレーニエに向き合った。
「かくして、二人は夫婦となった」
奇妙にサバサバした調子で女王は言ってのけ、二人を一同の方へ向かせる。
「まことにおめでたきこと」
「おめでとうございます」
「お幸せに!」
「レーニエ様! ファイザル様!」
いつの間にか皆が持っていた花籠から、色とりどりの花びらが二人に向かって投げかけられた。