146 ノヴァゼムーリャの領主2
瑠璃宮の四階。
華麗な雰囲気の他の建物と比べ、落ち着いた佇まいのこの宮殿は、召使たちが使う個所でも堅固に、そして洗練された造りになっている。
レーニエもこの階の半分を貰っているが、フェルディナンドやサリアもそれぞれ個室を与えられている。
昼過ぎにファイザルに瑠璃宮まで送られ、待ち構えていたサリアに直ぐに風呂に入れられ、着替えさせられたまではいいが、すぐに寝台で休むように言われても頑としてレーニエは聞き入れなかった。
「私なら平気だ。先にフェルの様子を見たい」
「でも、あの子は今少し熱があって……実はまだ寝ていますの」
「え?!」
レーニエは、フェルディナンドの眠っているところを見たことがない。
士官学校に入るまで、常に彼はレーニエの傍にいて、何くれと不自由のないように気にかけてくれていた少年なのだ。
フェルディナンドが休んでいるところなど想像できなかった。しかも熱があるなど。
「フェルが、熱……」
驚きのあまりレーニエが頬をこわばらせていると、慌ててサリアが言い繕った。
「あ、いえ、大した事は全くありませんの。こちらに帰って来てから、なんだかんだで、学校も忙しかったろうし、ここ数日休みでも殆ど眠っていなかったらしくって。おまけに昨夜はロクに食べていないのにお酒を飲んだでしょう? あの子にしては珍しく今日は遅くまで眠っていて、今朝様子を見に行ったら額が熱くて。あの子はすぐに起きると言ったのですが、私と母さんが止めたのです。そんな赤い顔でお仕えしていては迷惑だって」
「……でも」
フェルディナンドが眠れなかったのは、レーニエの町行きの事で気を揉んでいたからだろう。昨日は一日緊張しっぱなしであったに違いない。
自分のせいだと思い当ったレーニエは、頭を垂れて唇を噛んだ。
「そんな顔をなさらないで。レーニエ様が心配なさる事ではありませんわ。さっき見に行ったらもう殆ど平熱でしたもの。まぁ、あの子もここ半年は、大変だったから、たまにはこう言う事もありますわよ。何とかの撹乱って言うでしょう?」
それでもレーニエは、自分が休むよりも先にフェルディナンドを見舞うと言ってきかなかったのだった。
「フェル……具合はどう?」
レーニエが入って来た時、フェルディナンドは寝台に横になっていたが、直ぐに起きようとするのを、レーニエは止めた。
ついてきたサリアは、そっと出ていく。
「私の我儘のせいで、皆に迷惑をかけてしまったね。すまない、フェル」
「もう何ともありません。レーニエ様こそ……」
「頭は痛くないの? ヨシュアは頭痛がするかもしれないと言っていたけど」
レーニエは自分が熱のある時、オリイやサリアがそうしてくれるように、横たわる少年の額に手をあてた。自分と比べてみて、ほんの少しだけ熱いような気がする。
「ありません。もう横になっているのには飽きました。お許しを頂いて起きたいのですが」
レーニエの指先が額に触れた一瞬だけ、フェルディナンドは瞳を閉じたが、すぐに光の強い黒い眼が、いつもの生意気な表情を浮かべる。
「だめ。今日一日はこうしておいで」
「そんな……体が鈍ってしまう」
「一日くらいでそんな事にはならない。お前もたまにはゆっくりするといい」
「レーニエ様は」
波打つ前髪を指で梳かれながら、少年はレーニエを見上げた。
このような角度から主を見つめるのは初めてで、少し戸惑う。
「レーニエ様は、あれからどのように過ごされたのですか?」
「私?」
「ええ、私が情けなくも、セルバローさんの勧めてくれた酒で、酔い潰れてしまってから」
その時の事を思い出すと不甲斐なく、恥ずかしくて堪らないが、今更隠しようもない。
それよりも気になるのは、レーニエの事だった。
「姉さんから、あの人が来たって聞いていますが」
「うん、ヨシュアが来てくれた。それでジャックジーンと違うお店に行って、少しだけお酒を飲んで……それから」
なんと言ったらいいものかレーニエは言い澱む。こう言う事は黙っておいた方が良いように思える。
「あの人と過ごされていたのでしょう?」
逡巡しているレーニエに助け船を出すように、フェルディナンドは聞いてやると、躊躇いながらも銀の髪が揺れた。
「うん……そう。朝まで一緒に過ごしたよ。心配をかけてすまない」
「……」
眼を覚ました時、レーニエが帰ってきていない事を、姉から聞いた時からわかっていた事だが、レーニエが認めるのを聞くと、少年の胸がずきりと痛む。
とっくに諦めていた想いがまだ、燻っているように。
「いいえ、レーニエ様が良いのなら俺はいいのです。あの人は、あなたを守って下さるのでしょう?」
「うん」
大人びた少年の問いかけにレーニエは頬を染めて答える。その様子をフェルディナンドは複雑な思いで受け止めた。
サリアが整えた部屋着はゆったりとしていて、肌は見えないのだが、広がった袖口がするりと落ちた時、白い手首に淡い色が浮かんでいるのが見えた。
「……それで、ご婚儀の日取りは、決まったのですか?」
少年は細い腕を見つめている。
「えっと、オリイの話では、もうすぐ決まるのではないかと言う事だったけど。母上の日程を調整中のようだ」
「そうですか」
「フェル?」
「はい」
「私は結婚式が済んだら、ヨシュアとノヴァに帰ろうと思っている。もう随分留守をしてしまったし、残してきた皆の事も気になるから。それで……フェルも来てくれないだろうか? 学校があるのはわかっているけれど……できれば一緒に」
「俺……私が、まだ必要ですか?」
「もちろん。お前には甘えてばかりで情けないのだけれども。私はフェルがいないととても寂しい。一緒にいて欲しい」
「ありがとうございます。こんな私にもったいないお言葉です」
少年は静かに言った。
少し考えて言葉を選び、再び主人に向き合う。
「けれどやはり、私は一度始めた事は最後までやり遂げたい。士官学校をきちんと卒業して、私にできる事を探りたいのです……いけないでしょうか?」
「フェル……」
「それに、もう私がいなくても、あの人がレーニエ様を守ってくださいます」
「ヨシュアとフェルでは違うんだ。フェルは私の弟なのだもの。大切な弟が離れているのは……だが、そうだな。うん……」
レーニエは言いかけた言葉を切って、自分を見つめている黒い瞳を見た。見慣れた、でも初めて見る切なげな色を浮かべた瞳を。
「やはりこれも私の我儘なのだろう。フェルにはいろんな道が選べるのに……すまない。つまらぬことを言って、またお前の翼をもいでしまうところだった」
まだ柔らかい少年の頬に触れる。
しかしそれは記憶にあるよりも肉が少なく、その下のしっかりした骨格を想起させた。もう彼は幼いレーニエの小姓ではない。
「フェル、いい。お前は好きに羽ばたくがいい……でもいつかは帰って来て? 私の元に」
「レーニエ様……はい、お約束いたします。私は何時でもレーニエ様の忠実な僕です」
「僕ではない、弟だ」
「ええ、そうですね。弟です」
レーニエの指が頬を撫でるに任せてフェルディナンドは呟いた。
いつの間にか彼よりも酷く小さくなってしまった手。思わず自分の掌を重ねる。
幼い頃から何度この手を取って来たことだろう。
その瞳が曇らぬように、どんな些細な感情も読み取り、優しい主が哀しまぬように常に気を配り。
「私はあなたの弟です」
フェルディナンドは、そっとその手に口づけた。
「うん。フェル……大好きだ。愛しているよ」
「ええ、俺も愛しています」
少年は晴れやかに微笑んでみせる。
レーニエもにっこり笑った。
「よかった。これ以上私が我儘にならなくて。うん、本当に良かった、フェル? その内、学校を見に行ってもいい?」
「私は構いませんが、きっとあの人が許さないでしょうよ?」
男ばかりだしさ。
「ヨシュアが一緒なら、許してくれると思う。いい?」
「はぁ……まぁ」
とりあえずフェルディナンドは承知しておく。またお忍びに出られたら、堪ったものではないからだ。
「よかった。楽しみができた。う〜、ふぅ〜ん……あれ? なんだか急に眠くなってきた……フェル、ちょっと脇によって」
「は? 何を……え? レーニエ様?」
小さな欠伸を漏らすと、レーニエはごそごそと寝台によじ登り、慌てるフェルディナンドの横に滑り込んできた。
昨夜はほとんど眠っていないのである。
「ちょっと、何をなさいます? お休みになるんなら、ご自分のお部屋に!」
「いいの、ここで。なんだかすごく眠い。そう言えば昔、一緒に寝たことがあったね。もう直ぐ離れるんだから、久々に一緒に寝よう」
そう言うと、フェルディナンドが何を言いだす間もなく眼を閉じてしまう。
レーニエが寝つきがいい事を知っているフェルディナンドは、既に半ば眠りの国に落ちかけている主人を見て大いに焦った。
「フェル? こっちに」
「うわ、待っ……あの、レーニエ様? レー……」
無礼を承知で揺すぶろうとして、フェルディナンドはふと躊躇った。レーニエの癖で顔をやや傾け、少年の方を向いて瞼を閉じている。
玉を刻んだような小さな顔。長い睫毛。幼い頃から見慣れているはずなのに、見飽きない美しい人。
自分を弟と呼ぶ。
「レーニエ様?」
返事がない。
フェルディナンドは額にかかる、まだ湿った髪を指で整えてやったが、瞼は開くことはなかった。
これくらいは許してもらえるだろう。もう直き、いや既にあの人のものだとしても。
白桃の頬に唇を寄せると、そのままレーニエの隣に横たわる。肌掛けを整えてやることも忘れない。
「……お休みなさいませ。我が君」
そう囁いて、少年は自分も瞳を閉じた。
「こちらですわ……って、あらら?」
半刻後、見舞いに訪れたファイザルを案内してきたサリアは、仲良く布団に包まる主と弟を見て小さく声を上げた。
二人は額をくっつけあって眠っている。銀と黒の髪が絡まり、敷き布に散らばっていた。
「まぁまぁ。随分話しこんでると思ったら、仕方のない人達ですわねぇ」
サリアは笑いを噛み殺しながら、驚いているファイザルを振り返った。
「二人ともぐっすり眠っているようですし……起こすのは可哀そうな気も。ねぇ? ファイザル様?」
ほんの少しだけ意地の悪い響きを含むそれを、ファイザルは穏やかに聞き流した。彼はこれくらいの事ではもう揺るがない。
「そのようです。このままにしておきましょう」
この場面もお気に入りです。
フェルは立派な男になることでしょう。