145 ノヴァゼムーリャの領主1−2
「……子ども」
「やっぱり無理かな?」
「いや、こうもはっきり言われてしまうと、さすがに焦ってしまって……」
どこまで開放的なんだか、あのおばさんは。
ファイザルは頭を抱えた。確かに行為をしたのだから、いつ子ができても不思議はないのだが。
「嫌なの?」
複雑な表情で考え込む男を前に、レーニエの表情は曇る。
「嫌とは何が?」
「ヨシュアは、私に子どもができたら嫌なのかなって」
「……」
「確かに私にはよくわからないのだけれど」
心配そうに曇る赤い瞳。
「そんな事を心配していたのですか?」
「うん……」
「あなたは本当に、俺の子を産んでくださるおつもりなのか?」
「うん」
「……感謝します」
真剣な面持ちで自分を見つめる娘を、男は眩しそうに見返した。
自分がどんなに大変な荷を背負うとしているのか、わかっているのだろうか。
「感謝」
「ええ。惚れた女が自分の子を産んでくれるなんて、男にとって、これ以上の幸せはありません。だが……許されるのだろうか? こんな血に塗れた手であなたを奪っただけでもおこがましいのに、子どもなどと。俺がそんな幸せに相応しいかどうか疑わし……ん?」
熱い掌が自分の口を塞いでいる。
「私のヨシュアを侮辱するのは許さない」
きりりと眉をあげて、レーニエは言った。それは昨夜、彼が言った言葉そのままで、見事に切り返されてしまっている。
ああ……この娘には叶わない。愛も涙も偽りはないのだ。
ファイザルは黙って、自分の手をレーニエのそれに重ねると、優しい拘束を解いた。
「わかってはいたが、やはりあなたが俺を生かせてくれるんだな。俺の罪は消えないけれども」
そう言うと、ファイザルは柔らかい掌に唇を押し当てた。
「あなたがいるから俺は生きてゆける。レナ、どうか俺の子を産んでください」
「はい」
恥ずかしそうに、しかし、はっきりとレーニエは頷いた。
「さぁ、そうときまれば食べて下さい。はい、乳酪。確かにあなたは、少しばかり小さいようだ」
「うん、母親になるには、豊かな体つきにならねばいけないのだろう?」
「程度にもよりますが」
三年前ノヴァの地で初めて会った時は、確かに少年のように直線的な体型であったが、今ではその頃の事が嘘のように女らしい体つきになっている。
昨夜充分それを堪能したファイザルは、これ以上レーニエに人目をひくようになってほしくはない。
「私はあのフレデリカ殿や、前にあなたが躍っておられたご婦人のような豊かな体つきになりたい」
「止めておおきなさい」
相変わらずこの子の嗜好はわからないな、とファイザルは思った。
「だけど、ナディア殿……オーフェンガルド殿の奥方が、赤ちゃんを産まれる時には随分大きくなられたから。びっくりしてしまったくらい」
「それはお腹に子どもがいるから自然にそうなるのであって、あなたは今のままのあなたでよろしい。無理せずとも自然に任せていればいい」
「そぅお?」
この方面のもう少し知識が必要だと思う。王宮に帰ったら早速調べてみよう、レーニエはこっそり思った。
「そうです。さて、お茶を飲んだら出ますが、大丈夫ですか?」
茶を淹れながらファイザルは言った。
「うん、ご飯を頂いたら力が湧いた」
「はい、お茶。熱くて濃いので注意して」
「うん……美味しい。あなたは何でもできるんだな」
茶を入れ終え、食器をてきぱき片付けはじめた無駄の無い動きを観察しながら、レーニエは感心しながら見ている。
「褒められるのは面映ゆいですが、これくらいは普通でしょう」
「でも、私は自分で服も着られなくて」
「それはまぁ、お育ちを考えれば当然だから」
「でも、これからは私もお茶くらい淹れられるようにならないと。今度サリアに習ってみる」
持ち慣れない分厚いカップを両手で持ち、感慨深げに瞳を巡らしながらレーニエはファイザルの淹れたお茶を啜る。
「賭けてもいいですが、絶対に教えてくれませんよ」
「なら、教えてくれる人に習う」
「お止めなさい。あなたには似合わない。俺もさせたくはない」
「む……うん、わかった」
レーニエは大人しく話題を変えた。
「フェルは大丈夫かな」
「頭痛くらいは残っているかもしれませんが。大丈夫でしょう」
「皆は私を、心配してるかな?」
「それも大丈夫。オリイさんがうまく計らってくれていますよ、だが」
ぐい、とファイザルが小さな卓に体を乗り出した。
「今回の事はもういいません。しかし二度ともう、俺のいない所で街に出ないと約束してください。身が保たない。いいですね」
唇にくっついていたパンの粉を舐め取りながら、ファイザルは真面目な顔で言い聞かせた。
「んん。じゃぁ、今度はあなたが一緒に行ってくれる?」
「ああ、約束しよう。レナの頼みとあれば」
街中を黒い軍馬が闊歩してゆく。
騎馬が珍しい訳でもないし、目立つような速度は取っていないのに、通りを歩く人々が視線を投げかけてゆく。
背筋を伸ばして巧みに手綱を操るのは、英雄の誉れ高い新将軍。
そしてそれだけでなく。
しっかり胸元を留め合わせた夏用のマントの中に、国王の一粒種を忍ばせている。
「ちょっと外を見たい。マントから顔を出してもいい?」
レーニエは布の合わせ目から顔を覗かせた。
「しばらくはご辛抱を。さぁ、一気に瑠璃宮まで駆けますよ! しっかりつかまって」
人々が何事かと噂し合う中、秘め事を抱えた黒い人馬は、門へと繋がる大通りを駆け抜けて行った。
「ここは昨日通ったな。いつもこんなに賑やかなの?」
レーニエは目だけを出してきょろきょろしている。道の両脇には歩道、中央には馬車や馬が混乱しないように溝が切ってあり、左右で流れを分けている。
「大抵はね。人が多いので却って安全だから、この道を選んだのです。道も広いし、視界がきく」
程なく美々しくも、いかめしい西大門が見える。
普通は厳しい門衛の誰何も、ファイザルの前には何ほどの物もない。
精悍な顔つきの四人の門衛も、通行役人も崇拝の目つきで彼を見上げると、最敬礼をして通過を認めた。
きっかり一刻後。
「宣言通り、昼前にご帰還だってな。この野郎」
正午を少し回った頃。
王宮の南に位置する軍部棟。将軍の執務室。いつの間にか扉が頑丈なものに取り変わっている。
「ふん、今回に限って貴様を処分はしないが、二度とするなよ」
「何の事だ? 街歩きに関して陛下のご許可は頂いたぞ」
「しらばっくれるな。フェルディナンドのことだ。何を飲ませた? サリアさんの言伝に、伏せっているとあったぞ」
「人聞きの悪い。俺ぁ別に、あの可愛げのない坊主には何にもしていないぞ」
「ぬかせ。お前の従者たちの話では、お前が見せた酒を飲んですぐぶっ倒れたそうじゃないか」
「そうだったかな? 奴があんまり睨みつけてくるから、ほんの少し焚きつけてやっただけだよ」
「なんて言ったんだ」
「さぁて、一人前に騎士気取りなら、このくらいの酒を飲んでも平気でいられるようになればいいとかいったかな。無理やり飲めとは言ってない」
「一体どんな酒を飲ませた?」
「ケイヒンチュ」
「そんな強い酒を! 鬼か、貴様は」
「だから、強制はしてないだろ? 後は奴の判断だ。小僧だが、大の男でもしり込みするようなことをやってのけたんだろ? ガキ扱いをしちゃ失礼だ」
「フェルディナンドは、レーニエ様が可愛がっている小姓だ。最早小姓とは言えんが。彼に何かあったら俺はあの方にも、父親のセバストさんにも顔向けができない」
「そらぁ、難儀なこって。急にお身内が増えましたなぁ」
「お前な」
口の減らない朋輩にげっそりしたように、ファイザルは言った。
「で、どうなんだ?」
「何がだ!」
「王女様のご機嫌は?」
赤毛の男はそっけなく背けた肩を乱暴に抱く。
「……悪くない」
セルバローが驚いた事に、嫌そうな顔をしながらも返事が返ってくる。
してみると、昨夜は相当いい思いをしたと見える。
「その顔は首尾は上々ってところだな」
「そうなるか」
「へえっ。だけどあの人はまだ子供だろ? お前にはちと役不足じゃないか」
「役不足は俺の方だ。あの方にはかなわん」
「確かに眼を瞠るほどのビジンではある。将来どんないい女になるか楽しみだわ」
「お前には見せてやらん」
……こいつ!
セルバローは唇をひん曲げて半目になった。
「お前、自分がどんな顔をしてるか見てみ?」
「何とでも言え」
「あ〜あ、掃討のセスも終わりだな」
「そんな奴はいない方がいんだ。第一、俺はそんな二つ名を、自分から名乗った覚えはない」
「はいはい、さいですか。せいぜいあの姫様と討ち死にしてくれ」
「望むところだ」
エルファラン随一の闘将は大真面目に居直った。
一方、王宮の反対側では別の展開が繰り広げられている。
「フェル?」
レーニエはそっと樫の扉を開けて小姓の部屋へ顔を出した。
最後まで一気に針し抜けますの!