143 刹那12(もうひと組の恋人)
「ちょっと! 痛いじゃない! 放してよ」
広大な白亜宮の内部。
幾つも連なる庭園と宮殿を結ぶ渡り廊下の一つで、サリアは大声を上げた。
幸い夜も遅く、奥まったこの辺りには誰もいない。
この区域は、召使たちの居住区なのだ。少し行けば近衛の詰め所もあるが、声の届く範囲ではない。
ジャヌーはどんどん歩いてゆく。大柄な青年の腕は強く、サリアは本当に手首が痛くなってしまった。
「キャッ」
段差に躓いた振りをしてサリアはよろけ、驚いたジャヌーがやっとその歩みを止めて振り返ると、サリアが身を屈めて手首を擦っている。
「痛ぁ……手首、捻っちゃったかも」
「え!?」
元々優しい青年は、慌てて掴んでいた手首を放し、もう一方の手で今度は慎重に調べた。
「本当だ、跡になっている。すみません」
ジャヌーはしょんぼりと謝った。
「ほんとに痛いんだから……なんだってそんなに怒っているのよ」
「……」
「言いなさいよ。馬車から下りてからここまで、ずっと黙ったまんま引きずって来られたんですからね」
サリアは憤然と胸を張った。
今日は侍女のお仕着せではなく、レーニエと同じように可愛らしい町娘の装いである。それは彼女の髪と瞳を引き立て、こんな時ながらジャヌーは見蕩れてしまった。
「あなたが酒を飲んで、他の男と楽しそうにしていたもんだから」
「だって、本当に楽しかったんだもの。久しぶりに街中に出たし」
「確かに俺も、ずっと将軍閣下の元で忙しくしていたけれど、あんまりじゃないですか」
恨めしそうにジャヌーは気の強い娘に訴えた。
「祝賀の夜には……あんなに」
「ちょっ! ここでそんな事を言わないでよ。私だって別に遊んでいた訳ではないわ」
「レーニエ様の侍女として、お忍びにご同行して……あっ!」
そこでサリアは愕然と顎を落とした。
「レーニエ様! レーニエ様はどうしたの! あんた知ってるんでしょ!」
何よりも大切な女主を、今まで忘れていたことが信じられない。
サリアは自分に対する憤りを、そのまま罪の無いジャヌーにぶつけた。自分よりずっと体格のいい青年の胸ぐらを掴んで噛みつく。
「なぜ次の馬車に乗っていなかったの!?」
「わ! お、落ち着いて……殿下は将軍とご一緒のはずです」
「何ですって! どこ!? 今どちらにいらっしゃるの?」
益々怒り狂ってサリアは怒鳴る。
この調子では騒ぎを聞きつけて、誰かがやってくるかもしれない。そうなればレーニエの事が露見してしまう。
焦ったジャヌーは、サリアの口を掌で塞いで廊下を離れ、庭園の奥まった茂みにサリアを引きずっていった。
「何すんのよ!」
「すみません。でも大声を出さないでください。誰かに聞かれたら、それこそ一大事でしょ?」
「う」
ジャヌーの言うのは正論だったから、言い募りたいのをぐっとこらえて、サリアは黙った。
「で、レーニエ様は?」
「はい。でも、俺も正確な場所は知らないんです。ですが、ファイザル閣下と過ごしていらっしゃることは間違いありません。閣下から指示を受けたレナンから耳打ちされました」
「本当にどこか知らないの?」
「誓って本当です。閣下は様々な情報収集や潜伏活動の為に、ファラミアじゅうに隠れ家を持っていて、多分その内の一つに」
あんのクソ将軍! 私のレーニエ様をよくも連れ込んだわね!
ギリギリと拳を震わせて立ち尽くすサリアを見たら、さしもの「掃討のセス」でさえ怯むのではないか、とジャヌーは思った。それほどサリアは激昂していたのだ。
「レーニエ様ぁ……」
「あの……サリアさん?」
怒っていたサリアが今度はなぜか、悲しそうな顔になって来るのを見て、ジャヌーは本気で心配になって来た。
「きっと大丈夫ですから。将軍閣下の手配に抜かりがあるはずはありませんし、雷神のセルバロー閣下も一緒のようですから」
「あんたにはわからないのよぅ……」
レーニエ様は……レーニエ様は、どんどん大人になってしまわれる。
もう私を姉のように慕ってくださった、可愛いあの方ではなくなってしまう……。
サリアは今更のように、弟のフェルディナンドの気持ちがわかった。
もう私なんか、必要ないんじゃ……。
「わあぁ〜ん! レーニエ様ぁ」
「ちょっと!? サリアさんっ!」
「レーニエ様にはもう、私なんて要らないんだぁ」
大きな鳶色の瞳から大粒の涙が零れるのを見て、人のいい青年は大いに焦った。
勿論、先ほどの酔いがまだ残っているせいもあるのだが、なかなか泣きやまないサリアにジャヌーは途方に暮れ、終にその大きな胸の中にサリアを抱き込んだ。
「泣かないでください、お願いだから」
「だって、だって今までレーニエ様は、私とフェルだけのものだったのに!」
サリアは、ジャヌーの腕の中で泣きじゃくっている。
「あの方がどれだけ可愛らしくて、素直で、いい子なんだか、あたしが一番知ってるんだから! あんなどこの馬の骨とも知れないあいつより! 私のレーニエ様だったのに!」
「今でもそうじゃないですか。ね? 泣かないで。レーニエ様はサリアさんをとても頼りにして、慕っておられますよ」
「デモ、そうじゃなくなってしまうんだわ! 全部あの、あの男のせいで!」
「ファイザル閣下は立派な男です」
ジャヌーの心酔している上官を、あの男呼ばわりできるのは、サリアだけだろう。
「そんなのわかっているわよ! だから腹が立つんじゃない!」
そこでサリアは、がばと顔を上げてジャヌーを睨みつけた。
「あんたは私を慰めてくれているの? それともあいつを庇っているの?」
「俺はサリアさんに俺を見て欲しいだけですよ」
ジャヌーは静かに言った。正直そうな青い瞳はサリアを見つめている。
「え?」
「本当にそれだけです、から」
「だ、だって、それって、もしかして私を好きって事?」
「今更何言ってんです! この間の夜そう言ったじゃないですか!」
情けなさそうにジャヌーはそう言った。
あの夜とは、戦勝祝賀会の夜の事だ。
あの時レーニエが休暇を与えたので、サリアはジャヌーと祝賀ムードのファラミア市内に出かけていたのだった。
あの時も確か、かなり酔っ払ったような記憶があるサリアである。しかし、彼が照れながらそう言った事はうっすらと覚えているが、ここはシラを切る方が都合がよさそうだ。
彼の本音を引き出すためには。
「あの時、朝まで一緒にいたでしょ? 忘れちゃったんですか?」
「や、覚えているけど……あの時はなんだか勢いで、そう言ったんだって思ってしまって……」
「違います!」
堪りかねてジャヌーは言い放つと、サリアの口を塞ぐように抱きしめた。
「わぷ」
「わぷとは何です、わぷとは。男の一世一代の告白なのに!」
今度はジャヌーが憤慨している。サリアは素直に謝った。
「じゃあ……悪いけどもう一回言ってくれる?」
サリアはジャヌーの腕に抱かれたまま、ジャヌーを見上げた。
「そしたら信じてあげる」
意地悪そうにサリアは言った。
ノヴァゼムーリャで出会った時は初々しい従卒だった彼だが、こうやって出世した今でも、正直な人物である事をサリアは知っている。
そして、ジャヌーが自分を憎からず思っている事も。
「なんだ、言えないの?」
「いっ、いえ! では……コホン。俺はサリアさんがすごく好きです」
一息にジャヌーはそう言い、照れ隠しに気の強い娘の頬を大きな手で包み込んだ。
「大好きです」
「私の一番はレーニエ様だけど。それでもいいの?」
「ええ、レーニエ様を大切にしているあなたがいいんです。俺の一番はサリアさんですし」
「あんたって……」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないわ。でも」
「何です?」
「その、敬語みたいなのはやめてくれる?」
「え〜、だってこれは」
初めて会った時から貴人の侍女と言う事で、ジャヌーは尊敬をこめて敬語を使ってきたのだった。女性に対しては丁寧な男なのである。
「それからサリアって呼んで」
「……さ、サリア」
「そう。そんな感じ」
ジャヌーの背後で梢がカサカサと鳴った。
「サリア?」
「なぁに?」
「愛してます」
「まぁ、嬉しい」
サリアは、つま先だってジャヌーに唇を寄せた。ジャヌーも心から嬉しそうにそれに応じる。
夏の夜の事とて星はあまり出ていないが、庭園の花々から香る香りが二人を満たした。
「……レーニエ様も今頃、こうやっているのかしら?」
逞しい腕に凭れてサリアは言った。
「本当言うと心配なの。あの人は心まできれいな方だから」
サリアは美しい主人が今頃、どう夜を過ごしているのかと思いを馳せながら呟いた。
「少しの事で傷つかれてしまうの……」
「ええ。でも絶対に大丈夫。将軍はこの国で一番の男です、長年仕えてきた俺が保証します」
「そしてあなたは二番目?」
「え? はは。そこまで自惚れてはいませんが、サリアさん、サリアの中で二番目ならそれでいい」
「ジャヌー?」
「ん?」
「あんたって本当にいい男ねぇ」
広い胸に包みこまれてサリアは囁く。
「今頃気づいたんですか?」
ジャヌーはにっこりと笑った。
夏の夜は恋人達のものである——
もう一組の恋人の話でした。
次から、最終章です!
最後まで是非お付き合いくださいませ!




