141 刹那11−1
一刻ほど前。
ファイザルが定例の午後の会議を終えたのは、夏の遅い夕焼けが宵闇にとって替わられようとする狭間の頃だった。
会議の合間に、彼は雷神一行を尾行させていたジャヌーを通じ、小さな報告を受け取っていた。
内容はセルバロー 一行が、都の東地区にある兵士たちの集う居酒屋の一つに入ったというものである。
その店は、その類の店の中では比較的ガラもよく、料理の質もいい方だったが、それでも酒を扱う。いい気分になった若い兵士たちが、ハメを外してしまう事も珍しくない。
そんな時は、元兵士である屈強な店員に摘み出され、揉め事になることはないが、レーニエやシザーラが行く店としては異例であろう。
報告によると、セルバローは、店の奥を貸しきりにしているそうだが、ファイザルはどうにも心配だった。
出がけに見たレーニエの姿。何しろ元が元だけに、どうしたって町娘には見えないが、年相応に可愛らしくよく似合っていた。
迎えを遣る事も考えたが、生半かな人選ではセルバローに一喝されて終わりだ。
おまけに彼は、この役目を非常に楽しんでいる。やはりどうしたって、自分が迎えに行かなくてはならない。
ファイザルは、いつにもましてすごい勢いで仕事を片付けていたのである。
会議に提出された懸案事項は即決で判断を下し、余裕のある項目は次回送りにし、唖然とする議長役の書記官を尻目に、ぐいぐい議題を進行させてゆく。しかしその忍耐もそろそろ限界だった。
陽が傾くにつれ、仕事の能率が落ちてくる。そして脳裏にちらつくのは、銀髪を編んだ初めて見る髪型、都で流行の胸を強調する服装。貴婦人にはありえぬ丈のスカート。それを無遠慮に見つめる男たちの視線。
だがしかし、執務室に戻った彼を待ち受けていたのはやはり、急ぎの署名を要する書類の山だった。
「ええいくそっ! 大概にしろ! 俺は事務官でも祐筆でもないんだ!」
珍しく悪態をついて、彼はペンを床に放り投げた。パシンと乾いた音をたててペンが転がり、インクの染みを残す。
「あ〜、壊れてしまいました」
市中の尾行から戻っていたジャヌーが、先が割れたペンを拾い上げる。
「うるさい! やってられるか! さぁ行くぞ!」
そう言うと、ファイザルは勢いよく立ちあがる。待ってましたとばかりにジャヌーは進み出た。
「はっ! 既にご用意は整っております。東の門から出られます。供は誰をお連れになりますか?」
「お前と……そうだな、レナンにしよう」
そう言うと勢いよくマントを羽織り、ファイザルは大股で部屋を出た。
「あ〜あ、仕事を途中で放り出してきちゃって、明日の朝、事務官どもが嘆くぜ?」
「知るか! それにもう大体すんだ。後はあいつらだけで十分だ。早急に事務に優れた将官を育成せねばならん。戦は当分ないんだからな!」
「あなたのおかげで」
意外にもレーニエがファイザルを持ち上げた。
「まぁ、そうです」
「うわぁ、言うわ言うわ」
「これ……いかがですか? 少し癖がありますが」
「うん……あ、辛い」
ファイザルが差し出した小皿の料理を少し食べたレーニエは、慌てて杯を取る。
「ははは! お口に合いませんでしたか? 親父、サンガリヨンを」
「サンガリヨン?」
「ああ、酒の中に様々な果物を入れた飲み物です。これならお口に合うでしょう」
酒を運んできた年配の店主は最初こそ、ファイザルの出世を祝ったものの、その後は気を利かし、話しかけようとしない。
そういう細やかな気遣いがなされるのも、ファイザルがこの店を選んだ理由だろう。
「どうぞ、お嬢様」
その店主は玻璃の美しい杯に入った赤い酒を差し出し、レーニエに笑いかけた。
「ありがとう」
「どういたしまして、この兄さんが女性を連れて、こちらに来るのは初めてですよ」
「そうなの?」
ファイザルは黙って杯を傾けている。
「ええ、私はこの方がずっと若い頃から存じていますが、こちらに来る時はいつもお一人でした。他の場所では知りませんけどね?」
「本当に?」
ファイザルは答えない。
「ですが、そんな昔のことを詮索なさいますな。このお酒は私の奢りです、さぁどうぞ」
店主は柄の長い匙を差し出しながら言った。その匙で中の果物を掬い上げて食べるのだという。
「二度と来ない今を楽しんでください」
「ふぅ〜ん、そういうものなのかぁ。お酒、ありがとう……うん、とても美味しい。あ、そうだ、ヨシュア、これを」
レーニエは自分に持たされた可愛らしい手提げの中から、もさもさした形の包みを取り出す。
「なんです?」
「昼間シザーラ殿が誘ってくれた店で買ったんだ。あなたにと思って。でも、実際に買ってくれたのはサリアだけど」
恥ずかしそうにレーニエは、包みをファイザルに差し出した。
「……開けてみても?」
中から出てきたのは深い青の夏用のマント。
「これを俺に?」
「うん、似合うといいけど」
「俺が試着してやったんだぞ! ありがたく思え!」
セルバローが無闇に威張った。
「あのな、なんでお前に感謝しなくちゃならんのだ? お前が買ってくれたわけでもなかろうに」
セルバローに憎まれ口を聞きながらも、ファイザルは立ちあがって青いマントを羽織った。
「どうですか?」
「素敵……」
「いつも黒ばかりだから照れますが」
「似合ってる」
「ありがとうございます。大事に身に着けます」
「うん。だけど、いつかちゃんと自分で働いて得たお金で、あなたに何か贈りたいな」
「ぶっ」
相変わらず自分の立場を分かっていない娘に、セルバローは吹きそうになるのを堪えたが、ファイザルは大真面目でその言葉を受け止めた。
「俺もあなたにいつか何かを贈りましょう。何かお望みはありますか?」
「いいや? もう、手に入れてしまったから……」
「それは……自惚れてもいいのかな?」
赤い瞳が自分を見上げるの受け止め、ファイザルは目を細める。
「うん」
けっ!
やってられんわ! とばかりに雷神は、ひたすら飲み、食う。
「だが、俺もあなたに持っていて欲しいものがある」
「それはなぁに?」
「今はまだ。けれども近いうちにお渡しいたしましょう」
「では今はこれをどうぞ。お嬢様に、どうですか? 一興でしょう?」
いつの間にか後ろに立っていた店主が、ファイザルに楽器を差し出した。それはトゥーレと呼ばれる十二弦の弦楽器だ。弦は一度に二本ずつ抑えられるように間を詰めて張ってある。
胴体の部分は表面に美しい寄木細工が施してあった。
「トゥーレ。あなたはこれを弾けるの?」
思いがけないことに、レーニエは驚いてファイザルを見た。彼が楽器を奏でられるなんて初耳だった。
「ええ、昔はよく手すさびにね。ですが、かなり久々です。上手く弾けるかどうか」
「聴きたい」
「お耳汚しですよ」
「弾けよ。俺が歌ってやる」
セルバローが徐に立ち上がるので、ファイザルも苦笑しながら足を組んで楽器を抱えた。カウンターの客から拍手が上がる。
楽器の感触を確かめるように弦を爪弾く。調弦はなされているようだ。
和音の涼しげな調べが狭い店内に響いた。
「『丘の上の娘』。いいか」
「ああ」
シャラン
弦が鳴る。
掃討のセスと雷神のセッションですよ!
実は私も昔はギターを弾いておりました。