135 刹那6
「な!」
茶で染まった重要書類に見向きもせず、ファイザルはつんのめった入室者を凝視した。
ジャヌーも茶器を携えたまま、横で硬直している。
「……あ、あのヨシュア、驚かせてすまない。そのぅ〜、扉を開けようと思ったら、急に誰かが後ろから突き飛ばすものだから……シザーラ殿かな? もぅ、いったい何だって……」
唖然とする男たちの前で、レーニエはもごもご言い訳をしている。だが、それを聞いている者はいなかった。
「……レーニエ様、その……それは?」
「え? ああ、そうだった。先に報告をしなくて申し訳ない……というか、私では段取りがわからなくて。だけど直ぐ来られると思う。言い忘れたが今日、これから街に出ようと思って。天気もいいし」
「は? 今日? 来る? 誰が?」
「行程なんかも、あなたに許可を貰うと言っていたから。もうおっつけ来られると思う。えと、私が言うのは、ジャックジーンのことなんだけど」
「あいつのことはどうでもいいです。今日……何がなんですって? そしてその格好は?」
ファイザルは我慢強く尋ねた。
「あ、うん。えっとこれは、市民に紛れた方がいいという事だったんで、街娘の恰好をサリアとシザーラ殿が整えてくれたんだ。ここに来るまではマントを頭から被らされていて。でもこれなら大丈夫、目立たないだろう?」
男たちは黙り込んだ。
大丈夫? 何が大丈夫だというのだろう? この娘は。
「自分的には慣れなくて少し恥ずかしいのだけれど。こんな髪形は初めてだし」
そこには健全な成人男子の目には、非常にけしからぬ服装に身を窶した娘の姿があった。
長い銀髪は両脇で硬く三つ編みにしてあり、耳の横で二重に輪を作って花型の髪飾りで止めつけてある。
そして、街の娘の間で流行っている、白いふんわりしたシャツにぴっちりした編みあげの胴衣。二段に広がった踝までのスカートは、淡い橙色で可愛い足首が覗いている。
「どうかな?」
頬を染め、判定を待つ被験者のように小首を傾げてファイザルを窺う様子は、自覚がない分、凶悪とも言えた。
「……すぐにお着替えなさい」
ファイザルが口をきけたのは、たっぷり一分後だ。
「なぜ? どこかいけない? これなら普通の町娘のようだと思うんだけど。ちょっと恥ずかしいけど、慣れたら動きやすそうだし」
「普通の町娘だって? こんな……これでは……」
襲ってくれと言わんばかりじゃないか! と言う言葉をやっとのことで呑み込み、彼は険しく眉を寄せた。横でジャヌーはうっとりとレーニエを見つめている。
「全く全部いけません! まったく、サリアさんは何だってこんな」
つかつかと歩み寄る男の前で、再び扉が開け放たれた。
「いよう! 将軍閣下! 失礼いたします! おやぁ、これはこれはレーニエ様、驚きました。素敵になられましたね! こんな女の子を連れて歩けるなんて、俺ぁシアワセもんだ!」
「黙れ馬鹿者! 誰が許可するといった。絶対にダメだ!」
「あれ? 国王陛下直属の侍女殿から、陛下直筆の許可証をもらってきた帰りなんだがな。ナニお前? 主命に逆らうの?」
「なんだって!? 陛下が? お前一体いつそんな手回しを」
「俺にだって、それなりのツテはあるのさ。ほれ、見てみ?」
セルバローはぴらり、とファイザルの眼前に書紙を垂らした。
それは公式な書類ではないし、印璽もないが、確かに女王の直筆の署名がなされている。
『いってらっしゃい、楽しんでおいで。ただ、くれぐれも無茶はお慎みなさい。警護の方の言う事をよく聞くのですよ。 母』
何を考えておられるんだ、あの方は!
あの親にして、この娘ありと言うところか?
ファイザルは頭を抱え込んだ。
「どうだ? 恐れ入ったか。この石頭」
「ヨシュア……お願い。行かせて。この前は許可くれたのに」
瞳を潤ませて見上げる恋人に、情けなくもファイザルの眉が下がる。
「レーニエ様、俺は何も意地悪で、あなたを王宮から出さないと言っている訳ではないのですよ」
「知ってる。私を心配してくれている」
「心配? そんな言葉じゃ到底足りません。どんなに注意をしたって、あまりに目立ってしまう。これではオオカミの群れに子羊を放すようなもんだ」
「じゃあ、ショールをお被せますわ!」
後ろからシザーラが元気よく入って来た。
サリアもその後ろでレースの布を手に控えている。二人とも町娘の装束である。
彼らも大層可愛らしかったが、目立つという点ではレーニエやセルバローの比ではない。
「うふふふ。私達の腕前はどうでございます? レーニエ様って本当にお可愛らしくて、飾りがいがありますわ。女の私でも恋してしまいそう」
「だから困るんです、シザーラ姫。聞けばこの計画は、あなた様から持ちかけられたとか」
「ええ、そうですわ。閣下」
「ヨシュア、シザーラ殿に怒らないで。お願いだから」
「怒ってはいません、ただただあなたが大切で、自分の不甲斐なさに幻滅しているだけで。まったく、これでは俺が悪者ではないですか……セルバロー、行程を見せろ」
「はいよ」
雷神は懐からぽいと書紙を投げ出した。彼も地味だが粋な私服に身を包んでいる。それは彼の燃えるような髪を引き立て、どの女も振り返るだろう。
「ふん、お前にしてはまともだな」
ファイザルはざっと書面に目を通した。
その様子を見てレーニエの顔が輝き、取りすがっている太い腕をぎゅっと抱きしめる。この娘がこんな振る舞いをするのは最近になってからだが、王宮第二の貴婦人の自覚は全くないらしい。
「では、ヨシュア!」
「ふむ。大通りに国立劇場、中央市場か。さすがに下町はさけてあるな。もっとも人通りの多い場所ばかりだから油断はできないが……ん? 最後は……何 ?この店は」
「そう、俺たち軍人専用の居酒屋さ。ここならきちんとした店だし、妙な奴は来ない。飯を食っても……いや、お食事をなさっても安心だ。庶民の味も味わえる」
「市長様から伺いましたが、現在特に厳しい警備が常時必要な治安の悪い地域は、下町の一部以外ではないそうですわね。流石に王都ですわ」
シザーラも背伸びをして書紙を覗きこみながら言った。この娘も余り貴婦人らしくない。
「表向きはね。ですが、ここは大都市です。評判の良くない者たちの集まった地域はあります。最近は人の流出入も激しいし。検問は厳しくしてありますが、油断は禁物です。念のために行程に沿って重点的に警備を強化するように命じます。ジャヌー、ライカにこれを見せて、人数を増やすように連絡を」
「はっ! ただいま」
やっとレーニエから目を反らし、ジャヌーが踵を返した。扉を通り抜ける時にちらりとサリアと目が合う。サリアはにっこりとそれに応えた。
「俺がお供できるとよいのですが、この後、どうしても外せない案件があって……できるだけ早くに都合をつけて合流しようと思います」
「大丈夫。雷神殿が付いている。あと、フェルも東門で合流してくれる」
「セルバロー、この前言ったこと覚えているな。万が一」
「わかってる。俺だってお前に首切られて晒し者にはなりたくないからな。俺と、クランプ、タッカーが常にお伴する」
クランプ、タッカーと言うのはセルバローの従卒と従者で、いずれも百戦錬磨の強者達だった。
「またガラの悪い連中を……くれぐれもお気をつけください。シザーラ様も。あなた様に何かあったら、戦争再開かもしれないんですよ」
「承知いたしました」
「レーニエ様、声をかけてくる男たちは無視し、絶対にセルバローの傍から離れないように」
ファイザルは嫌そうに付け加えた。
「はい。約束する! ありがとう、ヨシュア」
嬉しそうに見上げる白い顔に接吻しそうになるのを何とか堪え、ファイザルは可愛らしく結われた髪に指を滑らせた。
「言い忘れましたが……とてもお似合いです」
「ん……」
「あなたを恋うる男の気持に免じて絶、対に無茶はなさらないでください。では……頼むぞジャックジーン」
「お任せを。将軍閣下」
雷神は陽気に請け合い、一同を振り返った。
「では、お嬢様がた、早速都見物へと参りましょう! イザ!」
いざ!