134 刹那5−2
「失礼いたします」
ノックの音と共に金髪の青年が入って来た時、彼の上官は、朝見たときと同じように執務机に向かい、静かにペンを走らせていた。
「昼食をお持ちいたしました。こちらで宜しかったでしょうか?」
「ああ。貰おう……脇へ置いてくれ」
昼食にしてはやや遅い時刻である。
しかし、ファイザルの仕事の内容をよく知るジャヌーは、その切れ目とファイザルの心の機微を読んで、この時間に運んできたのだろう。
補佐に付いている三人の事務官達には、食堂へ行って摂ることを勧めたため、無駄に広い室内には今、彼とジャヌーの二人だけである。
「大変でございますね。先ほど事務官殿が食堂に下りて行かれるのを見て、ご用意いたしましたが」
「すまんな。ジャヌー、少尉殿に給仕などさせて」
ファイザルはパンをちぎりながら苦笑した。
食事こそ大きな執務机から離れ、脇の卓に準備してもらったが、南の地よりの報告書がそこにも進出している。
午後までにこれにも目を通さなくてはいけない。味気なくも慌ただしい食事であった。
「いいえ。そのようなお気遣いは御無用に願います。俺は好きでやっているんですから」
ずっと従卒を務めてきたジャヌーも、この度その働きを認められ、めでたく士官になっていた。
しかし、彼自身には昇進したいという欲はなく、ただファイザルの下で働きたいと、それだけの望みしか持っていなかったので、個室を与えられた今でもファイザルの世話を焼いている。
新たに従卒を募ろうにも、目下のところ多忙すぎて、選別する余裕もない。
仕事に厳しいファイザルの元で働くのは、生半可な者では務まらないのである。
「早急に新しい従卒を、手配して貰うようにせねばならんな」
ファイザルは考え込みながら視線を周囲を見回した。
利便性だけを追求した直線的な室内のあちこちに、書類の山が積まれている。
「そんな寂しい事を。俺はこのままでいいんですよ。俺は三男坊で、家業は兄貴たちが立派に継いでおりますので、郷里に金を仕送りする必要もないですし」
「親御はご壮健なのか?」
彼の郷里は、東部の豊かな穀倉地帯である。実家の父は中規模の町の判事を努めている。
「はい。両親共に元気で、俺の立身出世なんぞ特に願ってやしません。あ、この間すぐ上の姉に男の子が生まれたそうで……今まで孫は全部女の子だったもんですから、大層喜んだ手紙が参りました」
「お前は確か末っ子だったな」
そう言えば、今までこのような話を、この青年とした事がなかったと思い返しながらファイザルは尋ねた。
「ええ。五人兄弟で、兄二人姉二人がおりまして。俺以外は既に所帯をもっているし、みんな近くにいるので両親も安心です」
「それは大家族だな。羨ましい」
家族のいないファイザルは、愛されて育ったであろう明るい瞳の青年を眩しそうにみた。
この青年は殺し合いのさなかにいても、どこか明朗さを持っていた事を彼は知っている。穏やかで豊かな郷里の暮らしが、豊かな情操を育んだのだろう。
「そうでしょうか? 一番上の兄とは親子ほど年が離れていて、いつも俺は叱られていましたよ。親父より兄貴の方が厳しいくらいで」
「いいじゃないか、俺などは親の記憶さえない。ましてや叱られた事など……」
「ですが、閣下は以前俺に話してくれたではないですか。拾われた時に着ていた服に名前と生年月日が縫いこまれていたと。あれは間違いなく親御さんの愛情ですよ。戦場と化した街で、何があってもおかしくないなか、幼子に自分の生まれを……」
言いながらジャヌーは、言葉に詰まった。
尊敬する上官が、どんなに辛い少年時代、戦いに明け暮れた青年時代を過ごしてきたかに思いを馳せている。
五年余り彼の下で働き、ジャヌーはこの厳しい男を誰よりもよく知っていると自負していた。
幸せになって貰いたい。この人にも、あの美しい人にも。
「お前が泣くことはない。俺がとっくに達観している事を」
ファイザルは青年のくしゃくしゃになった顔に頷く。
「苦労や後悔、数々の過ちはあるし、そこから学ぶ事は多いにせよ、過去はただ過去だ。それだけだ」
「左様でございますね。いや、申し訳ありません。つまらぬことを申している間にお茶が冷めてしまいました。淹れなおします」
「あ、ああ、ありがとう」
ジャヌーは照れたようにわざとらしく給仕を再開した。
そんな彼をファイザルは微笑ましく見守ったが、この優しい青年の行く末についても、上官である彼は考えてやらねばならない。
「どうぞ。でも、こんな華奢な入れ物では、直にお茶が冷めてしまうなぁ」
「そうだな」
ファイザルは。盆の上で湯気をたてているカップを受け取った。
男性用ではあるが、彼の大きな手の中では小さく見える。
戦場や地方の基地で使われる食器は、実用重視の無味無粋な物が殆どである。無粋で頑丈で一度に多量の食物を注ぐことができる。当然、冷めるのも遅い。しかし、王宮で使われているものは総じて、このように優美だ。
軍関係の庁舎でさえこれだから、王宮の中心部では尚の事、意匠の粋を凝らした道具が用いられるのだろう。割合順応性に富む彼であったが、これにはいつまでも慣れることができなかった。
「確かに無駄だ。しかし、文化とはこういうものなんだろう。俺たちが利便や合理を追求しすぎなのかもしれん」
「文化は無駄の集積とも言う人もいますが」
「それを言うなら、戦は最も無駄なものだろうな……こんな仕事もそうなるか」
ファイザルはずっと手にしていた書類の束を投げ出す。目は通さなくてはいけないが、それでどうなるものでもない報告書だった。
「大分お疲れのようですね。夕べも遅くまで執務室に灯りがともっていました」
うまそうに二杯めの茶を飲む上官を、ジャヌーは心配している。
寝るのも食べるのも殆どこの棟内で、剣を奮って鍛錬する暇すらなさそうなのだ。恋人との逢瀬はどうなっているのだろう?
「そうだな。だが、贅沢は言えん。戦に比べたらこんなものなんでもない」
「ですが、最近体を動かしておられないのではございませんか?」
「確かに。このままでは体が鈍ってしまう」
「いわゆる髀肉の嘆と言う訳ですな。いや、失礼しました」
ジャヌーはわざとそう言ったが、鍛え抜かれた上官の体と、恐るべき剣技を知っているだけに白々しく聞こえ、直ぐに訂正した。
「閣下の身体は我々の憧れですよ」
かく言う彼も、幅ではファイザルをやや凌ぐ程の体格の持ち主だ。
「閣下はよせ。いや、しかし実際、こうも机上業務が続くと、久々に練兵場で汗を流したくもなるな」
「将軍自ら、稽古を付けてくださるなら若い連中は大喜びでしょう」
自分もまだまだ若いくせに、ジャヌーはそんな口を聞いた。一度でも実戦を経験すると男は変わるものらしい。
「五日に一度くらい雷神殿がふらりと現れますが。それはそれで大騒ぎで。あの方はご自分の気が済むだけ大暴れされると、来た時と同じように、いつの間にか立ち去ってしまわれるのですよ。後には叩きのめされて伸びている奴が累々と」
青年は笑って肩をすくめた。
「セルバローの奴、そんな事をやっているのか」
「ええ、この間など三人がかりでしたが見事に伸されていましたよ……ええと」
苦い顔でファイザルは言ったが、その声に若干の羨望が滲んでいるをジャヌーは感じ取り話題を変えた。
というか、ジャヌーが一番気になっているのは、実はその事なのである。
「そう言えば、例の件、その後の進捗状況をセルバロー殿からお聞きになっておられますか?」
ジャヌーは扉の方を見ながら声を顰めた。
扉は今、取り替えるべく王宮内の工房に手配中だ。しかし、未だ届いていない。
「ない。あの馬鹿が何やら画策しているらしいが、奴は俺にも漏らさないんだ」
「サリアさんもそうなんです。何度か拝み倒したんですけ、口が堅くて」
「だな。だが、お前の方こそ、サリアさんとはうまく行ってるのか」
「え? 俺ですか? 俺はそのぅ、まぁまぁで……いや、俺の事より!」
ファイザルと違って身軽なジャヌーは、サリアと時々会っているらしい。
エルファラン宮廷は、女王の指導で質実剛健を旨とするが、決して閉鎖的なわけではない。気候の良い季節には宮殿や庭園の暗がりで、恋人たちが愛をささやき合っているのを咎め立てする者はいない。
ファイザルは、若いジャヌーがはぐらかすのを敢えて追求しようとは思わなかった。人の恋路には興味がない。
「閣下はご心配ではないのですか?」
「それは……心配するなと言う方が無理だ」
ファイザルは意外にあっさりと認めた。
「しかし、心配しても無駄だろう。セルバローは一度決めたら後には引かない。戦の上では、これほど頼りになる奴もそうはいないんだが、この件はなぁ」
「確かに。身分の高いご婦人一行の護衛ですからね、間違いのないようにしなくては。しかも護衛する本人が、ある意味一番目立つ人ですからねぇ」
「全くだ」
セルバローはどこをどう運動したか、ファイザルが仕事に忙殺されている間にシザーラやレーニエにも時々会っているようだった。
ファイザルにしたところで何とか都合を付けようとはしたが、その都度会議や、緊急の来客などが入って実現しなかったのだ。
今回の件にしても、何とか手配を整えようと延々と書類と格闘し続けたのだが、結局彼が片づける仕事の量より、舞い込む方が圧倒してしまった。
「まぁ、俺の采配に任せとけって、将軍閣下は冷たい執務室の椅子を温めるのがお似合いさ!」
結局は雷神に勝ち誇ったように宣言されただけだった。
固く約束させたので、セルバローが彼に無断でレーニエやシザーラを王宮外に連れ出すことはないが、本心を述べると、問題は彼ではなかった。
レナ。
あの方は時々とんでもなく大胆になるからなぁ。しかも無自覚にやられるもんだから予測ができなくて困る。
迷子を見つけて家まで送るとか言いだしたり、老婆の営む露店の品物を買い占めたりしないだろうか。
とにかく目立つ事はしてほしくない。
やはり、もう一度釘をさしておくべきか。
ファイザルはまたしても、喉元までせり上がってきたため息を飲み込んだ。
代わりに思いきり眉を顰める。ジャヌーはなんとなくその心中を察して困ったように微笑んだ。
くそっ! これだから地位なんてものは!
諦めて、ジャヌーの淹れてくれた熱い茶を再び口にした時、執務室の扉が遠慮がちにノックされたかと思うと、軽い悲鳴とともに転がるように誰かが闖入してきた。
すぐさまその人物の後ろで、勢いよく扉が閉められる。
「わ!」
入って来た人物を見とめた途端、ファイザルは盛大に茶を吹くハメになった。