134 刹那5−1
カラン
乾いた音をたてて、先の摩耗したペンは傍らの皿の上に転がった。
金属製の表面上に、黒い水牛の角で作られた握りが鈍く映りこんで揺れる。
エルファラン国軍7人目にして、最年少の新将軍、ヨシュア・セス・ファイザルは、皿の上で虚しく転がるペンの方を見ようともせず、疲れた眉間を揉みながら窓外へ視線を滑らせた。
深い湖のような彼の瞳は、普段はあまり感情を写すことはない。
ただ一人の人の前を除いて。
すっきりしない天気が続き、今朝も明け方まで雨音が聞こえていたが、太陽が昇るとともに薄紫色の雨雲は消えゆき、嘘のように晴れ渡った。
夏の朝空は高く輝き、慈雨のお陰で一層鮮やかに茂った緑がきらきらと陽に映えている。
そして、木々の後ろに展開する豪壮な建造物群。
白亜宮の通り名にふさわしい、白く輝くエルファラン王宮。広大な王宮の南に位置するこの場所からでも見える、優美な形の尖塔やドームの数々。
雨で洗われてその輝きは、仕事に疲れた男の目に、嫌味なほど眩しく見えた。
天気が良過ぎる……。
同じ姿勢を取り続けていたためか、肩がかちかちに張っている。
彼はゆっくりと大きく肩を回しながら、尚も屋外を眺める。
仕事は好きである。強いて言えば、忙しいのも性に合っている。
例えそれが書類書きと、報告書に所見を付けて印を捺すというものであっても、意味があるなら文句はない。しかし、凱旋してからの事務量が、余りにひどい。事務方が足りないのだ。
ファイザルは小さく溜息をついた。最近このような溜息をつくことが増えたように思う。
あの方は今頃どうされているのか。
恋人であり。今は婚約者でもある娘は、三日前にいきなり無粋な軍専用の庁舎に颯爽と乗り込んで来て、街に出たいと可愛い我儘を言いだし、困り果てる彼を尻目にひと騒動起こして帰って行った。
何とか彼女の納得のいくように納めはしたものの、以来声も聞いてはいない。
その事がこんなに堪えるとは、正直自分でも意外だとファイザルは思った。
偶然か蓋然か、遥か北の地で出会ったのは僅かに三年前。
出会った頃はその風変わりな外見と、痛々しいほど張りつめた面持ちに興味と同情を覚えたのが始まりだった。部下は大切にするが、個人の事情にあまり深入りしない彼には珍しい事であった。
悲劇を背負っているのに、どこか飄々としていて、自分では大真面目で。自分もやっと子どもを脱したところだというのに、小さい子供が大好きで。
中性的ではあるが稀有な美貌を持ちながら、当の本人は、豊かな色彩と体格に憧れている。だが、美しさなど、この不思議な人物の中では、最小のものだとファイザルは思う。
娘は常に諦観を纏い、自分を蔑ろにしていた。
年も身分もこれほど違うのに、どこか自分と似たところがあるようで、目が離せなかった。そして大人であろうと背伸びをしている彼女が痛々しくて、ついつい放っておけなくなっていた。
やがて素直で純粋な心根に惹かれ、守り慈しみたい気持ちに駆られ、終には魂ごと、体ごと愛してしまった。
だが、その娘は彼が仕えるべき主君の一人娘。女王は、かつての恋人の忘れ形見である彼女を、この上なく愛している。
そして、それは彼も同じ。
娘を得んがため、ファイザルは柄にもなく突っ走って将軍にまでなった。
それなのに漸く手に入れても、抱く事はおろか、会う事さえ儘ならぬ。
「はぁあ……」
再び大きく息をつくと、ファイザルは終に立ち上がり、長時間屈めていた背中をぐいと伸ばした。
ゆっくりと窓辺に歩み寄る。
目を凝らしても見えるはずがないのに、ファイザルはレーニエの髪を思わせる白亜の屋根や、壁の間に腰かけたまま目を彷徨わせた。
俯き加減の額に鉄色の髪が懸り、整った鼻梁に影を落とす。髪もいい加減切らなければいけないが、そんな暇があるくらいなら恋人を攫いに行きたい。
せっかく戦を終わりに導いたのに、こんな事態になるとは、ファイザルにしても想定外だったのだ。
漸く自分のものにしたと言っても、まだ一度しか抱いていない。
「……」
手の平に吸いつくような肌を想うと早くなる脈を押さえるため、丹田に力を込めた。あの夜以来、一日に数度やってくるその瞬間。今がその時だった。
声を忍ぶために唇を噛んでいたか……。
あの時は未通のレーニエの体を気遣うあまり、彼は随分と抑えて愛を交わした。
レーニエが今どう思っているのかは知らないが、焦らされているのは、まさしく自分なのだとファイザルは思う。
これほど一人の人間に執着するとは思わなかった。
後悔はない。だが、サマにならんな。
自嘲の笑いを浮かべたところで、じりじりと身を焦がすこの想いは消せるはずもなく。
ただ、会えない。
それだけの事がこれほど堪えるとは、戦地にいる間の一年余りの艱難辛苦はなんだったというのだ。一度でも抱くと、これほど想いが募るものなのか。
きっちり着込んだ軍服に真正面から窓外の陽を受け、ファイザルは瞼を伏せた。
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