131 刹那4
その夜。
「戻ってきたか」
執務室に詰めて報告書に目を通していたファイザルは、ぶらりと入ってきたセルバローに冷たい視線を向けた。
雷神は既にどこかで一杯やってきたらしく、大変ご機嫌である。
しかし、ファイザルは知っている。
今この瞬間に斬りかかっても、この男に傷一つつけられないことを。技量も力も負けないと思う。だが、この男の剣は読めない。その心の内と同じように。
「いいご身分だ。あやかりたいね」
「これでも途中で切り上げてきたのさ。お前が俺を痺れを切らして待ち焦がれていると思ったもんでな。感謝しろよ」
「別に貴様なんぞ待っちゃあいないさ。だが言え、どんな段取りになった?」
「どうという事もない。目立たないように街中の娘っ子の服を着せて、目抜き通りを案内するだけだ。まぁ、姫君が望まれるのなら、食事ぐらいはさせてあげてもいいかな」
「そうか」
意外にもファイザルは異を差し挟まなかった。
「だがくれぐれも店を選べよ? わかっているだろうが、あのお方の身に万一」
「ああ、皆まで言うな! 昔、お前がさんざん浮名を流した店には、絶対連れて行かないさ」
「お、おい!」
「あの頃の女の子たちも、すっかり老けただろうなぁ。案外いい女将さんになっていたりしてなぁ……いや、やり手婆ぁか?」
気持ち良さそうに回想に耽るセルバローであるが、からかわれた男の方は気が気でない。
「お前、結構ワルイことしてたよなぁ。あの子に言ったら驚くだろうなぁ……いや、案外面白がるかなぁ」
「……いい加減にしろよ。やっぱり一度痛い目にあうか?」
「そんなの何回もあってらぁ。脅しにもならないね」
「食堂にお連れするのは許してやるが、絶対妙な店には連れて行くなよ」
「あいよ」
セルバローは気楽に請け合う。
「ここらが一番気になるな。あの方のことだから……食堂の周りは幾重も守りを固め、客はあらかじめ決めておくように。あと出来るだけ人目に触れないように、個室をとって」
「はいはい。可愛いあの子を、その辺の若い男の目に晒さないようにね。過保護なこった」
「過保護で丁度いいくらいだ。何かあったら貴様の首が飛ぶくらいでは済まないんだぞ」
「俺の首の話ならどうでもいい。別段安くもないがな。けどなぁ、お前もさ、ちょっとは可哀相だと思ってんだろうに」
「仕方がない。あの方も聞きわけがない人じゃないからな。ここにいる限り、窮屈なのが日常だと理解しておられる。いずれノヴァゼムーリャに帰ったら、少しは息抜きができる」
ファイザルは考え深く言った。
「とにかく何事もなく、数時間の町歩きを楽しまれたらそれでいい」
「何事もなくねぇ……というか、既に何かあったんじゃないの? あの子が急にあんなに色っぽくなったのはさ。今日久々に会って俺はびっくりした」
「……」
「既にどなたかが、手をお出しになったのかもなぁ?」
「貴様……」
「すごいなぁ、そいつ。俺よく知らんけど、だいっぶお姫様なんだろうに。お前も因果な娘っ子に惚れたよなぁ」
「ふん」
「けどわかるわ。あの子すっごい、いい子だもん」
「言ってろ」
「あ、照れてるなお前」
「照れてない」
「じゃあ言えよ。姫君のお味は?」
「味とか言うな! 無礼者」
「ひゃあ! こらぁ本格的に惚れてるな。してみると、よっぽど良かったんだな。しかし。お前がオボコにかき乱されるなんてなぁ。人生はわっかんないな」
芝居じみてセルバローは頭を振った。緋色の髪が豊かに揺れる。ファイザルは忌々しそうにその様子を眺めた。
「お前こそさっさと身を固めるがいい。その方が世のためだ」
「いや〜俺は、たった一人を選ぶなんてできないなぁ。生まれたての赤ん坊から、しわしわの婆さんに至るまで、女はみな可愛い。可愛くて賢くて強くてえらい。そんで俺を愛してくれる。誰か一人に絞るなんて、そんな非道な事」
「それを卒業しろって言ってるんだ。大体守備範囲広すぎだろ! その内刺されても知らないぞ」
「俺にはそんなコワイ女はいないの。だけどお前……実のところ、俺なんかよりお前の方が怖いんじゃないの?」
「え?」
一瞬、セルバローの言った事が理解できないように、ファイザルは言葉に詰まった。
昔から彼の言葉は何も考えていないようでいて、時として心の死角に楔を穿つ。ファイザルは暫く考え、それから反芻するように呟いた。
「俺が怖いって?」
「怖くないの?」
「……ああ、確かにそうかも知れん。俺は怖いな」
ファイザルは、鋭い朋友の視線から逃れるように目を逸らした。
「聞いてやるよ」
雷神は面白そうに先を促した。
「俺のような男があの方を手に入れて……本当に幸せにできるのかどうか」
「なんだ、そんな事か」
「そんなこととは何だ」
「約束したんだろ」
「それは無論」
「なら遂行しないとな。崇高な任務と思って完遂しろよ。肝に銘じろ。これは命ぜられてするものではなく、望んで行うものだってことをな」
「……」
「愛してるんだろ?」
「ああ」
「ならできるさ。お前がぐずぐず悩んでいる罪とやらも、全てあの子が洗い流してくれる」
「そうかな?」
「なんだ、あの子はそうは言ってくれなかったのか?」
「ああ。だが、レナは俺の罪など全て受け入れてくれているのだろう」
「この野郎、早速惚気けやがって」
「惚気になるのか?」
「なるわ! 腹たつ!」
逞しい胸に、音を立てて拳がめり込んだ。
実はジャックジーン・セルバローは、この物語の中で一番、女性を尊敬しています。
この場面のセリフがそれを語っていて、連載当時は多くの共感を呼びました。