130 刹那3-2
いきなり開いた異空間に赤毛の美丈夫が立っている。
「なんだお前!」
「セルバロー殿!」
恋人たちは慌てて体を離した。ファイザルはすかさず娘を背後に隠す。
「無礼だぞ、弁えろ!」
若い兵士なら竦み上がる怒声にも一向に怯まず、雷神はずかずかと部屋に乱入した。
「わはははは! 来てやったぞ! と、これはこれはレーニエ殿下、ご機嫌麗しゅう。相変わらずお可愛らしいですな」
今やっとレーニエに気付いた風で、セルバローは優雅に騎士の礼をする。その金色の瞳は、にやにやしながら濡れた唇を眺めていた。
「ん? もしかしてお邪魔だったでしょうか?」
ファイザルの額に浮き出た血管を見ているくせに、しゃあしゃあと言ってのける。
「べ、別に邪魔などでは……ジャックジーンもご壮健そうでなによりだ」
「ええ、お陰をもちまして。で、何ナニなーに? 二週間? お前それで机上業務にカタがつくと思ってるのか? 自分の仕事量把握してないの?」
レーニエが立っているのに、セルバローは遠慮なくどっかりと傍らの椅子に腰を下ろした。
「つけて見せるさ」
ファイザルは言い捨てる。
「無理無理。お前はつけるつもりでも、後から後から仕事の方から寄ってくるって。あのね? レーニエ殿下、こいつは、この国になくちゃならない男になってしまったようなんですわ」
「そ……そうなの?」
「大概にしろよお前。王女殿下の前でなんという口を聞く」
苦り切った様子で盟友を窘めるも、その甲斐なく、雷神は益々増長してゆく。
「おや、これは大変失礼しましたな。シテ、レーニエ姫には私がご不快ですか?」
「いーや、ちっとも。仰々しければセルバロー殿らしくない。それにシザーラ殿にもお願いしたのだが、私を殿下とか姫とか呼ぶのはやめて。私でないみたいだから。レーニエでいい」
太陽の様な微笑みにつられ、さっきまで落涙寸前だった瞳がぱっと輝いた。ファイザルは面白くなさそうにその様子を見ている。
「御意。しかしてレーニエ様?」
「なに? ジャックジーン」
「先ほどお付きの方から漏れ承ったところでは、レーニエ様には街中を見てみたいとお望みとか?」
何が漏れだ、こっそり聞いていたくせにと、将軍閣下の顔は雷神より雷雲のようであった。
「そうなのだ……」
「宜しければ、私がお連れいたしましょうか?」
「え!?」
レーニエとファイザルが同時に声を上げた。
「いい加減にしろ、セルバロー! ふざけているとそっ首刎ねてしまうぞ」
ファイザルはついに声を荒げた。セルバローの傍若無人振りが余程腹に据えかねたと見える。
「そんなおっそろしい目でにらむなよ、ヨシュア・セス。お前こそ無礼だろう。レーニエ様の御前だぞ。で、いかがですか? 俺の護衛では力不足ですか?」
憤怒の視線にちっとも臆した風もなく、気持ち良さそうに椅子に凭れかかりセルバローはレーニエに顔を向けた。
「いや、光栄だ。しかし、勇名高い雷神のジャックジーン・セルバロー准将に、私の護衛など頼んでもいいものだろうか?」
どこから聞いたのか、レーニエはちゃんとセルバローの昇進も知っていた。
「レーニエ様! こんな奴の言う事をお聞きなっては!」
ファイザルは慌てて、意気投合しかけるレーニエとセルバローの間に割って入ろうとしたが、意外にも素早い動作でレーニエが前に出た。
「ちょっと待ってね、ヨシュア。うん、ジャックジーン、続けてくれないか」
「御意。ええ、私にしても、いささかまったりし過ぎた王宮の暮らしと、終わることのない机上の事務仕事にいい加減うんざりしておりましたので、レーニエ様のお供で都を案内して差し上げられるなんて、願ってもないことなのでございます」
「自分の都合でものを言うな! 何が事務仕事だ。貴様など、何時も勝手に仕事を切り上げているじゃないか!」
何とか割って入る隙間を見つけ、ファイザルは盛り上がりかけている二人の間を体ごと遮る。
「本気でここからつまみ出すぞ! レーニエ様も御身分を御弁えください。あなたの身に何かあってからでは遅いのです」
「嫌だ。せっかくジャックジーンが護衛をかって出てくれているのに。彼はあなたに劣らぬ使い手なのだろう?」
思いがけない反撃。
「おお! そうですとも、レーニエ様、その意気です。上に立つ者はそうでなくちゃ! お前はじっと椅子に座って痔にでもなってりゃいい……おや、失礼仕りました、貴人の前でしたな——おおっと」
セルバローが大仰に諸手を上げる。ファイザルが今度こそ青い目をいからせて胸ぐらをつかんでいたのだ。セルバローは特に抵抗しようとはしないが、レーニエが慌てて割って入る。
「ヨシュア止めて!」
「あなたは黙っていなさい!」
「さすがに王女殿下の前で殴らないだけの分別は残っているなぁ。なぁ、おい。俺はそれほど信用ならないかな」
「残念ながら、ならんな」
にべもない冷たい声に怯えたように、レーニエは彼の背後から広い背中に両手を当て、頬を寄せた。男がはっと振り向く。
「ヨシュア……お願い。私はこの地の事を何も知らない。街に出て、少しでもいろんなことを学んでみたい。本当にそれだけだし、きっと大人しくするから。ヨシュアがいいと思うだけ護衛をつけるよ。それに危ない事は何もしない。約束する」
「レーニエ様」
泣きそうな顔を見せられて、さすがのファイザルの怒りの矛先も鈍る。
二週間の間、レーニエに瑠璃宮に閉じこもって何もするなと言うのも酷な話である。漸く積年の憂いが晴れて、ひなたに出る事が許された姫君なのだから。
それにこの一見、派手で破天荒な朋輩が、その卓越した実力だけでなく、細やかに気の廻る男だという事を彼は知っていた。
口はいつも罵ってはいるが、レーニエを托せられるのはこの男をおいて他はない。
「……」
ファイザルは、仕方なくセルバローを掴んでいた腕を下ろした。雷神の口角がにっと上がる。
「絶対に無茶はしませんね?」
「ヨシュア! はい。きっと約束する!ありがとう!」
レーニエの顔に、ぱっと喜色が広がったかと思うと、ファイザルの首に軽いものが巻きついた。レーニエが飛びついたのだ。
「他にもいくつかお約束して頂きますよ」
「うん……うん、ヨシュア」
レーニエは、広い胸に顔をうずめたまま何度も頷く。
「決まりですな。こいつのこんな下がった眉は初めて見る」
「調子に乗るなよ。レーニエ様に何かあってみろ、その派手な赤頭を城壁に晒してやるからな」
「うへぇ、おっかねぇ。肝に命じますとも、肝に。将軍閣下」
セルバローはおどけた様子で首を竦めた。
「ヨシュアありがとう! 私嬉しい!」
レーニエは音を立てて削げた頬に接吻した。雷神の前とはいえ、ファイザルは窘める気にならない。
そして。
「きゃあっ!」
「レーニエ様!」
再び扉が大きく開け放たれ、シザーラとサリアが雪崩れ込んできた。セルバローと同じく、扉の向こうで盗み聞きをしていたらしい。
「わ!」
ファイザルは呆気にとられて新たなる客人を迎えた。
執務室の扉を、もっと機密性の高いものに取り換えさせなくてはならぬと心に誓う。それも早急にだ。これでは極秘事項も何もあったものではない。今まで一体何をしてきたのだ、ダダ漏れではないか。
「よかったですわ! こちらに伺った甲斐がありました」
「流石にファイザル様は、懐がお深いですわねぇ」
「うん!」
きゃあきゃあと喜び合う三人の娘の後ろで、自分と同じように苦い顔をしているのは黒髪の少年だ。
「フェルディナンド、頼むぞ。お前が一番分別がありそうだ」
ファイザルは進み寄ると、渋面を作っている少年の肩に手を置いた。彼もファイザルに負けないくらい困惑しているのだろう。
「言われずとも分かっています。しかし、まさかあなたが御承知なさるとは思いませんでした」
甘ちゃんめ、と言わんばかりのフェルディナンドの視線に、苦笑いでもってファイザルも応じる。
「そう睨むな。俺だって不本意なんだ。ただ、俺にも些か後ろめたさがあって、あの方のご不興をこれ以上買いたくはない」
「左様でございましょうとも」
フェルディナンドは冷たく言い放ち、ぷいと端正な横顔を見せた。
「さて、そうときまれば、先ずは段取りを決めなくてはね。それにお色直しの御衣裳も。レーニエ様、あちらでゆっくり御相談いたしましょうか」
セルバローが晴れやかな顔で一同を見渡し、この顛末にケリをつけた。