129 刹那3−1
「なりません」
錆びた声が断固として告げる。
「う……」
「その御様子では、私の答えを予想されていたようですね」
突然のレーニエの訪問。
王宮の奥つきから、こんな端近な軍務棟へやってくるだけでも叱り飛ばしたい気分で、ファイザルは大きな執務机の上で指を組んだ。
その上に乗っているのは、彼女に甘い恋人のそれではなく、深く眉根を顰めた厳しい軍人の顔だった。
会議の休憩中に御成りの先触れが密かに入り、彼が驚いているうちに本体が到着したという訳だ。
「それはそうだけれども……でも」
白い頬の横で脇髪が揺れた。
女王の許しを得て、王宮内は自由に歩き回れるレーニエだが、フェルディナンドの必死の配慮で黒い服に身を包んだいつもの男装である。
長い髪は後ろで編んでマントと帽子で隠している。それでも男ばかりの軍務棟ではあれ? と振り返るほど、この娘の纏う空気は他と違っていた。
ここは王宮内でも、軍関係の建物が集中している南の区域である。
勿論レーニエは初めて訪れる場所で、何もかもが珍しい。渋るフェルディナンドを宥めすかして案内させ、レーニエが訪ったのは、その区域で一番北の大きな建屋である。
四角い建物の並ぶ中で、その棟は将軍や高級将校達、その従僕達が使うもので、宮殿らしい外観を持つている。
他のもっと無粋な建物や、練兵場、馬場などに比べると、まだしも上品といえるのかもしれないが、それでも装飾的なものは殆どない官舎で、男ばかりの空間だ。
ここに至るまでレーニエとシザーラ、フェルディナンドとサリアの四人の小集団は道中かなり目立っていた。
まさか目深に帽子をかぶった小柄な黒衣の少年が、国王の一人娘だとは誰も思わなかったに違いないが、赤毛のシザーラや、官女のお仕着せを着たサリアが颯爽と闊歩する様を、すれ違う兵士や召使達は、みなあんぐりと口を開けて見送った。
士官学校の制服を着たフェルディナンドは、居た堪れない気持ちでいっぱいだった。
因みに今、他の三人はファイザルの執務室に入れてもらえず、控室を挟んだ隣の応接室でジャヌーがお相手をしている。
「あなたのような方を町に放り出したら、まず五分以内にとんでもない事になります。絶対」
「だから、目立たないようにするし、あなたがお忙しいなら、信用できる護衛をつけてもらえば……」
とんでもない事ってどういうことだろう、と思いながらレーニエは嘆願した。
「どうやったら、あなたを目立たなくできるか、ぜひ教えていただきたいものですな」
組んだ指で口元を隠して、ファイザルはこっそりため息をついた。
瑠璃宮や金剛宮と比べると、味もそっけもないこのような無機的な空間の中で、レーニエの周りだけが仄かな輝きを帯びて見えるのは、強ち惚れた贔屓目ではないと彼は思う。
数歩歩いただけで、屯している暇な若者たちに目を付けられ、大騒ぎになるだろう。
「そんなに俺の寿命を縮めたいのですか?」
「そんなことない!」
「俺も、もう若くはないのです。お願いですから、どうかもう無茶はなさらないでください」
「困らせるつもりで言い出したのではないんだ……それにあなたは充分お若い……だから、お願い」
「……」
あまりに能弁な沈黙。レーニエは恐る恐る大好きな青い瞳を覗きこんだ。
「絶対にダメ?」
「ダメです」
「……」
「レナ……」
固く結ばれた唇が僅かに歪む。彼は内心かなり努力をしてそれを保っていたのだが、レーニエにはわからない。
「ごめんなさい……もう言わない」
諦めたように小さく呟いて、白銀の頭が下がった。
「私はあなたに、いつも我儘ばかり言っているな」
「我儘とまでは言いません。お気持ちは十分わかりますし、行かせて差し上げたいのは山々なんですが、今は……どうかお許しください」
もともと多くを望まぬ娘の、たっての願いを聞き届けられぬ自分にファイザルは嫌気がさした。
あの夢のような舞踏会の夜から五日は経っていた上、後数週間も恋人をほぼほったらかしにしてしまうのだ。どうしても負い目を感じてしまう。
さて、どうしたものだか。
「そんなに街に出かけてみたいのですか?」
しょんぼりと眉を下げてしまった娘を見て、仕方なさそうにファイザルは尋ねた。この娘には本当に弱いと自分を自覚しながら。
「……うん」
こくりと顎が下がる。
「あと二週間もすれば、少しは仕事も一段落します。そうしたら俺が国王陛下の許可を得てお連れいたしますから」
「……」
二週間は長い。
それにそんなに日が経ってしまっては婚礼の直前になり、そうなれば、再び儀式に纏わる何やかやで、別の忙しさが待っているような気がする。
そのくらいはレーニエにでも予測がついた。再びがっかりしたように更に眉が下がる。
「そんな顔をしない……」
ファイザルはやれやれと頭を振ると、よいしょと椅子から立ち上がる。
机を回ってレーニエの傍に立つと、すっかり下がってしまった顎を指先で持ち上げた。
半ば閉じた睫毛の下の瞳を覗きこんでやるが、娘は眼を合わせようとしない。
「あなたが悪いわけじゃない。俺の方こそお寂しい思いをさせて申し訳なく思っています。必ずお連れ致しますから、もう暫く御辛抱できませんか?」
可愛くてならないように頬に指が滑る。ゆっくりと唇が下り、泣きそうなレーニエのそれを塞いだ。
「……」
きつく巻き付く腕にレーニエは素直に身を委ねる。圧し掛かるように抱かれ、口腔を貪られても、もう戸惑いはしない。
「お約束いたします」
「ヨシュア……」
再び唇がお互いを求めようとしたその時——
「お〜い! この嘘つき奴!」
ガコーンと大きな音がして観音開きの扉が思いきり開かれた。