128 刹那2
エルファラン国の首都であり、この大陸最大の都市である都、ファラミアを見物する。
ザカリエ大使シザーラの出した提案は、確かに突拍子もなく——しかし、大層魅力的なものだった。
「それは非常に興味深い。行きたい! だけど、どうやって?!」
「レーニエ様、声が大きい!」
居間の中にこそ入ってきてはいないが、扉の向こうにはサリアをはじめ、数名の侍女が控えているのだ。
婚約者たるファイザルでさえ、その訪問には許可が必要だし、フェルディナンドが部屋を貰ってレーニエの世話をしているのは、特別の許可をもらった例外中の例外である。
「すまない! だけどそれは」
慌てて両手で口を押さえ、レーニエはシザーラの隣に席を移った。
「もちろん、レーニエ様がご無理とおっしゃられるのでしたら」
「勿論なりません。シザーラ様」
口を出すフェルディナンドの声は厳しい。
「言うまでもなく、レーニエ様も、ですよ。前代未聞、言語道断です! あってはならぬことです」
少年の灰青の瞳は鋭くなっている。彼は既に従順な侍従というだけではなく、士官学校で学ぶ将来の士官候補生なのだ。
「そこまで言わなくても……」
今までとは異なる顔を見せた自分の元小姓に、レーニエの言葉は弱々しかった。
嘗てレーニエを崇拝して見上げていた少年は、既に背も肩幅も主を追いこし、単身敵地に乗り込んで任務を果たした男の顔になっている。
「そうですわよ、フェルディナンド。充分気をつけて計画を練り、それなりの護衛も同行すれば、それほど危険な行為ではありません。現在のこの国のありようを考えたら」
「一体全体、閣下には、どのような計画をお持ちなのです?」
考え込んで言葉の出なくなった主の代わりに、フェルディナンドが詰問した。
「まぁ閣下などと……嫌味な子ねぇ。でもそうですわね。先ず、護衛ともども市民の姿に身をやつし、ファラミアの主な大通りや広場などを回って、人々の表情や、暮らし向きなどを窺い、それからお店なども覗いてみたいですわねぇ。あと、できたら食事なんかも」
シザーラの計画を聞いているうちに、レーニエの瞳が益々大きくなったが、それを見ないようにしてフェルディナンドが彼女を遮った。
「なんですって!? お馬車の中から、こっそり見物するならまだしも、街中に入り込むですって? ありえません。お二人とも今まで都に出たことがないのです。お許しなど出ませんでしょう」
「あら、私はこう見えても、慣れております。隠遁生活をいいことに、私は幾度も我が国の首都、ザールの下町に出かけましたわ。宰相の家に生まれたからには民草の暮らしぶりや、街の治安など肌で感じて学ぶことは意味があります」
「それは確かにそうかもしれませんが、こう申しては失礼ながら、ザールとファラミアでは都市の規模が違います」
「フェル、無礼を申すでない。それにしてもシザーラ殿は以前からそのような事を試されておいでだったか……お一人で?」
レーニエは躊躇いがちに忠実な少年を窘めたが、その瞳は強い興味の光を帯びている。
「まぁ、護衛はいました。腕の立つ信用できる者を二人ほど」
「ふんふん」
「町はおもしろうございましたわ。勿論フェルディナンドの言うとおり、ザカリエは都といえども、エルファランの様に洗練されてはおりませんけども、それはそれで勉強にはなりますの。なにより宮廷の窮屈さから解放されますし……市井のいろんなものを見られて楽しゅうございましたわ。まだ自由が許された頃には、その様子をアラメイン殿下にお話し申し上げたものでした。あの方もそれは喜んで聞いてくださって……」
「……」
落ちそうなほど見開かれた赤い瞳の煌めきを見て、シザーラはにっこりした。フェルディナンドの剣呑な眼差しにも動じていない。
「レーニエ様はどう思われて?」
「正直大層興味はある。こんな私とて、北の領地ノヴァでは、自由に屋敷の外に出て馬を駆っていたから。もっとも、初めはなかなか受け入れてもらえなかったし、私も王宮の外に出た事がなかったので、なかなかに戸惑うものがあったが」
レーニエはその頃の事を思い、懐かしそうに眼を細めた。
「それに橋渡しをしてくれたのがヨシュアで……ヨシュアと、そう、村の子たちで。以前私がつけていて、どうしても外せなかった仮面も終に取る事が出来て……そうして次第に打ち解け、素朴な人々に囲まれて、私は生まれて初めて深呼吸ができた心地持ちがしたものだった。それまで都と言うか、王宮にはあまりよい思い出がなくて……。きっと今からは違ってくるのだと思うが……そう。母上のおっしゃる通り、私はあまりにも、自分の生まれた場所を知らない」
「レーニエ様」
「うん。だから私は知りたい。自分の生まれたこの地の事を。知って、自分に何ができるかほんの少しでも考えたい」
「……ち」
これはまずい、とフェルディナンドは思った。
大人しいようでいて、好奇心の強いレーニエの気質を、長く仕えてきたこの少年は知り尽くしている。主の真面目な気持ちは理解できるが、どうも宜しくない方向に話が進んでいる。
さて困った。どうしたら思い留まって頂けるだろう。
俺はこの方には究極のところ逆らえないし、姉さんに相談してみようか……だけど、姉さんなら反対にレーニエ様を煽ってしまいそうだしなぁ。
だけどまぁ、こんな事陛下がお許しにならないと思う。
フェルディナンドの思惑とは別に、レーニエの中では夢が膨らみつつあるようだ。
「行きたい、行こう。でもどうやってお許しを貰おうか? 私は恥ずかしながら、そういう段取りも、都の地理も何も知らない」
「ええ、それは勿論。私にしてもこの街は初めてで、土地カンもないですし」
娘たちは額を突き合わせて計画を練り始める。
「ヨシュアに言ったら許してくれるだろうか? 彼についてきてもらえたら一番安心なんだけど」
「それはでも難しいですわねぇ。レーニエ様のおっしゃる通り、ファイザル様に護衛になって頂くのが一番安心なんでしょうけど。将軍を護衛に使うなんて、それこそ前代未聞ですし、レーニエ様のことに限って、お堅い気がしますし。例えファイザル様にその気持ちがあったとして、今現在のあの方を取り巻く環境がそれを許さないでしょうねぇ。ええ、まず無理でございましょう」
無理どころか、酷く叱られちゃうよ。最後の防波堤はやっぱりあの人か……。
「だが、彼に黙って行っては後できっと、とんでもなく叱られる……と思う。フェルとサリアは連れて行くにしても」
あ〜、さすがにそのくらいは予想がおできになるんだ……って! 俺はともかく、姉さんも連れて行くの?
いやいやいや、行っちゃあいけないんだって! うっかり俺までその気になるところだった!
「そうですわね。フェルディナンド達は、ある程度この街のことを知っているはずですし。でも、ファイザル様なら完璧な手配がお出来になると思います」
「うん。きっと」
「レーニエ様、残念ですが、あの人が許可を出さない事ぐらい、俺にだってわかります。ええ、ありえません」
「そうかなぁ」
「そうです」
フェルディナンドが無慈悲に肯定した。
「まぁまぁ、フェルディナンド。少しだけなら、話くらいは聞いてもらえるかも知れませんわよ。護衛は無理でも、何か方法を考えてくれるかもしれないし。レーニエ様が嘆願すれば、きっとお気持ちが和らぎますわ」
フェルディナンドが取り分けたまま、忘れ去られていたお菓子を齧りながらシザーラが呟いた。つられてレーニエもカップに手を伸ばす。
冷めきったお茶も気にならない様子だ。どうやらダメで元々と、腹を括りかけているらしい。
「うん。シザーラ殿のおっしゃる事ももっともだ。黙って出かけるよりいいと思う!」
「な! 黙って出かけるなど、恐ろしい事をおっしゃらないでください! きっと酷く叱られます! 聞いてみるだけ無駄ですし!」
「はい! じゃあ聞いてみましょう! これで決まりましたわね。善は急げと申しますわ、無駄かどうか、早速軍務棟に参りましょ」
フェルディナンドの言葉尻を捉えて意気揚々とシザーラが言った。このあたりはさすがに政治家である。
「ちょっ! 何がどう決まったというのですか?」
慌てて少年が一歩前に出る。
「それはいい、先ずは足を運んで聞いてみないと。忙しいヨシュアを呼びつけるのもどうかと思うし、手間が省けるというものだ。やっぱりシザーラ殿は頭が切れる」
レーニエは優雅に立ち上がり、シザーラの手を取った。
「まぁ、照れますわ」
二人の娘はそのまま部屋を突っ切ってゆく。
「お二人とも人の話、聞いておられます? ……って、ちょっと? お待ちください! 勝手にいかないで、レーニエ様! せめて帽子を! わあぁっ〜姉さん! ちょっと来て!」
朝方の雨は、未だしとしとと降り続いているが、心なしか空は少し明るくなったようだった。