127 刹那1−2
フェルディナンドは、昨日から七日間の休暇を貰い、王宮に帰ってきている。
彼も都に帰ってきてから、戦地での報告やら遅れていた勉学で、働き詰めで、心配したレーニエの懇願で漸く貰えた休暇であった。
「お茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
フェルディナンドは、恭しくシザーラに辞儀をすると、二人が向き合う卓の横で茶の支度を始めた。
手際のよく作業を進める端正な横顔に、シザーラにふと思い当たるものがあった。
「あら? あなたは……」
背筋をまっすぐ伸ばしたまま腰を屈め、シザーラの前にカップを置くと、フェルディナンドは一歩下がった。よく躾けられた召使の様子で、姿勢よく立ったまま、視線を手前の床に落としている。
「前に会ったわね」
赤毛の娘の眉が吊りあがる。
厳しさを帯びたその声に少しも動じず、フェルディナンドは恭しく頭を下げた。動揺したのはむしろ彼の主である。
「あなたに私の弟をご紹介します」
「え?」
ソリル二世に、レーニエの他に隠し子がいたなどあり得ない。
シザーラもその事はよくわかっていたが、レーニエが弟などと言うのには、訳があるのだろう。
「彼はフェルディナンドと申し、幼い頃から私に仕えてくれていた侍従です。それは頭がよく機転のきくよい子で、私にとっては弟同然の……そう、家族といってもよい存在なのです」
レーニエが自分について語る言葉を、フェルディナンドは視線を落したまま、身じろぎもせずに聞いている。その表情はあくまでも静謐である。
「いつから一緒だったか忘れるくらい、長く私に仕えてくれて。でも二年ほど前に士官学校へ入れたのです。学問をしたいという彼の希望もあって。このまま私に仕えていたのでは、彼の将来を奪ってしまうと危惧したもので」
「はい」
「この子はどこでも優秀で、士官学校でもその優秀さゆえに教授方に目を掛けられて。子どもながら特殊な任務を与えられたのです」
「それでザカリエ王宮に?」
シザーラの問いはフェルディナンドに向けられたものだった。フェルディナンドは黙って頭を下げる。
「シザーラ殿、お許しください。彼は命令に従っただけです。えと、きちんと紹介したかった」
「許すも許さぬもありませんわ。戦争とはきれいごとではありませんもの。そういう事もあると知っています。では私とアラメイン殿下の経緯や、その後の事をレーニエ様がご存じだったのは、そう言う訳だったのですね? これでようやく合点がいきました」
「申し訳ありません。私が和平の大使になった理由の一つは、彼の事が心配だったと言う事もあるのです」
「そうなのですか? でも、見事でしたね。フェルディナンド、あなたは召使としても間諜としても優秀なのね」
やや皮肉の交じったその言葉に、フェルディナンドは辞儀でもって返す。
「恐れ入ります」
「あなたの淹れるお茶はとっても美味しいし、見栄えもいいし。レーニエ様はよい弟をお持ちですわね?」
「そう言っていただけるのは嬉しいが、これは真実かどうか、私にはわからないが、ザカリエ王宮に間諜として入ったのは、彼以外にはいないそうです」
「よろしいのです、レーニエ様。レーニエ様が私に気を使われる必要はどこにもありませんわ。国家間の駆け引きは、得る情報の質と量によって左右されるのです」
真面目な顔をしてシザーラは、すまなそうにしているレーニエに言ったが、所詮レーニエが政治に不向きだという事は分かっているので、彼女がこの事に関して仔細を知らされていなかったことは理解できた。
「シザーラ殿……すまぬ」
「レーニエ様が私に謝られる事なんて、何もないのでございます。私としては王宮内の情報管理や、召使たちの身元にもっと注意喚起するよう国元に報告する。ただそれだけの事です。どの国も自分たちに有利な情報を死に物狂いで収集するのはあたりまえのことですわ。たとえ友好国同志でも同じといえましょう」
「……」
「ええ、そうですとも。わが国も今後はもっと、内政面に目を向けなくては?いけません。いつまでも後進国のレッテルを貼られたままではね」
「ん〜」
そういう方面の話になると、素人のレーニエは、シザーラについていけない。しきりに感心して彼女の話を拝聴しているばかりである。
「ええ、ですからこのお話はこれでお仕舞い。それはそうと」
「なぁに?」
「今度我が国には、元老院議長のご一家が参られるらしいですわ。立ち消えになったレーニエ様とアラメイン殿下の婚約話の替わりという事らしくて」
「そうらしい。カーン殿と言われて、私は一度しかお会いしたことがないのだが、誠実そうな方だった。母上の古いご友人だと言う事で」
「今度は、その方がフェルディナンドの代わりという訳で。ソリル陛下もなかなか大胆な事ですわねぇ。国の重鎮を間諜になさるのだから」
「ええ!? まさかそんな……そんな堂々と?」
「まぁ、きっとやり方はいろいろあるのでしょうけど。カーン議長様は、あれでなかなか強かな辣腕家ですからねぇ。これでお爺さまも対抗してますます張り切るでしょうよ。考えようによっては、生きがいができてようございます」
「そのようなものか? 私にはよくわからぬが……だけれども、シザーラ殿にはよかったのでしょう? 例え偽りと言えど、アラメイン殿下が私と婚約などせぬ方が」
「それはまぁ、そうでございますわね。レーニエ様とアラメイン殿下がお二人で並ばれると、それだけでとぉっても煽情的ですものねぇ。お二人の気持を無視して、既成事実だけが先走りしてしまうかもしれませんし、まぁ、よかったのだと思います。ですが、私の事などより、ねぇ、レーニエ様?」
シザーラとて若い娘である。
理屈をこねているようで、嬉しそうに控え目な微笑みを浮かべていたが、不意にその黒い瞳がキラリと光ってレーニエを捉えた。
「な、なんでしょうか?」
今度は何を言われるのかと、赤い瞳の娘は気押され気味である。
「レーニエ様とファイザル様、お二人はご成婚されるのでございましょ? お式はいつですの?」
「あ〜……しばらく先かと」
突然話題転換し、今度はレーニエの結婚の話になった。
「先? どのくらい?」
「ひ、一月後くらいかな? 多分……」
これって言ってもいいのかな、と尋ねるようにレーニエはフェルディナンドを見たが、彼は澄まして茶の葉を換えている。
「では、まだ時間がありますわね。レーニエ様」
「なんでしょう」
「女は結婚すると様々な桎梏に、身をやつさなければなりませんのよ?」
「し、桎梏ですか?」
「ええ、かなり自由を奪われるというか、家庭を守る重責を背負わされるというか」
「よくわからない」
家庭を持つということはおろか、結婚するということ自体が、レーニエにはよくわかっていない。
「つまりね、ファイザル将軍はレーニエ様を溺愛されておられるようですし。きっと結婚されたら、ご自分の掌からレーニエ様をお出しにならないと思いますわ」
「ヨシュアが? そんな事はないと思う……たぶん」
「甘い!」
シザーラは握り拳でドン! と華奢な小卓を叩いた。優雅な茶器がカチャンと鳴る。
「わ!」
お茶が零れて上質な敷布に染みを作った。それを見てフェルディナンドが情けなそうに肩を落とす。後で染みを落とすのは彼なのである。
「まぁ、失礼をいたしましたわ。ですが、レーニエ様、殿方を甘く見すぎですわよ! お人が良すぎますわ。殿方が釣った魚に餌などやるもんですか! 私の母親など、生涯都の屋敷と領地の往復。しかもそこですら、出歩ける場所は限られて、しかも貞淑という名分の元、自らそれに甘んじていたという覇気のないお方で……いえ、母の事は愛しておりますが、私にはそんな暮らしは我慢できないと思っておりましたの」
「はぁ」
釣った魚の例えと、自分がなぜ一緒になるのかわからぬまま、レーニエは頷く。
「ともかく私の言いたいのは!」
「はい」
叱られた子どものように、レーニエはシザーラの話を謹んで承っている。シザーラは暫く考え込んでいたが、やがてその瞳をフェルディナンドに移した。
「そうだわ、フェルディナンド」
「は? なんでございましょう?」
「私はあなたが王宮でなさった事を、怒ったり責めたりしておりませんわ。あなたは大事のお役目で致した事。そうでしょう?」
「それは……はい、確かに」
フェルディナンドは大人しく頭を垂れた。
「そう。あなたはあなたの仕事をしていたのだし、まぁ個人的にちょっと悔しくはありますが、結果的にそれがレーニエ様とアラメイン殿下を不本意な政略結婚から救ったのですから」
一体彼女は何を言いたいのか? フェルディナンドは固唾を飲んで、シザーラのきつい小さな顔を見つめた。
「これは全然関係ないのですけど、あなたはレーニエ様のお伴をすればいいわ! うん、これはよい考えだ」
「あのぅ……お話が全く見えないのだが」
遠慮しぃしぃ、レーニエは疑問を挟んだ。
「レーニエ様? レーニエ様は何かしてみたいのでしょう?」
「そうだけど……何か私にできる事があるの?」
「それに、お退屈されておられる? ファイザル様にもお会いしたいですわよね?」
レーニエの問いには答えず、畳みかけるようにシザーラは質問を次々に発する。
「う……は、はい」
フェルディナンドの方は何かに思い至ったらしく、急に顔を上げた。
「シ、シザーラ様!? もしかしてあなた様は……!」
「レーニエ様が自由に出歩けるのは今だけだってことですわ!」
「自由に出歩く?」
「勿論ご身分がありますから、自由と言いましても、かなりの制約がおありでしょうけども、それでもなんとかなる事もあるのではないでしょうか?」
「おっしゃる意味がよくわからないのだけど」
と言いつつ、だんだん面白そうな顔つきになってきたレーニエを、フェルディナンドはハラハラして見つめている。口を挟む隙を見つけ次第、この無防備で能天気な主を止めなくてはならない。
「つまりね、こういうことですわ」
シザーラは内緒話のしぐさをして、レーニエを手招きした。
「シ、シザーラ様! お願いですからその先を、レーニエ様におっしゃらないでください!」
少年が情けなさそうに嘆願するが、内緒話に夢中になりかけている二人の娘たちにものの見事に無視された。
「え……うん?」
ごしょごしょごしょ
「うん、うん。それで……え? ええ〜っ!」
「わぁっ! レーニエ様! 何だかわかりませんがお止しください! 私が姉さんに殺される!」
滅多に聞けないレーニエの驚嘆、そして少年の絶叫。
「本当にできるの!?」
「ええ、そうですわ」
「それは……でも面白そうだ。ファラミアの都を見物……すごく行きたい!」
「やめてぇ〜!」
少年の必死の叫びは、少しも主に届かなかった。