126 刹那1−1
「レーニエ殿下、お久しゅうございます」
細かい装飾を施した扉が開けられ、赤毛の娘が居間に入ってきた。案内したのはサリアである。
「おお! シザーラ殿、お久しぶりです」
レーニエは、ぱっと喜色を浮かべて立ち上がる。シザーラは踊るような足取りでそれへ駆け寄り、二人の娘は手を寄り合って再会を喜んだ。
シザーラの方が年長だが、背丈はレーニエの方がやや高い。
いつもの男装で、瞳以外は殆ど色彩のないレーニエに対して、シザーラの方は金褐色のきつい巻き髪に緑のドレスという、彼女でなければ着こなせないような配色を選択していた。
かの遥かな戦災の町、ウルフィオーレで出会い、慌ただしく親交を深めた二人の娘たち。
日蔭者の王女と、敵国の前宰相の孫娘で女伯爵という変わり種の二人であったが、彼女達は久しぶりに会った町の娘たちがするように、言葉なのか、笑い声なのかわからぬ声できゃあきゃあと喜びあった。
「シザーラ殿、その服可愛い」
「まぁ、レーニエ殿下にそんな事言われるなんて、なんだかくすぐったいですわ。殿下こそいつもながらお美しいです! それにこのお部屋も、とてもきれい」
すすめられた繻子張りの椅子に具合よく落ち着いたシザーラは、周りを見渡して言った。
「さすがに進んだエルファラン王宮ですわね。殿下のご趣味の高さが伺えます」
「部屋を整えたのは母なのです。それから殿下と私を呼ぶのは、止めにしてください。前から感じていたのだが、自分ではないような気がするので」
「あら?」
「レーニエで。というか、そう呼んでくださる方が嬉しい」
「う〜ん、ですが、ここはまがりなりにでも王宮なのですから、周りに人がいる間は外聞もありますし、お呼び捨ては具合が悪うございますわよ。何たって私は客分とは言え、少し前までは敵国の人間なのだし」
「私はシザーラ殿を、そのように考えたことはない」
熱心にレーニエは言った。
「それでは……レーニエ様。こうお呼びいたしますわ。これなら以前も、このようにお呼びいたしましたし」
「うん、ありがとう」
シザーラの譲歩に銀髪の娘は、にっこり笑った。
瑠璃宮最上階、レーニエの居室。
以前からシザーラに会いたいと、レーニエは母に願い出ていたのだが、いかんせん、シザーラの方が多忙で、なかなか体が空かなかったのである。
彼女は戦後処理の交渉に派遣されたザカリエ使節団の長という立場にあり、国境の管理体制や、両国に渡って伸びている鉱脈の所有権の限界、そして賠償金の年賦の期間等について、エルファラン側と交渉に臨んでいたのだ。
今朝はあいにくの雨模様だ。
久々に降った夏の雨は緑を洗うように、さぁさぁと優しく降り募っている。窓を開けていないので風は入ってこない。瑠璃宮には警備上露台がなく、庇も小さいので、窓を開け放つと雨が吹き込んでしまうからだ。その為、よく磨かれた硝子窓の上を、雨粒が滑り降りていた。
明りを灯していないので、室内はやや薄暗い。
しかし、女王の計らいで美々しく整えられた居間は二人の娘の輝きで、雨模様を退ける勢いで明るく華やいでいる。
「シザーラ殿は、毎日どのように過ごしておいでか?」
心安だてに問うレーニエの今日の装いは、簡素な白いシャツに、いつもの黒い下衣。幅の広い布で腰を縛り横で結んでいる。
およそ姫君にはありえない出で立ちだが、彼女にはよく似合い、化粧もしていない細面の顔は、これほどの美しさを持ちながら、ともすれば少年のような印象を与えるから不思議だ。
「ええ、毎日面白くない中年の殿方の顔ばかり拝見しておりますわ。延々と議論したり、時には討論になったり、公務だから仕方がありませんが」
シザーラは相変わらず、レーニエをうっとり見つめて答える。彼女の赤毛はその部分だけ輝いているように明るい。やせっぽちだが、はち切れんばかりの活力にあふれた娘であった。
「お噂は聞いている。ずいぶんとご活躍のようだ」
「ええ。普段は公務なのですけれど、こちらの法律や慣例など、いろいろ勉強することも多くて」
「ご公務。あなたには、大切なお役目がお有りなのだな」
レーニエは羨ましげに言った。
彼女も、何か自分にできることがないか、常日ごろ探していたのだが、王女として王宮に暮らしてまだ間がないのと、目立ちたくないという理由で、普段は瑠璃宮からあまり出ることはない。
しかし、嘗て忘れられた屋敷で暮らしていた時と違い、レーニエは北のノヴァゼムーリャの領主として、人々のために尽くす喜びを覚えてしまった。
広い荒野を自由に馬で駆ける、伸びやかな楽しみも。
王宮での日々は穏やかに過ぎてゆくが、彼女は次第にそろそろ飽きてきていた。たとえ毎日庭を散歩し、夕餉は母と共にして話を交わしたとしても。
それにあの夢のような舞踏会の夜以降、ファイザルは二、三度ご機嫌伺いに慌ただしく訪問しただけで、夜も昼もずっと王宮の南端の軍務棟に詰めている。
行政とは異なるが、軍には軍の事情があり、将軍という地位に昇った彼は、余ほど忙しいのだと思う。
晴れて婚約者となったのだから、もう少し一緒に過ごせたらと思わないでもないレーニエだったが、我慢強い彼女は、我儘を言って忙しい彼を困らせてもと、じっと寂しさに耐えていた。
ヨシュアには大切な役目がある。
この間伺った話では、部隊で戦死された方々のご家族へのお手紙を、自ら書かれていると。「そんな事をしたところで償いにもなりませんが」と言っていた。
その時、彼女には見せない辛そうな眼をした事を思い出す。
以前にも聞いた事があったが、ファイザルは戦という異常な環境の中で、自分がしてきた事を容認している訳では決してないのだ。
叩き上げの職業軍人の冷徹な顔の裏で、彼がいつも苦しんでいた事をレーニエは知っている。だからこそファイザルは将軍となった今、その地位の下で、戦という、最悪の紛争解決手段を回避できるような仕組みを作り上げようと奔走しているのだろう。
彼は政治家ではないから、出来る事には限界がある。
しかし、彼が上奏した幾つかの提議を実現させるべく、元老院議員であるフローレス将軍や、裏の情報を牛耳っているハルベリ少将にも働きかけているという事だ。
勿論、新将軍の仕事はそれだけに留まらず、通常の軍務や職務もあるからおそらくファイザルは眠る間も惜しんで働いているに違いなかった。
だから私は大人しく待っている。それしかできないから。
しかし一度、人肌の暖かさに包みこまれ、望まれ、愛される事を知ったレーニエには夏の短い夜でさえ、酷く長く感じられ、そして、退屈は如何ともしがたかった。
「私にもできる事があればいいのだが……あまりに物知らずで、何かしようとしても、周りに迷惑が懸ってもと思うと、どうも踏み出せない」
「まぁ……レーニエ様」
「どうしたらあなたのように、賢く振る舞えるのかな?」
「私、賢くなんてありませんわ。そうなりたいとは思いますけど。レーニエ様は、私をそんな風に思っていてくださったの?」
「うん。私などと違って大層しっかりされた人だと。そのぅ……正直、あなたと比べて自分を情けなく感じていました。お気に障ったらすまない。これは私の問題で、あなたには何の関係もない。シザーラ殿には、親しくしていただいて大変嬉しく思っている」
「まぁレーニエ様、レーニエ様の様なお方でも、自分が嫌になったりするものなのですか」
意外な事を聞いたようにシザーラは尋ねたが、それを聞いてレーニエもびっくりしたように顎を引いた。
「え? 私はしょっちゅう自分が嫌になってる」
「意外でございますわぁ」
「そ、そう? それはまたなんで?」
レーニエは本当に驚いているらしい。
「だって、こんなにおきれいで、颯爽としておられて、素敵な恋人もいらして」
「恋び……!?」
聞き慣れぬ言葉に、レーニエはお茶を零しそうになった。
「あら? ファイザル将軍様は、レーニエ様の恋人ではありませんの?」
そんな事は充分承知していたが、シザーラはレーニエを赤面させたくて敢えて問うてみる。案の定、レーニエは白い頬をほんのり染めた。
「さ、さぁ、そう言う言葉を使って考えたことがなかった」
「でも、お好きなのでしょ?」
「……うん」
こくんと頭が下がる。シザーラは思わず微笑んだ。
「そして、好かれておられるのでございましょ?」
「た、多分」
「なら、天下晴れて恋人同士ではございませぬか」
「そ……うなるのかな?」
「そうでございますとも!」
「あ〜、でも、それを言うならば、シザーラ殿とアラメイン殿もそうではないか?」
「それはまぁ、そうなのですが、私たちの場合は子どもの頃からの付き合いですから、恋人というより、腐れ縁と言う方が適切かもしれません」
「そんな事をアラメイン殿がお聞きになったら、さぞやがっかりされるのではないかなぁ?」
悪戯っぽく笑うレーニエに、ひょいと薄い肩を竦めて見せるシザーラである。
「どういたしまして。こんなことぐらいで意気消沈されると困るのです。私はあの方のために国を離れ、様々な事を学ぶためにこの地に来たのですもの。アラメイン殿下にも、祖国のために腰を据えてじっくり考えて頂かなくては。これから兄上である国王陛下を支えて、国を背負う大切なお役目があるのですから」
「そうか」
「私は出来うる限り学んで帰ろうと思います。特に内政に関することを。女王陛下には格別のご配慮をもちまして、元老院の観覧をお許しいただきました。レーニエさまのお母様は、大変素晴らしい方ですね? 私もいつかあのように。人を導ける人間になりとうございます」
高々と宣言するようにシザーラは顎を上げる。その小さな浅黒い顔をレーニエは食い入るように見つめた。
「まぁ。私としたことが、レーニエさまの前で無粋な話題を……申し訳ありません」
穴のあくようなレーニエの視線に気づき、色黒の娘は頬をその髪のような色に染める。
「何を謝られる。シザーラ殿は大変ご立派だ」
「つい熱が入ってしまって……」
「そんなことはない。けれど私は、母のようになりたいなどと思ったことがない……というか、そのような発想で考えたことがなかったので……すごいな、シザーラ殿は」
「あ〜らら? レーニエ様」
輝かしいシザーラの夢を聞いて己を見返り、複雑な表情になってしまったレーニエだったが、その時扉が静かに開き、御茶のセットを乗せた台車が静かに入ってきた。
絶妙のタイミングである。銀色の台車を押しているのは黒髪の少年であった。
フェルディナンドである。