122 帰還7−2
「俺から逃げられるとでも?」
ファイザルはきらりと瞳を光らせる。
獲物を見つけた狩人の瞳だ。
「逃げて見せるとも!」
そう言ってレーニエは、スカートの裾を揺らして奥の柱の陰に隠れる。
「言ってなさい!」
ファイザルは、ばさりとマントを翻した。
下の大広間から、管弦の響きが始まった。
再び舞踏が始まったらしい。軽快な曲が流れる中、薄暗い回廊で無言の追いかけっこが展開する。
柱の陰から別の柱へ、レーニエはひらひらと蝶が舞うように逃げた。
エンタシス様式の円柱は互い違いに立っているから、隠れる場所に不自由しない。
いつもの男物の服を着ていなくても、彼から逃げるのは簡単だと思った。
こんな遊びは小さい者の方が有利だし、黒い大きなマントの裾が彼の居場所を教えてくれる。その反対方向に逃げればいいのだ。
しかし、本当はレーニエにも勝負の行方はわかりきっていたのだ。自分の体力や知恵で、ファイザルに勝てるはずもないことくらい。
ただ、レーニエは解放された気分で、このひと時を味わいたいだけだった。
夜会には参加できなくても、黒髪の美女にはなれなくても、恋する男が自分を選び、見てくれているということに。
有頂天になってレーニエは逃げた。
あれ?
レーニエはちらりと隠れた柱から顔を出した。
足音がなくなったので不審に思ったのだが、斜め後ろの柱に黒い布が見える。
なぁんだ。ヨシュア、丸見えじゃないか。
なら、真後ろに回って脅かしてやろう、そう思って身を反転させた途端、硬い物にぶつかる。
「きゃああ!」
「な〜んだ、大きな口を聞いたわりに、あっさりとっ捕まってしまいましたね」
「なんで!?」
向こうにマントが見えていたのに……すっぽりと胸に抱き込まれ、身動きも出来ないまま、レーニエは疑問符を飛ばした。
ファイザルが相好を崩す。愉快でならないようだ。
「俺のマントがあそこにあるのにって? 簡単です。あなたの意図がわかりましたから、さっさと脱いで、燭台に引っかけておいただけですよ。いやぁ、すごぶる簡単な狩りだったな」
「……悪巧みを!」
「褒め言葉です。戦に勝つには、きれい事だけではできません。さぁ、観念なさい」
そう言って彼はレーニエを抱きしめた。
「勝ちは俺です。姫、褒美を」
「褒美って? あ……」
掴まれていた腕が解放されたと思う間もなくふわりと抱きしめられ、圧し掛かるように背を屈めた男に唇を塞がれる。
今度は直ぐに離れようとせず、何度も擦りつけられる。
「甘い」
にっと笑ったファイザルは、戸惑うレーニエの唇を舌でこじ開け侵入する。
熱いものが自分の中に入り込んでくる感触に、覚えがあった。
それはファイザルを想って眠れぬ夜に何度も再生した記憶。
ああ……。
ずっとこうして抱きしめて欲しかった。口づけて欲しかった。
なのに。
自分の奥から突き上げる疼痛に怯え、レーニエは我知らず、熱い戒めから逃れようと顔を反らした。
しかし、僅かに離れることも許さぬというように直ぐに追いつかれ、後頭を掴まれるとより深く挿入されてしまう。奥で縮こまるものを探り当てると、それは生き物のように蠢いた。
レーニエの思考は霞みが懸り、逞しい胸に縋っているだけの頼りない自分を感じていた。
何も考えられない。
これ……まるで、子どものようではないか。
レーニエの心中を知ってか知らずか、ファイザルは指の背で柔らかい頬を撫でてやった。
腕の中の娘は悩ましく眉を顰め、難しい顔をしている。
「レナ……可愛い」
堪らぬように再び熱く覆う。巻き付いた腕に力が籠った。
一つの影となった二人を包む静かな旋律。
先ほどの軽い舞曲と異なり、それは甘美な円舞曲の弦の調べ。
「踊りませんか?」
漸く唇を離してファイザルが静かに尋ねた。
乱れ前髪を指で後ろに撫でつけてやる。白い額が露わになったが、その下の瞳は自信無げに伏せられる。
「レナ?」
レーニエはまだ少しぼんやりしている。
「あ……うん、でも私は、そのぅ……実はあまり踊れないんだ」
レーニエは恥ずかしそうに俯いた。
「子どもの頃、セバストが楽器を弾いてくれて、フェルやサリアと舞踏会ごっこをして遊んだだけで……舞踏は正式に習ったことがない。でも、あなたはお上手だったね」
「ああ、士官学校の必須科目にありましたから。紳士の嗜みだそうで。ですが、やってみると存外簡単でした。剣術の型を覚えるようなものです」
「そう……そうなの」
ファイザルは、先程外したマントを体に巻きつけると、レーニエの前で騎士の礼を取った。
「姫君、私と踊っていただけませんか?」
「うん。でもあの……どうすれば?」
「お手をどうぞ」
ファイザルは優雅に腰を折って手を差し出す。それはいつの間にか、真白い手袋に覆われていた。
「下手だから、きっと笑われてしまう」
レーニエがあまりに恥ずかしがるので、きっと男と踊るのは初めてなのだろうとファイザルは思った。
柄にもなく口元が綻ぶ。舞踏も、口づけも、何もかも自分がこの娘に教えるのだ。
「じゃあ、仕返しの仕返しができるわけだ」
「……う」
「さぁ、私に体をあずけて」
「わ、私は手袋もしてなくて……」
レーニエはまだもじもじしている。
「その方がいいです。さぁ」
おずおずとレーニエが差し出した手を握ると、ファイザルは滑るように一歩横に動いた。引っ張られるように流れた腰に腕が回される。
「そう。力を抜いて」
レーニエは初めぎこちなく体を強張らせていたが、ファイザルは巧みに彼女をリードした。
さすがに場数を踏んでいるのか、大きな手が腰を支え、前に進むも横に流れるも、まるで自分の意志ではないように体が動く。
薄暗い回廊の奥で繰り広げられるたった二人の舞踏。
円舞曲は他の舞踏曲と違って、あまり体が離れることはない。
腕を伸ばして女性を回し、すぐに基本のステップに戻る。レーニエは体を委ねているうちに緊張が解けてくる。銀色の髪が階下の明かりに煌めいた。
「お上手ではありませんか」
「あなたが私を操っているんだ」
「こんなに軽いパートナーは初めてです」
「さっきのご婦人は素敵に豊かだったね。私もあんな風になれたら」
レーニエは羨ましそうに言った。貴婦人たちが弛まぬ努力をして、少しでも細く見せようとしているのを知らないのだ。
大きくて豊かなものに憧れるレーニエの心情は、理解できない事もないが、その審美眼に、疑問の余地があると思うファイザルである。
「俺は子鹿のようなあなたがいい」
耳元で囁いてやると、娘は照れて真っ赤に頬を染めて話を反らした。
「階下の様子も見たい」
「ん?」
するすると回廊の手すりに近づいてゆく。
見咎められないような距離を残して。レーニエは踊りながら階下の様子を眺めた。他の人たちもこんな感じで踊っているのだろうか?
皆楽しそうだ。
だけど……。
ファイザルに指を絡められて、レーニエはくるりと大きく回った。
あまり広がっていないドレスの裾がふわりと持ちあがったかと思うと、スカートの裾が巻きつくくらい勢いよく抱きとめられる。
真横にステップを踏む時には腰が密着し、一歩踏み出す時にはレーニエの体を割るように膝が差し入れられる。
上から見る舞踏は、こんなに体が接近していないようだが、見る角度が違うとこんなものだろうか、とレーニエは単純に思った。
けれど曲調とステップがどんどんずれてゆく……ような気がする
これではちょっと、体がくっつき過ぎでは?
ホールの男女はここまで接近してはいないような気がして、レーニエはファイザルを見上げた。
とたんにさっと体が回され、柱の陰で抱き寄せられてしまった。
しかし、どういう訳か今度はなかなか体が離れない。それどころか男が自分の肩に顔を伏せ、すがりついている。
なにこれ?
「ヨシュア? まだ曲が……」
怪訝そうにレーニエが見上げると、切羽詰まったような青い目とぶつかった。
「すみませんが……俺の方が限界に来てしまったようです」
あ、あかん、ファイザルが完全に、*っ*んになってる気が!?
どなたか否定してください!