121 帰還7−1
「ヨシュア!」
円柱を背にしていなかったら、後ろへ仰け反ってしまう勢いで、レーニエは顎を上げた。見間違いではない。
たった今まで上から見ていたのと変わらぬ姿で、男が立っている。
「な……何で?」
訳が分からないと言ったていで眼を瞠る姿も好ましい、とファイザルは思った。
「俺を置いて、帰られるおつもりだったのですか?」
「だって、私はもともと出席する予定ではなかったし……オリイが是非にと言うからちょっとのぞきに来ただけで……それに、あなたはたった今まで下に」
「ええ。大変でした。皆、俺が珍しいらしくて、話のタネにしようと集まってくるし」
「そんな……皆あなたを崇拝しているんだ。救国の英雄だと。それに、あなたも楽しそうにしておられた」
「そりゃあ、陛下の後ろ盾で将軍にして頂いた成り上がりの身としては、そうそう無愛想にも振る舞えません。それに俺だって、年齢相当の経験を積んでいますからね。社交辞令の一つぐらい言えます」
「だけど……さっきの赤い服のご婦人は、うっとりとあなたを見つめていた。とてもおきれいな方だった」
「赤い服のご婦人? さぁて、俺は赤と言えば、あなたの瞳以外は目に入らないので。ご婦人はみんな綺麗で覚えられません……おや、レーニエ様どちらへ?」
ファイザルの言葉に、くるりと身を翻して去ろうとするレーニエに二歩で追いつき、ファイザルはその腕を取った。
「帰る!」
ツンと頭をそびやかし、白い肩をいからせて、レーニエは怒っている。
「あなたは、美しいご婦人とお好きなだけ踊られるがよい」
「あなたはお一人で大丈夫ですか? ここから瑠璃宮は結構離れていますが」
「子どもではあるまいし、一人で帰れる。離して!」
力任せに身を捩ったが、特に力を入れているようでもないのに、二の腕に絡みついた指は全く緩まなかった。
「離せと言うに!」
頑固に前を見据えたまま、レーニエは声を上げた。
「そう駄々を捏ねるものではありません。宮廷一の美姫が台無しです」
後で錆びた低い声が囁く。熱い吐息が項にかかり、遅れ毛が首筋を撫でる。薄い肩がびくりと竦んだ。
「せっかくオリイさんが伝言を下さったのに」
「え!?」
意外な言葉に思わずレーニエは振り返り、思いがけなく近い距離に彼の顔があるのを知って、はっと身を引いた。
「オ、オリイが? なに? なんと言っていたの?」
大きな掌に腰が絡め取られている。触れられた部分が心なしか大層熱い。努めて平静を装いながらレーニエは、なんとか威厳を掻き集めた。
「あなたがここにおられると」
「なんでそんなこと……そうだ、オリイはどこ?」
「とっくに戻られました」
「え? そんな、だって、それじゃ帰れな……」
「それ見なさい。一人では帰れないんじゃないですか」
「う〜、来た道を覚えているからなんとかなる」
進退極まったレーニエは珍しく悪態をついた。
「帰る」
「……」
「帰れるんだってば!」
「まだ言いますか、この可愛い口は」
身を屈めた男の指が顎を攫い、熱い唇が触れた。
レーニエの柔らかなそれを楽しむように、しばらく包み込み、ゆっくり離れてゆく。
レーニエの頬は紅潮し、瞳は零れ落ちそうなくらい見開かれていた。
それに比べて男は悪びれもせず余裕たっぷりで、憎らしい口元は吊り上がったまま。
「お嫌でしたか?」
「ち、違……突然で驚いただけだっ!」
「申し訳ありません。こんな無頼で」
ふっと男の眉が下がった。腕の中の娘が可愛くてならないと言うように。
「なんで謝る……」
怒りの行き場を失ったレーニエの声は更に弱い。
ファイザルは仄かに金色に光る衣装を身に付けた娘をつくづくと眺めた。
「おきれいです」
「え!?」
「俺はこんな不調法者で、美しさを表す語彙など持っていないが、そんな服を着ていると、まるで月の精のようだ。誰にも見せたくない」
「そ、そんな……私なんて、ちっともきれいじゃない」
姫君はまだご機嫌斜めのようである。
「そうだ、一度聞こうと思ってたんだ」
ふくれっ面の横顔を眺めていたファイザルは、唐突に別の事を言った。
「な、何?」
「俺が留守にしていた間、ここに触れた者は誰もいなかったのですか?」
男の人差し指がゆっくりと唇を滑った。
「願わくば、俺が触れたのが最後だと思いたい……」
階下からは、人々のさんざめく様子が伝わってくる。
二人は無言で見つめあっていた。
「ええと……」
小首を傾げていたレーニエは、無邪気に言い放った。
「実は一人の殿方に許してしまった」
「え!?」
「実は最近、我が領地に新しく参られた紳士がいらして。それはそれは麗しい殿方で……この春、私が都に出立する折の事なのだが」
「なんですって!? それは挨拶という意味? 触れられたのは唇だけですか?」
レーニエの腕を掴む手に力が籠った。
「どうだったかな? ……ああ、そうだった。それがなかなか激しくて……唇も顎も、鼻の頭までびしょびしょになってしまった。私もつい夢中になって、腕に抱いて頬ずりして……」
「……」
「うっとりしていたら……」
「一体どんな奴だ!」
辛抱堪らぬ様子で終に男は声を荒げたが、レーニエは平気だった。
「腕の中でおもらしされてしまって往生してしまった」
悪戯っぽく眉が上がる。
「おも……らし?!」
「殿方の名はディーン殿。この春先にお生まれになった、オーフェンガルド殿とナディア殿のご令息にあられる」
「……っ!」
百戦錬磨の軍人が愕然と顎を落としている。平常時ならば、決して乱れる事の無い男のまごつく様子を見て、ふふ、と銀の髪の娘は笑った。
「やった! 見事にひっかかった!」
「レナ……」
何とも言えない顔のファイザルを見て、レーニエは笑いが止まらない。よほど嬉しかったのか、体を折って笑い転げている。
その姿は街で目にする娘達となんら変わりはなかった。
「あなたでもそんな顔をするんだ! あははは!」
「……おいたが過ぎやしませんか?」
美々しい将軍の正装をした男は力なく言った。
「だって……だって、あなたがあんまり私をからかうから……」
「からかったつもりはありません。だから……」
「うふふ」
まだ笑いを治められない姫君はするりと彼の腕をすり抜け、背後の柱の陰に走った。
「い〜や、絶対からかった。だから仕返し」
そう言いながら別の柱に逃げてゆく。
「……俺から逃げられると思うんですか?」
今見たら、この一話だけでなく、
視点の混在が甚だしいですが、当時の勢いがあるので修正していません。
長すぎる形容詞や、不必要な文章は割愛しています。