118 帰還4
女王は背後を振り返って言った。
「待たせてしまいましたね。さぞやじりじりしていたのでしょう? もう入ってきていいですよ」
すると奥にある小さな扉が開かれ、そこから銀色が見える。
ファイザル思わず立ち上がり、よろめくように一歩下がったが、一拍遅れて柔らかいものが飛び込んでくる。
普段の彼ならば、部屋の外であっても隠れている人物の気配を察し、警戒していたであろうが、女王の前でかなり緊張していたのか、まったく気づかなかった。
「レーニエ様! 陛下、これは!」
レーニエを抱きとめたファイザルは、愉快でならないように二人を見守っている女王に問いかけた。
「見ての通りですよ。これ、レーニエや、そのようにひしと取り縋っていては、ファイザル殿がお困りになるだろう」
ファイザルが見下ろしても、レーニエは彼の胸に顔を埋めたまま、離れようとしない。華奢な両手で軍服の厚い生地をぎゅうと握りしめたまま。
そんな娘の姿を、珍しそうに母が見ている。
彼女はいつもの男物の服ではなく、淡い草色の簡素なドレスを纏っている。肩甲骨のすぐ下で結ばれた帯が、腰まで広がった柔らかい絹。
髪は下ろしていたが両脇だけ編み込まれ、真珠の付いたピンが所々に挿されていて、まるで朝露に濡れる若葉のような姿であった。
「レーニエ様」
ふわりと抱きしめる。髪から良い香りが立ち昇り、鼻腔をくすぐった。
「待っていたの……ずっと……ヨシュア」
押し殺したような声が胸のあたりから漏れる。
「……とまぁ、こんな具合です。ファイザル殿。この子はもうずっとあなたに会いたがっておりました」
「陛下」
「この子はあなたの他には何も要らぬと申すのです。まったく似た者同士ですね。あなた方は」
そう言って彼女は首を竦めた。やれやれと言う呈である。
「花嫁衣装は私が用意します」
断固とした宣言。
「陛下!」
「ん?」
ようやく顔を上げてレーニエは彼女の母を見つめる。強かな母は、娘に向かって片目を眇めて見せた。
「それと、式は王宮内で挙げるように。無論、内輪で済ませることになりましょうが」
ソリル二世アンゼリカは、深い頬笑みを浮かべて頷いた。
「それから、どうせノヴァゼムーリャに帰りたいとか言いだすのでしょうが、とりあえず、一月はここで私と過ごすこと。それと、一年に一度は都に戻ってくること。これが条件です。どうですか?」
「はい……はい」
こくこくと顎が下がる。母はその滑らかな頬に指をすべらせた。
「可愛いレーニエ。あなたの幸せだけがこの母の願いです。今まで辛かった分までファイザル殿に幸せにしてお貰い」
そう言ってソリル二世は微笑んだ。
「母上!」
レーニエは身を翻すと、今度は母親の胸に飛び込んだ。
自分に対して常に遠慮がちであった娘が、よもやこのような振る舞いをするとは思っていなかったアンゼリカは、非常に驚いていたが、やがてしっかりと腕を回す。
「まさか、あなたに抱きつかれるとは思ってもみませんでした。先ほどファイザル殿にそうした時も驚きましたが、ノヴァの地は、本当にあなたにいろいろな事を教えてくれたようですね。ああ気持ちが良いこと」
すっかり母の顔に戻った女王は、うっとりと愛し子をその胸に抱いた。
「はい……あの地で私は、自分の心に素直になることを学びました」
レーニエは泣くまいとしたが、それは難しい事だった。母の首を抱きしめながら頬に熱いものが伝うままに任せる。
「そのようですね。彼の地で得た縁を大切にされるがよい」
母は優しく娘の背中を撫で、指先で涙を拭ってやる。
「可愛い子。あなたもすっかり大人になられましたね」
そう言うと、女王はまだ湿っている娘の白い頬に唇を寄せた。
そして娘を抱く女王の鳶色の瞳がファイザルを捉えた。
その明確な意思に彼は大きく頷くと、胸に拳をあてて深々と腰を折った。
女王が娘の肩に両手を置いて優しく振り返らせる。ファイザルはレーニエの前で片膝をつき、その白い手を取った。
「姫。レーニエ姫、私はあなたを愛している。どうか我が……我が妻になってください」
静かで強い眼差しがまっすぐにレーニエを見つめている。
赤い瞳が万華鏡のようにざわめいた。
『運命など変えてみせる』
木枯らしの吹くノヴァの地で誓った言葉は、この時に繋がっていた。
いや、もしかしたら二人が出会ったその日から、こうなることは決まっていたのかもしれない。様々な出来事を布石として。
愛している、愛している。
レーニエはよろめくような思いで、彼の言葉を受け止めた。
「はい」
白銀の髪が揺れた。
運命は確かに変わったのだ。
すみません。
ちょっとだけ褒めて欲しいのですが。
よかったら一言だけでも(おずおず)。