117 帰還3
「で、次の問題です」
女王は、再びファイザルを見つめた。
「はい。私の事でございますね」
「察しがよろしいこと。そうです。あなたにも新たに負って頂かなくてなならない責務があります」
俺に何をさせようというのか。
ファイザルは心がびん、と張り詰めるのを感じたが、動じることはない。レーニエを望んだ時に、心など既に決まっていた。
「覚悟はできております」
「おお、それならばよい。ですが責は軽くはありませんよ」
「それも承知しております」
ふむ、と頷いて女王は、背後の卓から一枚の立派な書紙を取り上げ、ファイザルに差し出した。
「では、これを受け取りなさい」
ファイザルはさらさらと書紙を読みくだし、愕然と顔を上げた。
「これは、将軍の辞令」
「おや、何を驚かれます? ファイザル殿の働きからすれば当然の事。既に元老院の認証は取ってある。誰も文句は言いません」
「しかし、私は身分卑しい野人。両親の名すら知らぬ根なし草です。少将と言う、将ある階級に抜擢して頂けただけでも、身に余る光栄で……」
「何を言われる。あなたも報告書にて献策していたではありませぬか。軍では身分のいかんに囚われず、能力のある者が上に立つべきだと。それにね、あなた本気であの子を好いてくれているのでしょ?」
女王はくすくすと笑った。
「ならば、このくらいの覚悟はおありになったのでは?」
「それは……」
確かに。そのつもりで常勝してきたのである。
が、しかし。
「私は、なにも娘の婿に相応しい立場を、と思って、この地位を用意したのではありませんよ。長年続いた戦を勝利の内に終結させた手腕、多くの部下たちに慕われる人望、そして将来を見通せる見識の高さ、そう言うものを全て鑑みて、あなたにこの役割をお願いしている。我が国には貴族でなくては、将と名のつく立場になれぬという、不文律があるそうですが、あなたはその力量で見事に古い慣習を打ち破られているではないか」
「それはそう……かもですが」
「全部あの子のため、なのでしょ?」
鳶色の目が細められた。ファイザルは言葉もなく首肯する。
「なら、断る理由は何もありませぬな」
ほほ、と女王は笑った。
「あなたが無欲なのは知っていますが、我が娘の婿になると言うのですから、このくらいはしていただかないと。さぁ、これで話はついた!」
呆気に取られるファイザルを前に、女王はころころと笑った。
「なんという顔をなされておられる『掃討のセス殿』」
最早堪えようともぜず、ソリル二世は笑い続ける。
なんと言っていいものか途方にくれて、ファイザルは口籠った。しかし、押され続けていてはいけないと思い返し、きっと顔を上げた。
「それでは、私の願いをお聞き届けて下さると言うのですか? あの方を私に賜ると……」
「あなたがこの辞令を収めてくださるならね」
どぉ? と言うように人差し指が書紙を指す。整った眉が悪戯っぽく上がる仕草も、彼の愛しい娘そのまま。
一体この親子は似ているのか そうでないのか、理解に苦しみながらファイザルは立ち上がり、女王の椅子の前に跪き、辞令を頭上に押し頂いた。
「謹んでお受けいたしまする」
「それでよい。我が騎士となり、この国の為に尽くしてください」
女王はいつの間にか隅に控えていた女官に頷いた。大柄な女官は辞儀をすると、いったん部屋から出てゆき、すぐに戻って来たが、その手には先ほどファイザルが預けた彼の愛剣が捧げられていた。
「そなたの剣は既にあの者に捧げられているのやもしれぬが、構わぬな? 同じことゆえ」
「はっ!」
ファイザルは女官から剣を受け取ると、すらりと鞘から抜き去り、水平にして捧げ持つとソリル二世に差し出した。
女王は両手で受け取り、刃に口づけをすると、ファイザルに返す。
キィン
鍔鳴りの音が室内に響いた。誓いの音である。
「して、是非とも伺いたいのですが、ファイザル殿には、あの娘のどこがお気に召されたのです? 母親の私が言うのも何ですが、あれは少々変わった娘であろ?」
二人は、青の間の落ち着いた調度に囲まれて向き合って座っている。
普段なら武器の持ち込みは固く制限されている瑠璃宮だが、ファイザルの剣は、特別扱いとの事で女王自ら許可を出し、傍らに立て掛けてあった。
別の侍女が新たにお茶を入れ替えて出てゆく。今度はどういう訳か、焼きたての菓子まで添えられていた。
「どこか掴みどころがないと言うか、不思議ちゃんと言うか……本人はいたって真面目なのだけれども」
さすがに母親だけあって正鵠を射ている。ファイザルは思わず笑ってしまった。女王の前で初めて漏らす微笑みだった。
「確かに、そのようなところも」
……うん。
笑うと印象がずいぶん変わる。確かに魅力的な男である。
あの娘は、さぞこの微笑みを自分に向けたいと思ったのでしょうねぇ……よぉくわかる。母子して危険な男の魅力には弱いこと!
女王はアンゼリカ・ユールであった時の自分を思い出した。なんだか不思議に楽しくなる。彼女は一口大の菓子をつまみ上げて優雅に頬張った。
「失礼いたしました。自分は何分、言葉を知らぬもので。その……なんと申しますか、あの方は……それは純粋で心根の優しいお方。私はあの方がノヴァの地に参られたその日に、お目にかかったのです」
「聞いています。なにか騒動があったとか」
女王は大層興味を引かれたように身を乗り出した。弾みで茶器がカタカタと揺れた。
「聞かせてください。あなたの目から見たあの子の姿を」
男の目に娘がどう映ったか知りたい。こう言うところは世の母親達と大差ない。
「はい。初め新たな徴税を警戒した村人は、徒党を組んでお馬車を取り囲み、ご領主を追い返そうとしました」
「へぇえ」
「レーニエ様は、驚かれたようではありましたが冷静に対処され、村人たちもその度胸に呑まれたようで、事態は驚くほど速やかに収束したのです」
「あなたが裏で操作していたのでしょ?」
「いえ、たいして。以来、ずっとお傍でお仕えして来ました」
「うんうん」
「確かに初めはすべての事に経験がなく、戸惑いがちであられました。黒い仮面でお顔と心を鎧い、いつも自信なさげに俯いておられて。しかし、やがて蕾が綻ぶようにあの方は、美しい性質を開花させられた。貧しいが素朴な人々に近づこうといつも努力され、新たに産業を興そうとも試みられて。今では子ども達を初め、遍く領民から慕われておいでです」
「……そう」
北の辺境ノヴァゼムーリャでのレーニエの様子は、ドルトンからも報告を受けている。ファイザルの言葉はそれを裏付けたに過ぎない。
しかし、この叩き上げの軍人の口からその事を聞くと、彼女の娘が王宮を去ってから成長したことを改めて認識させられた。
「領民も兵士も、老人も子供も皆、あの方を慕わずにおれません。そして私も」
「ファイザル殿のように世間を知る経験豊かな殿方が、あの浮世離れした娘のどこに惹かれたというのです」
「さぁ、うまくは言えませぬ。お互いしんどい過去があったからかもしれませんが、気がついた時には、抜き差しならないほど愛しい存在となっていました。身分違いだと、幾度否定してみても抑えきれず。畏れ多い事なれど」
「あの子は、自分が勝手にお慕い申し上げたのだと言っておりましたが」
「それは違います。私は最初からあの方に惹かれて……いや、どうも」
大変に困った風で、ファイザルは視線を泳がせる。
「いや……このような事を、人に話すのに慣れていないもので……かなり戸惑うものが……」
「さすがのファイザル殿も照れられますか?」
「どうもそのようです」
仕方なさそうに苦笑を浮かべ、男は前髪を掻き上げた。
慣れない環境と感情を持て余しているようである。
「ふふふ。あの子はあなたに、自分の事をどのように話したのですか? 私や父上の事を」
「それは」
ファイザルはすっと目を細めた。
あれは春の日だったか。
寝台に横たわる儚い影。薄い肩が酷い咳こみで震え、苦しい息の下からその告白は為されたのだった。
「私に遠慮は要りません。どうか教えておくれ。あなたが語るあの子の話が聞きたいのです」
ファイザルは語った。
かつてレーニエが彼に語ったのと同じ話を、今度は彼の口から。
ファイザルの再話の技量は優れており、女王はどのようにレーニエが彼に己が秘密を打ち明けたのか、手に取るように理解することができた。
「成程ねぇ。あの娘はあまり隠し事には向いていないようですね」
「ええ、まったく」
「言いますねぇ。頭は悪くはないようだから、この際少しぐらい政治を教えようかとも思ったのですが、これではとても向いているとは言えませんねぇ」
「ご領地では、良きご領主だと慕われておいでですが」
「ええ。なんだか特産品だとかいう、乾燥させた花を持ってきましてね。お風呂に入れると肌にいいだとか、布を染めるときれいに染まって虫がつかないとか、私にもやいやい勧めるものだから、仕方なく女官達に言うて試させております」
どうやらレーニエは、王都で過ごす間にも営業活動をしていたらしい。ファイザルはおかしくなった。
「ははぁ。リルアの花のことですね。あれを一番先に試されたのは私でしたが」
吹雪の中行方不明になったフェルディナンドを助け出した後、領主館で風呂に入れられた時のことだ。
「おや! そうですか。あの子もなかなかやりますね」
女王は心から楽しそうに笑った。
一番最初に見た時の印象とは大違いだが、あの重々しい雰囲気は、君主と言う立場がそうさせるものだろう。
普段の彼女は、気さくな人柄に違いないとファイザルは思った。何しろ、天衣無縫、傍若無人と言われたブレスラウ公を愛した女性なのである。
「はい。それにウルフィオーレにおいても大変ご活躍で」
実のところ、活躍という言葉が、正しくレーニエの取った行動を説明しているとはファイザルには思えなかった。
あの娘は大体において直情的に行動していたし、誠実ではあったが、熟慮や慎重という観念からは外れていたからだ。
ただ、彼女は常に公明正大で素直であったし、人々の役に立ちたいという純粋な気持ちは真実だった。それ以上何を求めようか。
「大体のところは、ドルトンから聞いています。でも彼の言葉は、いつもあまりに主観が無さ過ぎてね。ソツがなさ過ぎ……正確極まりなくて重宝しますが、いたって面白くない。あなたの口から聞くと、全く別の印象があって、とても面白い」
「海千山千の老宰相にその孫娘、我が軍の将軍、将校から、街の女まであの方に魅入られておりました。それはたぶん素直で、私欲の無いお人柄ゆえんかと」
「まぁ、大賢は大愚に似ると言いますからね。聞きましたよ、あのジキスムント宰相に意見したとか」
「はい。しかし御髪を」
「まぁ、少し軽率ではあったようですが、そのくらいは事後処理で何とかなるでしょう。この件は元老院議長のオリビエに既に報告済みです」
「左様でございましたか」
「いろいろ聞けて愉快でした。あの子はあまり自分の事は話さないのでね。でも、もうそろそろ限界かしら?」
限界。いったいそれはどういう意味だろうか、とファイザルは女王の様子を窺う。大きな瞳が冴え冴えと彼を見据えていた。
「陛下?」
「ファイザル殿」
「は!」
「もう一度聞きますが、あの子を、レーニエを幸せにしてもらえますか?」
歌うような声音。
ファイザルは腕を伸ばして、傍に置かれた愛剣の鞘に触れる。
「陛下に捧げたこの剣に誓って」
「……だ、そうですよ。娘や? 出ておいでなさい」
女王陛下、策士です!
この人を色インにしてもドラマが描けます。