116 帰還2−3
「その地の名はノヴァゼムーリャ」
ファイザルは絶句する。
「あの子に与えた領地です」
かの地の警備隊長をしていた間、北方海洋民族の侵攻の話は聞いていたのだ。
かつての領主が王家の血を引く人物で、略奪の限りを尽くす海洋民族に怯える女子供を城にかくまい、自らは男たちを指揮し、果敢に戦って戦死したと。
その人物がつまり、レーニエの祖父であったのだ。レーニエは、そうとは知らず祖父の亡くなった土地を望んだのだ。
「エディン殿は王家の名を取り上げられた後、ゴドフリ―と名乗られた。身分の低かった母御の家名だとか」
「ノヴァの地では、未だ語り継がれる英雄でございます」
「そうなのですか。私もこの事を知った時には驚きました。娘が……レーニエがノヴァゼムーリャの地を望んだ時には、私も知らなかったのです。なんと言う運命の巡り合わせなのでしょうか」
「……御意」
ファイザルも同感である。
「そう言った次第で、都を遠く離れた地で二度と恋人に会う事もなく、エディン殿は亡くなられた。アルバインはなんと思ったのでしょうね? 昏い自己満足か、それとも従兄弟を死に追いやった自責の念か。どちらにしても」
苦々しげに女王は吐き捨てた。
「後宮に召されたファナ殿は、さぞや嘆かれたであろう。元侍女殿の記録ではお腹に子がいなければ、悲嘆のあまり自害されていたやもしれぬと記されていました」
「……」
「ご心情は私もよく分かる。同じ思いをした者として」
彼女も戦場で恋人を失った女性であった。
「幸いな事にと言うべきか。アルバインはファナ殿が懐妊していた事には気がつかなかった。当然でしょう、後宮に入られた時には、ご本人も知らなかったのだから。そして気づいてからもファナ殿は、口を閉ざすことによって、愛する人との子を守ろうとされたのです」
「王を、王家を欺いたわけですか」
「女なら誰でもそうするでしょうよ。恋人との間を割いた男より、愛する人との子を選ぶでしょう。ともあれ、王が疑いを持ったのは、月足らずで生まれたはずの男の子、レストラウドが、普通より大きいと気がついた時からです。この点、父のカンはあたっていたのです。そう言う事には敏い方でした」
「それで、生まれてすぐの公を臣下に下げられたと」
「そうです。ファナ殿は産辱で亡くなられ、レスターだけが残された。ファナ殿が口を閉ざしたまま亡くなられたので、何も証拠はありませんでしたが、父はレスターを我が子とは認めなかった。ブレスラウ公爵家にレスターは養子に出された。でもまぁ、養子に出されたおかげで、レスターは本当の父親譲りの優れた性質を損なうことなく、伸び伸び成長した訳ですが」
妙に晴々と女王は頷き、視線を窓辺に遊ばせている。
嘗ての恋人を思い起こしているのだろうと、ファイザルは感じた。
「そして、私たちは出会い、恋に落ちたのです。私は子を身ごもった。病と偽り、隠棲して身二つになってから、やっと父に報告をしたのです」
後継と認めた娘の裏切りは、アルバインにとって手ひどい仕打ちだったの違いない。
「アルバインは激昂しました。今にして思えば、なぜあの時、父があんなに激怒したか分かります。アルバインはレスターをひどく嫌っていた。レスターは自分が疎んで追放し、死なせた男と、外見も中身もそっくりだったのです。そして自分の後継者と決めた娘との間に子をなした。そりゃあ、激怒の余り、卒中の一つもおこすでしょうねぇ」
女王はずけずけ言ってのける。
この人が本当にレーニエの母親なのだろうか? ファイザルはなんという言葉で、この言を受ければいいのかわからなかった。
結局その時の発作が元で、病がちになった先王は、その数年後に身罷ったのだ。
「ええ。アルバインには、政治家として尊敬する部分も確かにありました。しかし、正直に申して、父としては最悪の人物でした。私の婚約者には、自分の言いなりになる男が決められていましたし。私はそいつが大嫌いでした」
さも嫌そうに言い捨てるのへ、思わず頷きそうになる顎を、ファイザルは慌てて引っ込める。女王は確かに話がうまい。
「私がレスターとの仲を父に隠したのはまぁ、こう言う訳です。私も随分無茶をしたものですが、この恋だけは誰にも邪魔されたくなかった」
「そうでしたか」
「ですが、レーニエが生まれて私は幸福でした。レスターもそれは喜んでくれてね。でも幸せは長くは続かなかった」
その後の事は、彼女にとっても非常に辛い出来事だったのだろう。
恋人は出征し戦死、最愛の我が子は何者かに攫われたのである。
「この後の事は、あなたもご存じのとおり、我が王家には不幸が続きました。しかもレーニエを攫ったのは我が父と言う疑いがある」
「それは!」
さらに続く衝撃に、ファイザルは思わず声を上げる。
「父は、妄執で嫌いぬいた男の血をひく子どもを、許せなかったのでしょう。実の孫娘だと言うのに。しかし、残念ながらこの件に関して証拠は見つけられなかった。抜かりなく後始末をしたのでしょう。病で耄碌し、伏せったままになったとはいえ、狡猾さだけはなくさなかった人ですからね。レーニエを塔に閉じ込めて世話をしていた女も、それを命じた者に関しては何も知らなかった」
その女こそが、物心もつかぬ幼いレーニエを精神的に追い詰めたのである。そのことからレーニエは、未だに脱し切れてはいないのだ。ファイザルは唇を噛みしめた。
「ええ、誰が聞いても胸糞が悪くなる話です。長くなってしまいましたが、これが先代から続く王家の醜聞です」
女王はファイザルが理解できたか確かめるように、その精悍な顔を見据えた。
「理解いたしました」
「大変結構」
驚くべき物語を話し終えて、女王は、ほっと肩を落とし、冷えた茶を啜った。
ファイザルはその様子を見つめている。暫く彼らの間に奇妙な沈黙が蟠った
「だからね。あの子は、思い込まされていたような、腹違いの姉と弟の間に出来た罪の子どもなのではありません。今話した事柄や、容姿が人と変わっていた事に、心ない人がそのように噂したのでしょう」
「レーニエ様には既にこの事を?」
ここが肝心だと言うように、ファイザルは尋ねた。
「はい。娘が帰ってきてすぐに伝えました。それに、あの子も昔ほど苦悩していないようでした。あなたのお陰でしょうが」
「いえ、私は何も。むしろノヴァの地の風土と、素朴な人々のふれあいが、あの方のお心を和らげていったのだと思います」
「確かにそれもあるかもしれません……で、話はまた飛ぶのですが。ファイザル殿」
「はい」
「聞けば、あの子は彼の地で、ザカリエ宰相ジキスムント殿に、偽りの婚約ならばしてもよいと提案をしたとか」
「そのようです」
「驚きました。あの世間知らずに、よもやそのような真似が出来るとは思わなかった。まぁ、あの子にしてみれば、ザカリエ宰相の思惑通り、アラメイン王弟との婚約話が進んでしまっては一大事と行う事で、苦し紛れに出した提案だったのでしょうが」
「立派な理を述べておられました。ザカリエ宰相も是認せざるを得ないほど」
「ふふふ。あの娘があの調子で正論を吐いたら、大抵の者は謹聴してしまうでしょうが。まぁ、それはよい。確かにあちらの王子にも恋しい方がおられると言うに、無理やり娘を押しつけるも気の毒」
……では、事情が異なれば、押しつけていたかも知れんと言う事か?
「怖い顔をするでない、ファイザル殿。私は、偽りは宜しくないと申したいのです」
険しく眉をひそめた男を、宥めるように女王は笑った。
「いかに屁理屈をこねたとしても、詭弁は詭弁ですから。ましてや誑るのが民とあってはねぇ。露見した時に甚だ面倒くさい」
「御意」
「ザカリエにしてみれば、戦後の混乱に乗じて、エルファランを除く各国から侵攻されるのを危惧しておるのだから、王家の婚姻でなくとも、エルファランが後ろ盾になる補償があればよいのでしょう?」
女王は笑いながら小首を傾げた。このような仕草は娘と似ている。
「そんな事ができましょうか?」
「まぁ、長年娘に苦労をさせた償いに、私も少しぐらいは謀計を巡らせて見せましょう。案外身近に解決策があるもしれませぬ。恩は売っておくものですねぇ」
ザカリエ宰相に劣らぬ老獪な政治家ぶりで、女王は微笑みながら、うんうんと一人頷いた。
「陛下……?」
絶対にこの人の敵には絶対になりたくない、とファイザルは思った。
愉快なレーニエママです!