113 帰還1−2
「!?」
これには女官達も慌てふためいた様子で、女王の傍にまろび寄って来た。
彼女らはいざという時、女王の楯になるように訓練されているのだ。
「へ、陛下!」
「よい」
二人の女官を制し、女王はファイザルに向き直った。
「……」
誰も言葉を発しない。異様な緊張感が漂う中、女王は複雑な目つきでファイザルを見下ろしていた。
「これで貴殿の働きに対する礼は申した。しかし、あなたの用事はまだ済んでおらぬのであろ?」
眼下の男をとっくりと観察した後、女王は言った。
「少し話をしよう。よかろうの?」
「は」
片膝をついた姿勢のまま顔を上げ、ファイザルはまっすぐに主君を見上げた。望むところであった。
「ふ……なるほど。よい目をしておられる。それになかなかの好男子でもあられる」
「恐れ入りまする」
女王はさっと身を翻し、椅子に戻るとゆったりと腰を下ろした。
「軍に入られて、どのくらいになられる」
「そろそろ二十年になろうかと存じまする」
とっくに調べはついているのだろうと思ったが、ここは大人しく応える。
「それは長い経歴をお持ちだ。では子どもの頃からと言う事に?」
「はい。いつからどの軍の所属になったのかも定かではありませぬが、十三の誕生日は、前線の天幕の中で迎えた記憶がございます。そういう卑賤の出自なので、後から送り込まれた士官学校も正規の年数を修めておりませぬ」
「それにしては、なかなか見識に富んだ文辞であった」
「文辞?」
「実はハルベリ殿に提出させた、ここ一年余りの戦闘に関する資料を拝見させていただいた。あれはあなたが認めたものであったな」
男の様子を観察しながら、女王は説明する。
「左様にございます」
意外そうにファイザルは答えた。
ハルベリはファイザルの資料を女王にまで渡したのだろうか、それとも女王の方から要請があったのだろうか?
「私は戦や軍に関しては素人だが、戦闘の経過が克明に記されていて、こう申しては良くないのかもしれぬが、なまなかな戦記を読むよりもずっと興味深かった。のみならず、物資の調達手段や人選まで事細かに示されていて、政治的にも有益とみた。とても直ぐに全て目を通せる量ではなかったが。ファイザル殿は、文官としても充分な才をお持ちのようだ」
「過分なお言葉を」
「聞けば、あなたはウルフィオーレ市のご出身とか。此度、停戦が結ばれたのも同市である。これも何かの縁というべきか」
「縁……私にはあまりそのような感慨はないのですが。そう言うものなのでしょうか」
「私のような者の立場からするとな。そう言う思いも湧く。だがやはりあなたは、生粋の武人であられる。長らく戦ってこられた方の言葉はさすがに乾いておられる。さぞ苦労されたのであろうな」
「さ、幼き折より戦が日常の野人にございますれば、そのような自覚もなく」
男の言葉は淡々と紡がれる。一切の感情を排したその様子は、いっそ清々しく女王の目に映った。
「ですが、畏れ多くも国を統べるお立場の陛下から、そのような言葉を頂けると心満たされる思いであります」
「報告書の末尾には今後の軍の編成や、国境警備体制の見直し、犠牲者に対する補償の事まで提言されてあったな」
「ハルベリ殿は、そんな部分まで陛下に提出を」
ファイザルは眉をひそめた。
確かに報告書の終りには、彼が考えたエルファラン国軍の様々な改革案を書き加えていたが、それは軍事の専門的な事柄で、ハルベリの立場から元老院にでも献策すればいいぐらいに考えていた。
だから、女王から尋ねられるとは、予想外であったのである。
「全て渡すように言うたからな」
「左様でしたか。陛下にはさぞ不遜な輩と思われたでしょうが、長く現場におりました者の愚見と思っていただければ、それで」
「無産組織である軍内部で生産自給構造を確立し、又積極的に駐屯地の土木事業や医療活動に貢献せよとは画期的なご意見であった。十分参考にさせて頂く。現在複製を作らせている」
「は」
再びファイザルは恭しく頭を下げた。どうやら女王は実地の人のようである。このあたりも、彼の知る誰かに似ている。
「しかしまぁ、そなたはこのような事を聞きに、ここまでやってきたのではなかろう?」
女王の意志を測りかねたように黙ったファイザルを見据え、女王は促した。視線が強く絡む。ファイザルにはわかっていた。
ここだ。今がその時なのだ
命を捧げる覚悟の願いを打ち明けるのは。
「は。おっしゃる通り、私は陛下にお願いの儀があって無礼も顧みず、まかり越しました」
「うん」
「私は名も無き平民出身の軍人で、このような場面でどのように振る舞えば良いのかもわからぬ田夫野人。単刀直入に申し上げます。不躾な点は幾重にもお詫びいたしまする」
「申されよ」
「陛下が私の働きにお情けを掛けてくださるのならば、一つ無心をお願いしとうございます」
「無心とな? 申して見よ」
女王は椅子に深く腰を掛けて言った。
鳶色の瞳がじっと男を見つめている。その口元は、どういう訳か面白そうであった。
「は。では申し上げまする。願わくば、ある……ある娘を、私に賜りたく」
錆びた声は、明瞭に女王の耳に流れ込んだ。
「……ほう、娘と申されるか」
眉をきりりと上げて、女王はファイザルを見た。それから僅かに目を細める。言われた言葉をじっくりと反芻しているかのようだ。
「はい」
「それはおそらく、我がよく知る娘であろうな?」
「御意」
鉄色の頭が下がる。
「その者をどうされるおつもりか」
「もしも叶うものなれば、我が生涯の伴侶としたく」
返す言葉は、迅速かつ簡潔であった。
「愛しておられるのか?」
「この世の何よりも」
「これはまた、大層なもの言いである。それで、その娘を幸せにできると申されるか」
「誓いまする。この身に代えましても、必ず」
ファイザルは前方を睨んだまま返答を待った。しかし、否も応も、答えはなかなか降ってこない。
「何卒」
ファイザルは床に額づいた。
男の広い肩をじっと見つめていた女王ソリル二世、アンゼリカ・ユール・ディ・エルフィオールは、ふっとその鳶色の目を細めた。
なるほどな。
ハルベリからファイザルの謁見の要請を聞いた時、彼女は酷く興味をそそられ異例の速さで許可を出した。
彼は驚いていたが、彼女はその訳を話さなかった。
「許す。早速にその者に会うと申し伝えよ」
沈着なハルベリが仰天したことに、彼女は愉快でならぬという様に唇を上げながらそう言ったのだ。
「顔を上げられよ。そう這いつくばっておられては、話もできぬ」
この会見が、このような話になってゆくのであろうとは想定内だったが、これほど単純な言葉で申しこまれるとは想定外だった。
何の修辞も儀礼もない潔い態度は、却って好ましく女王の目に映る。
ふ……
彼女を見上げる碧がかった青い瞳は、強い意志の光に輝いており、削げた頬に鉄色の髪がかかる様子は、男らしい精悍な魅力にあふれている。
なるほどな。
この男が娘をあれほどまで必死にさせた張本人か。
女王は悪戯っぽく笑った。ファイザルは初めてこの人物が笑ったのを見たが、笑うとよほど若く見える。
「ここではどうしても声高になる。青の間にご案内するほどに。立たれよ、ファイザル殿。ロクサーヌ」
そう言うとソリル二世は、驚く女官に何事か耳打ちをし、自らファイザルの前に立って歩き出した。
青の間とはその名の通り、淡い青色の壁紙が張られた落ち着いたしつらいの居間だった。
ここはもう紛れもなく、女王の私的な生活空間の一つであるのだろう。
趣味の良い調度品などもそこここに置かれ、部屋は居心地良い雰囲気で満たされている。
ただし、それはこの部屋を使う住人に対してであって、いきなりこのようなところまで通された部外者にとっては、どこに立っていいものかもわからない。
だが、ここまできて儀礼に拘るのは、却って無礼に当たるだろうと判断し、ファイザルは落ち着いて中央に進み出ると、マントの裾を捌き、示された椅子に座った。
二人はお互いの様子を窺うように、黙したまま座っている。
間もなく先程の侍女の一人が茶の支度の乗った盆を捧げて現れ、これまた黙って茶を淹れると、丁寧に辞儀をして立ち去る。
「遠慮なく寛がれるがよい。ファイザル少将殿」
女王は香りのよい茶を勧めた。
「恐れ入ります」
この茶の香りには覚えがあった。
あの遥かなノヴァゼムーリャの領主館で飲んだことがある。淹れてくれたのは、涼やかな瞳をした少年だった。
女王も一口茶を啜ると、尋ねるような顔をファイザルに向けた。
話せという事だろうと解釈したファイザルは、改めて姿勢を正す。
レーニエがどのように休戦協定の使者を努め上げたかは、ドルトンや将軍達から聞いていた。
かつて王宮の森の奥で、全てを諦めた様子で空を見上げていたあの娘が、どんなに必死になってザカリエ宰相と渡り合ったかを。
しかし、この男の口から話を引き出したい。
「あの娘を妻になぁ……本気で申しておられるのであろうな」
「もちろんでございます。身分の隔たりを顧みれば、恐ろしいほど大それた望みだとは承知しておりますが」
「あの娘の父親は誰かご存じか」
「はい。あの方より伺いました」
「そうか……ならば、その出生に纏わる話も聞き及んでおられような? 私と、故ブレスラウ公爵が異母兄弟だったかもしれぬとな」
「ただの話としてなら」
ファイザルは慎重に答えた。
「そうか……ではもしその話が真実なれば、なんとされる?」
女王は重々しい声で尋ねた。
女王と武人の、丁々発止のやりとりを描くのは楽しかったです!
二人とも、ちょっと気張って喋ってます。