112 帰還1−1
「お待たせいたしました。こちらへ」
年配の女官が告げるのを合図に、ファイザルはゆっくりと立ち上がった。
広大な王宮の北側にある瑠璃宮。
他の豪壮な建造物に比べると、地味な感のある小さな宮殿だが、広大な王宮内でも最も厳重な警備態勢が敷かれている場所だ。
ここは女王の私邸であった。
建物は四層からなり、構造自体は単純で、内装も簡素な拵えになっているが、壁や扉は分厚く堅固である。
しかし、三階以上の階では、目につくところには男性の姿はない。
ここは私邸たる瑠璃宮内でも、極めて個人的な空間で、仕えるものはすべて女ばかりとなっている。
彼女が許した、あるいは呼び出した訪問者を除いて、男はたとえ、実弟のルザラン摂政でさえ無許可で入ることはできなかった。
「国王陛下は、こちらでお待ちです」
女官はそう言うと、特徴のある扉の金具を叩く。複雑な彫刻が施された観音開きの重厚な扉が内側からゆっくり開かれた。
ファイザルがハルベリに、戦闘及び、その関連事項の情報を提供する見返りに国王ソリル二世への目通りを願ってから約三週間。
王都ファラミアに凱旋してから五日目で謁見が実現したことは、前例のない早さだった。
この五日間、レーニエには一度も会っていない。広い王宮内のどこにいるかもわからなかった。
今、開かれる扉の前に立ち、男は運命に対峙する。彼はゆっくり中央へ進んだ。
背後で音もなく扉が閉ざされる。
そこは女王が私的な会見に使う部屋のようだった。広間と言うほど広くもなく、応接室と言うほど狭くもない。
壁の一面に窓はあったが露台はなく、中央にかなり大きな卓が置いてあるほかは家具、調度の類は無い。
念入りに身体検査をされ、武器の持ち込みは一切許されないが、この大きな卓は、万が一の時の防御も兼ねているのだろうとファイザルは思った。
そして。
正面の背の高い椅子に国王、ソリル二世がゆったりと腰かけていた。
背後に大柄な女官二人が控えている他は、室内には誰もいない。
ファイザルが女王に会うのはこれが初めてではない。記憶に新しいファラミア凱旋の折に、祝賀の儀で既に面識を得ている。
しかし、それは王宮内の広場での公の席だったし、彼は居並ぶ将の一人として列席しただけだから、女王と直接口をきいていないし、きける立場でもなかった。
ただ頭を垂れて、元老院議長が述べる祝辞を聞いていただけである。
大きな卓のかなり手前で、ファイザルは膝をついた。
「お初にお目もじいたしまする。この度は私のような卑しき者にお目通りをお許しくださいまして、幾重にも感謝申し上げます。我が名はヨシュア・セス・ファイザルと申しまする」
彼はいつものように気負いも、躊躇いもない平坦な声で拝謁の口上を述べた。
敢えて肩書や階級は言わなかった。
ファイザルは片膝をついて最深礼をしながら名乗りを終え、視線はやや前方の床に落としている。
「ファイザル少将、よう参られた」
落ち着いた低い、しかしよく通る声がもたらされる。声は娘に似ていないとファイザルは思った。
「こちらへ。卓を越えられるがよい」
「は。然らばご無礼仕ります」
促されてファイザルは立ち上がり、ゆっくりと進み出た。頭はやや垂れたまま、視線だけ女王に向ける。
「お背が高くてあられるな」
「……」
意外な問いかけに、何と答えたものかわからない。よってファイザルは恭しく腰を屈めるにとどめた。
女王までの距離は、三リベルと言うところだろう。
似ておられる。
いや、正しくは娘のレーニエが、母親である女王に似ているのだろう。女王は四十代半ばと聞く。髪や瞳こそ明るめの鳶色だが、面差しはやはり似ている。
しかし彼女には、レーニエから受ける繊細な印象は全くなかった。
体格はさほどでもないのに、堂々たる威厳が感じられるのは、さすが二十年以上この国に君臨し続けてきた王者の所以であろうか。
特に厳しい表情はしていないが、整った眉間からはやや冷い印象が感じられた。もしかしたら、わざとそうしているのかもしれない。
この方がレーニエ様の母君。
ファイザルがそう思った刹那、女王は表情をふと和らげた。
「この度はよう働いてくださったとか。話はフローレスから聞き及んでいる」
「恐れ入ります」
「長引く戦は、執政たる者の責任である。私に力がなかったばかりに、多くの者たちに長の苦しみを味わわせた。あなたにも大変なご苦労をかけたのであろう。すまぬ」
エルファランは王政の形をとってはいるが、政は各地方から選ばれた議員からなる元老院が最高議決機関である。
議員は貴族が多いが、中には平民もいる。
王家の意志は摂政を通じてなされ、摂政は王族から選出される。
現在の摂政は、ソリル二世の実弟ルザランであるが、王室の意志は尊重されるも絶対ではない。
国王も摂政も主たる会議には列席するし、場合によっては少人数で構成される評議員会や諮問委員会に出席する時もある。
この形態を取って五十年以上が経つのだから、君主が戦争責任の全ての責めを負う訳ではないと市民でも思うだろうが、女王はそのような言い方をした。
ソリル二世は、内政において人気のなかった割りに辣腕であった父、先王アルフレド三世に並び、名君と評価されている。
彼女の治政の間に街道は整備され、産業は盛んになった。以前は当たり前のようだった役人の汚職も激減した。
ファイザルは政治に関しては素人だが、指揮官となり、大軍を管理する地位になった時から、ある程度は政治向きの事情にも詳しくなる。
軍隊とは。基本的には何も生み出さず、おまけに際限なく金のかかるものだから、資金や物資の流通に不備があると、即座に現場に影響する。
ましてや戦場は南部だけとはいえ、この国はここ数年は常時戦時下だったのだから、上層部の組織が機能していないと大変なことになるのだ。
そういう意味においてこの二十年、この人物は数々の重要な些末事に心を砕いて来たのに違いない。
「さぞや、中央の施政の無能を憤られていたことであろうな」
「そのような事は些かも」
「改めて礼を言う。あなたが今度の勝ち戦の最大の功労者である。この一年余の報告は、受けていた。いかに多くの無辜の若者が命を落としたか、あなたがどんな犠牲を払って勝利を勝ち取ったか……国王として深く感謝申し上げる」
そう言って女王は立ち上がると、正式な礼をとった。それは優雅な所作ではあったが、深々と頭が下げられている。
これは極めて異例の事であったのか、控えていた女官たちが驚愕の表情も露わに腰を浮かせた。
「陛下、何卒そのような事は!」
彼にしてはめったにないほどの狼狽が声に滲み出ていた。
「私にはこうするしか感謝と陳謝の表わし方がない」
「それはあまりにもったいなきお言葉。私は軍人です。軍人が国の威信をかけて戦に臨むのは当然のこと。不幸にして命を落とした者も、その覚悟で戦ったのでございます」
このような場合にどのような態度を取ればよいのか、低く身を屈めたまま焦るファイザルの眼前に濃紺のドレスの裾が見えた。
思わず顔を上げると、傍に女王が立っている。
いつの間にか、歩み寄って来たものらしかった。
ひたと目が合う。