110 障壁23
夏の夜空に黒々と映える、ウルフィオーレ市庁舎。
重厚な扉は今は重く閉ざされ、歩哨の兵士たちの他には動くものもない。しかし、全ての者が寝静まっているわけではない。
将校室から光が漏れている。
「しかし驚いたねぇ。お前がおぼこにヤられるとは、さすがの俺も想像できなかったわ。しかも、国王陛下の隠し子たぁな」
「もうすぐ公けになる」
上着を放り出し、シャツ一枚になったファイザルは、勧められた椅子に腰を下ろした。
夜はすっかり更け、昼間賑わう広場も今は静まり返っている。
「……で、どうするつもりだ」
セルバローは、彼の故郷でとれる蒸留酒を注ぎながら言った。
「さぁて」
乾杯もせずファイザルは、強い酒を一気にあおった。美味だと思ったか、男に頷いて見せる。
「ふん。言ってやろうか? ハルベリに会うつもりだろう」
ハルベリ少将は、軍の暗部とも言われる男で、あらゆる情報に精通している人物だ。ドルトンの上官でもある。
下級貴族出身のハルベリの方が、一応伯爵であるドルトンよりも上官にあたるのは通常では考えられないが、彼がドルトンよりも更に上を行く喰わせ者だと言う事だ。
「ふん」
「色々噂のある男だぞ。書面で面会を取りつけるのか?」
「そんな事はせん。向こうから接触を図ってくる」
ファイザルは腕を伸ばし、セルバローに二杯目を要求した。大振りな杯はなみなみと満たされる。
「へぇ? お前がここしばらく、忙しくしてたのは知ってたけどな……何を考えてる?」
「……さぁ」
ドルトンとの会見後、ファイザルは南部自由国境に放った部下たちを呼び戻し、ドーミエの残党の情報や、周囲の市や村の治安情勢、争いの火種がないかどうか、分析してきた。
戦を経験したものでなければ収集できない事柄が多く混じっている。
それは今後のザカリエはじめ、遅れている南部諸国との国交を推進する国の指導者にとって、貴重な情報となるはずだった。
その上、各国の軍備や部隊の配置についても調べてある。これは守備の左右や背後を突かれることのないよう、彼が早急に手を付けたことの一つであった。
ハルベリの事だから、そんな情報は既に持っているかも知れない。
しかし、ファイザルにも彼独自の着目点で集めた情報の質と量、その分析に自負があった。
この一年余りの戦闘について、その全貌や詳細を知る者は、実際に指揮をとったファイザル以外にはないのである。戦闘地域の天候、地形、敵の将の性格、癖、部隊配置から、戦闘の経過、陣の移動、両軍の被害状況まで、全て記録されていた。
ハルベリがその情報を手に入れたがる事は必至で、彼の方から自分に接触してくる、ファイザルはそう読んでいた。
「まぁ、大方はわかるんだが」
セルバローは朋友の様子から彼の考えを察して、気楽そうに言った。
自分の杯に注いだ琥珀色の酒を、これも一気に煽り、濡れた唇を舐めた。粗暴なようで、一つ一つの動作が絵になる男だ。
「だが、部下に書面で渡せと言われたらどうする?」
「ないな」
ファイザルは自信ありげに断定した。
「俺なら絶対に直に会う。会って人物を見て話を聞く。それから記録を要求する」
三杯目の杯も空になる。
「会ったことがなかったか?」
「昔、一度。だからこそ奴がわかる」
「ふむ、喰えない男同士のお見合いと言う訳か。で、見返りに陛下への接見が条件か、やるねぇ」
単に女王に会うだけなら、以前そうしたように将軍達に頼んでもいいし、ハルベリよりも、より女王には近しいドルトンを通じると言う手もある。
しかし、ファイザルはあえてハルベリに会うつもりだったのだ。それに彼にはある見通しもあった。
「果たして陛下が、個人的に会ってくれるだろうかね」
セルバローの感慨ももっともで、普通なら戦勝功労者として、公の席で労いの声をかけて貰うのがいいところの殿上人なのである。
「よく考えればわかったんだ」
「は?」
「あの方の意図が」
謎のようなファイザルの言葉を測りかね、セルバローは杯を止めた。
「どういう意味だ? なんで陛下がお前なんかに?」
「……いや」
ファイザルにも実のところ、うまく言える自信がない。
ドルトンは、自分とレーニエの事をあからさまには伝えていないと言ったが、ファイザルは、女王が自分の事を見通していると思っている。
レーニエが大使となる事を願ったのなら、母親なれば、必ずその訳を問うたはずだから。
そうなれば、レーニエが二人の関係を隠し通せる訳もなく、その心情を吐露したと読むのが正しいだろう。
その上で、女王は謎を掛けたのだ。
レナに、そしてレナを通じて俺に。
自分の意志を貫け、と女王はレーニエに伝えたという。そしてレーニエはそれを貫徹した。だから、謎はファイザルに回って来たのだ。
陛下は俺を試している
老練な政治家だと聞く、エルファラン国国王、ソリル二世。レーニエ様の生母。
「ただ、そんな気がすると言うだけだ」
ファイザルは、好奇心ではち切れそうになっている戦友に視線を送り、再び杯を空けた。瓶の酒はかなり少なくなっている。
このくらいでファイザルが酔うはずもなかったが、長く酒を絶っていたためか、いつもより饒舌になっている事がセルバローにはわかった。
「で?」
頃はよし、と彼は、最後の酒をファイザルの杯に注ぎきる。最後の一滴まで。
「もう抱いたのか? あのお姫様を」
「……」
男は杯を受けながら黙っている。
ここから先を白状させるには、もう少し飲ます必要がありそうだ、とセルバローは、二本目の瓶の栓を抜いた。
「まぁ、見たらわかるけどな。清らかさ炸裂だもんなぁ」
二本目の瓶が半分ほど空いた頃、さり気なくセルバローは呟いてみせた。
「なら聞くな」
ファイザルは忌々しそうに唸った。
開け放した窓からは夜風が心地よく入り込み、酒で熱くなった体を冷やしてくれる。
昼間は風の強い曇天だったが、今では雲は吹き攫われ、星が幾つか見えていた。
「柄にもなく攻め倦ねているじゃないか。若いころ何人もの女を袖にしたファイザル閣下が」
気持ちよさげにセルバローは戦友をからかった。
「お前……余計な事をいうなよ」
からかわれた男は、剣呑な雰囲気を両肩に漂わせてセルバローを睨みつけたが、雷神は動じない。
「おや? 余計な事って?」
「……貴様」
「それって、街一番の美人でカタブツの後家を一発で落として、おっ死んだ亭主の後釜に望まれた話とか、ドケチ商人の屋敷に忍び込み、そこん家のいき遅れワガママ娘とイタす寸前にオヤジに見つかり、すっ裸でとっ捕まりそうになった話とか、ヤクザの情人の味見を……」
流れるような弁説は留まるところを知らない。
「む、昔の話だ! 小僧だった頃の! それにお前だって叩けば埃が上がる身だろうが!」
慌ててファイザルはお喋りな男を遮る。
驚いたことに、彼は本当に狼狽しているようであった。腰が浮いている。セルバローは、爆笑しそうな自分を押さえつけた。
「俺はいいんだよ。王女殿下を恋人に持つ身じゃないからな」
「……」
「だけど、あの子は聞きたがるだろうなぁ、お前の武勇伝」
「言ってみろ。二度と女を口説けないようにしてやる」
ファイザルは低く凄んだ。
新兵なら失禁するか、気を失っていたかもしれない。
「言いたいなぁ。すごく」
セルバローは武人にしては形のいい指に杯を挟み、ランプの灯に翳しながら色を楽しんでいる。
「……まぁ、今はやめておくかな。お前の弱みを握るってのも滅多にない話だし。だけども」
ついと、金色の瞳がファイザルに流れた。
「なんで今日、手ぇ出さなかったの?」
「……できるもんか」
意外にも答えが返ってくる。
セルバローは内心ニヤリとほくそ笑んだ。どうやら酒が効いて来たようだ」
「何で? ああ、欲情するにはあまりに華奢すぎるか。確かに細っこいもんなぁ。あの子」
「お前は知らないんだ」
苦々しそうな応え。
「へえ~、何を?」
「あの赤い瞳で見あげられて見ろ! 普段でも妙な気分になる。それになんて言うか……」
ファイザルは、何かを思い浮かべるように暗い天井を見上げた。
「仕草は幼いのに、時々変に色っぽいところがあって……本人はわかっておられないだけに、俺は冷や冷やする」
宙を彷徨っていた瞳が下げられ、眉間にギュッと皺が寄る。
いろいろ苦い経験があるらしい。残りの酒が一気に干された。
「他の男に見せたくないと?」
そろそろ限界かな? と、セルバローは考えながら続きを促す。
「そうだ……って、つまらん事を聞くな! 言っておくが、ここはまだ戦場だ。明日も早い、もう休むぞ!」
ファイザルは乱暴に杯を置くと、剣を取って立ち上がった。
「はいはい(そんだけ聞きゃ充分だ)。だけどさ」
立ちあがって送り出すのも面倒だったので、彼は広い背中に最後の言葉を投げかけた。
「何だ!」
さも嫌そうにファイザルは振り返る。
「お前、間違いなく苦労するぞ」
僅かに怯んだように鋭い顎が反らされたが、すぐに射るような視線が帰って来た。覚悟を決めた男の目だった。
「望むところだ」
「ふむ」
「あの方は……何を犠牲にしたって惜しくないほど類稀な……俺はだから……くそっ、馳走になった! お休み!」
今度こそお仕舞いだと言うように肩を聳やかせ、ファイザルは部屋を出てゆく。セルバローはにこにこしながらそれを見送った。
「お休み」
くっくっくっ。
薄暗い室内に男の忍び笑いが響く。
あの男がねぇ……変われば変わるもんだねぇ。恐るべし恋の威力。
セルバローは残りの酒を杯に注いだ。それで最後だった。
に、しても。
旨そうに杯を傾ける。燃えるような赤毛がランプの光を受けて、瞳と同じ金色に輝く。
これはもう少し見届けないとね!
喉を鳴らして雷神は熱い液体を嚥下した。
男同士の会話を描きたかったのです。
あと一話で、この章終わり!