109 障壁22−2
「こんな時間に失礼いたします」
シザーラは、晩餐用の衣装で部屋に入って来た。
対してレーニエは、湯あがりの髪も乾かさぬまま、急いで身につけたいつもの通りの黒の平服だ。
「私こそ、このような成りで申し訳ない。さっき湯を使ったばかりで……今日は少し遠出をしていたものだから。それであの、晩餐の儀は今夜は断ろうと思って、先ほどそう申し伝えたのだ」
「あら、存じませんでした。それなら私も断ればよかった」
「え? お身体の具合でも?」
「そうではなくて。あの、失礼を承知で申し上げますが、私はレーニエ様と少しお話がしたいと思いましたの。レーニエ様さえよければなのですが」
「ああ、そう。私は構わない。ちょうど一人で身を持て余して……あ、いや、その……サリア?」
「はい」
「今ならまだ間に合うかもしれない。ドルトン殿にシザーラ殿と私はここで夕餉をとると伝えて」
「かしこまりました。それでは厨房にもう一人分、こちらに運ぶように申しますね」
「ありがとう」
サリアはレーニエが同年代の娘と仲良くなるのを、喜んで身軽に部屋を出て行った。
「で、シザーラ殿。お話とは?」
椅子を勧めながらレーニエは尋ねた。
「……」
シザーラは、うっとりとレーニエを見つめていた。長い髪は早く乾くように解きほぐされ、滝のように背中に流れている。
湯上りの頬が上気して白い肌に際立ち、同性ながら惹きつけられずにはおれない妖艶さだ。そのくせ、すらりとした身に纏う男物の服が大変よく似合い、アラメインを見慣れているシザーラですら見惚れてしまう。
「シザーラ殿?」
「えっ? これはご無礼いたしました。つい見蕩れてしまって」
「何に? ま、とりあえずお座りになられよ」
「はい。では」
シザーラは、はす向かいに置かれた婦人用の椅子に腰を掛けた。目線が同じ高さになり、今度は鋭い観察者の目でレーニエを見つめる。
「あの、レーニエ様?」
「なぁに?」
「レーニエ様は、先日お慕いされる殿方がいるとおっしゃられておられましたが、私、要らぬお節介を申したでしょう?」
「え!? でもあれはお節介ではなくて、ご忠告だと思っているけど」
一体何を言われるのだろうと、レーニエは目をぱちくりさせた。
「この間のお話ではその……レーニエ様は、その殿方に厭われているとか。あの……」
「ああ、それはもういいんだ」
晴々とレーニエは宣言した。
「まぁ! それでは、きちんとお話ができましたのね!」
「え、うん、まぁそう。それで……その方も私を……そのぅ」
「まぁ! そうなのですか。それはようございました。実は私、余計なことをしたのではないかと、ずっと気に病んでおりましたの」
「いいや? シザーラ殿のご助言は大層役に立った」
「あ、ああ。その事は。でもそれだけじゃなくて……え~」
「ん?」
レーニエが襲われた日の夜、ファイザルに喧嘩を売ったとはまさか言えないシザーラである。
おまけに啖呵まで切ってしまい、あの後どうなるかと内心ドキドキしていたが、上手くいったんだからまぁいいや、とこの事は伏せておこうと心に決めた。
あの人は、女の悪口を言うような男じゃないし……レーニエ様には絶対にばれないわ。
「いえ、あの……あの時とはお顔のご様子が全然違います。今お幸せ?」
「……たぶん」
「ふ……それはようございました。これで私もお節介のし甲斐があったというもの。どなたかは存じませんけど」
「あ~、あの」
ファイザルの事を打ち明けたものかどうなのか、レーニは居心地悪そうに、椅子の上でもじもじと指先を弄っている。
「お名前を伺おうと思っている訳ではありませんの。ただ同じ恋する女として嬉しかったので」
「ありがとう」
「私も……私も同じ思いをしておりますから」
シザーラの率直なものの言い方は、レーニエの好みにあった。
「アラメイン殿は、どのようにあなたに接するのですか? 伺ってもよければ」
「殿下はそうですね、お優しい方です、でもお優しすぎて……よく迷われますの。ドーミエがずっと宮廷や政治を牛耳ってきたので、仕方がないのかもしれませんが、今回の事も随分迷っておられた。以前申し上げた通り、私を諦めようとさえされて……それは私も同様なのですが」
「うん。よくわかる。あの方もそうだったから」
「まぁ」
「自分の生い立ちや経歴に、苦しんでおられた。だけど、私にとっては、あの人の生き方、心のかたち……そんなものがどうしようもなく好きで……瞳に自分を映してほしくて、ここまで追いかけてきてしまった」
レーニエは込み上げる想いの大きさに言葉をなくした。そんな彼女を理解のある眼でシザーラが見つめる。
「ええ、そうですわ。女にとっては、恋しい方と供にあること以上の幸福はありませぬ」
「その通りです」
「ですが、私……あの、ご相談事があるのですが」
シザーラはちょっと居住まいを正した。
「なんでしょう?」
「私はレーニエ様と共にエルファランの首都、ファラミアに赴こうと思いますの。おじい様の許可は既にとってあります」
恋する乙女の顔は消え失せ、宰相ジキスムントの後継者としてのシザーラがレーニエの前にいた。
「あなたがファラミアに?」
驚いてレーニエは腰を浮かせる。
「はい。かの地で我が国代表の一人として、平和条約締結の準備をお手伝いさせて頂きたいと」
「そう言えば、シザーラ殿は政治家になられるのだったな」
「はい。我が家に生まれた者の宿命にございますれば。父も兄もドーミエのために既に鬼籍に入っておりまする。残ったものは私しかおりませぬ」
「それだけで、あのジキスムント殿が後継に指名するとは思えぬが。あなたには優れた資質があられる。私などから見れば、大変ご立派だ」
「レーニエ殿下こそご立派ですとも! ともあれ私は、ファラミア行きが楽しみになってきました。エルファラン国では学ぶ事が多くありましょう。けれど、無礼な事を申しますが、レーニエ様とお近づきになれることが、一番嬉しゅう存じます」
「私もあなたともっと語り合いたいと思う。だが、私はいずれ領地に帰らねばならない」
「ご領地? 国王陛下の一人娘の殿下が王都にお住まいになられないのですか?」
「王都には私の居場所はない。だから母上に乞うて北の辺境に領地を頂いた。そこで名ばかりの領主に納まっているのです」
「北の辺境……でございますか」
先日その話を聞いたシザーラはレーニエの表情から、さぞかし素晴らしいところなのだろうと感じる。
「いつか行ってみたいですわ! ええ、本当に」
「ああ、ぜひ来られるといい。冬が長く、貧しい土地柄だが、人々は懸命によく働く。心は美しく、皆穏やかに暮らしている。とても心安らぐ場所で」
「レーニエ様はその土地を、人々を愛しておられるのでございますね」
「そう……とても。早く帰りたいと思っている……あの人と一緒に……」
夢見るような瞳は、遥かなノヴァの地を思い浮かべるように、窓の外に馳せられた。